別れ

 東から、強い風が吹いてきた。


「皇帝陛下。出立の準備を」


「すまない。だが、もう数分だけ、ここの空気を吸わせてくれ」


 近衛兵に申し訳なさを感じながらも、ウルピノスは動けないでいた。


 木材、編み壁、わらで作られた、粗末で素朴な空気を感じられる住居の立ち並ぶ田舎村。


 ウルピノスは出ていきたくなかった。二度とこの地を踏むことができない気がしたから。だが、彼は行かなければならない。


 東から押し寄せる、狂暴な蛮族を撃退するために。


「陛下!」


 村につんざく嘆願の声が、皇帝の足をさらに重くする。


 振り向いて、それに応えたい。でも、振り向いてはならない。


 今すぐ馬に拍車をかけて、ここを離れなければ。


 ウルピノスはそうと分かっていても動けなかった。聞いていたかった。特別な思いを寄せる異性の声を。


 ここに留まれば、ずっと声を聞いていられる。それこそ死が二人を分かつまで、皇帝は彼女と語らいたかった。


「陛下。ご決断を」


 村を発つきっかけを近衛兵がつくってくれた。迷ってはいられない。ウルピノスは鉄兜を被り、白のリネン製鎧に身を包むと村の郊外に進んだ。彼は居並ぶ兵士たちの前に騎乗姿で立った。


「我々はこれから未知の蛮族に戦いを挑む。一兵たりとも生かして帰すな! 我々が敗れれば待つのは世界の破滅。決して退いてはならない」


 一呼吸おいて、ウルピノスは最も強調したい事を、魂をこめて述べた。


「強大な敵を前にして、心がくじけ、足がえ、剣を持つ手から力が抜けることがあるだろう。もしそうなったら思い出せ。我々が守りたいものは祖国だ。それでも駄目なら、父、母、息子、娘、祖父母、友人、恋人……愛する者の顔を思い浮かべろ!」


 村の郊外に轟く「おう!」という野太い男の合唱。進撃の合図とともに、十万の武装集団は東に進んでいく。


(すまない。君の言葉は決意を鈍らせるのだ)


 ウルピノスは背後の叫び声に反応しなかった。いや、できなかった。してはならなかった。


 馬に拍車をかけると、皇帝ウルピノスは軍の先頭へと走った。


 風は向きを変え、今度は西に吹きつけた。


 ウルピノスの涙が、後ろで立ち尽くす女性の頬にぴしゃりと当たる。一人にされたと感じたのか、彼女は涙が枯れるまで慟哭どうこくした。


 これが二人にとって、しばしの別れとなるのだった。

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