第13話 放課後相談室は慈愛に満ちている

 給食の時間、春喜はカレーライスとサラダを乗せたお盆を持って桜とともに隣に並んで廊下を歩いている。桜の手にも同じメニューが乗ったお盆がある。


 朝の出来事のあと、泣きじゃくりまともに授業を受けることができる状態でなくなった加奈は午前中をずっと保健室で過ごした。桜も大半をその対応に当てていたため、授業は別の先生が行う時間が多くなっている。


 桜は保健室で加奈と一緒に給食を食べることになり、二人分を桜一人で持って行くのは難しいということで春喜は自分が持って行くと名乗り出ていた。桜と二人になりたいという下心よりも贖罪の気持ちの方が大きかった。


「ありがとね、春喜君」


「い、いえ。たいしたことではないです」


「教室の様子はどう? 皆ちゃんと授業受けてくれてる?」


「は、はい。皆静かにしています」


 咲奈も瑛太もあのあとは何も話さずに口を閉ざしていた。陰鬱で重苦しいオーラを発しながらじっと自分の席に座っている姿に、クラスメイト達もいじったり話しかけたりすることを遠慮しているようだった。


 教室の中はひどく静かで、春喜の隣の席の唯は不機嫌そうに咲奈や瑛太を見つめていた。


 咲奈や瑛太と一番仲が良いはずの春喜は二人に対してどうすることもできずにいた。原因の一端は自分にもある。そう考えるとなんと声をかけるべきか分からない。


「それなら良かった」


 微笑む桜に胸がチクリと痛んだ。決して良い静かさではないことを言うべきか、桜に余計な心配をさせないためにこのまま黙っているべきか、悩んでいることを誤魔化すように桜に尋ねる。


「坪倉さんの様子はどうですか?」


「大分落ち着いてきたよ。心配してくれてありがとね」


「委員長ですから」


「ふふ、そうだね。咲奈ちゃんと瑛太君はどう? 他の先生からは落ち着いているって聞いてるけど。春喜君から見て、どうかな?」


「二人は……」


「いつもとは違う、かな?」


 言い淀んだ春喜を桜は見逃さない。春喜は無言で頷く。


「それはそうだよね。好きな人とかその人本人に言うのも勇気がいるのに、皆の前で言ったりそれに答えたり、しんどいよね」


「先生もそういう経験があるんですか? その、彼氏とか……」


 春喜が何気なく、つい放ってしまった言葉に一瞬だけ桜の目が見開かれた。だが春喜が異変に気がつき、桜の顔をまじまじと見つめた頃にはいつもの優しい目に戻っている。


「私はないよ。友達に似たようなことがあったの。皆の前で彼女がいる人に告白して振られちゃったんだ」


「その人はどうなったんですか?」


「高校生の時の話だし、明るくて前向きで切り替えが早い人だったからどうにもなってないよ。その人とは今も連絡とってるし、告白した人の彼女も含めて仲良し」


「なんで皆の前で告白なんてするんでしょう? された方は断りにくくなりそうだし、した方も断られたら恥をかくじゃないですか」


「加奈ちゃんがそうだったのかは分からないけど、私の友達は『雰囲気に流されてオッケーしてくれるんじゃないかって思った』って言ってたかな。まあ、恋人や他に好きな人がいないとき限定だけど。瑛太君は咲奈ちゃんのことが好きだったんだもんね」


「そうですね……」


「春喜君は知ってたの? 瑛太君の気持ち」


「はい」


「そっか……難しいよね、人を好きになるって」


 桜はそれだけを言って、知っていたならなぜ何もしなかったのかと春喜を責めることはしない。イレギュラーな出来事で余計な仕事が増えているはずなのに、嫌な顔一つせずいつも通りの優しい桜でいることに春喜は尊敬の念を抱いた。


 二人は保健室の前に到着する。両手のふさがった桜が中に呼び掛けると、養護教諭が扉を開けて桜の持つお盆を運んで行った。桜は春喜が持っているお盆を受け取り保健室の中に入って行く。その背中を春喜は頼ることにした。


「先生、放課後時間があったら少し相談させてもらいたいことがあるんですけど、いいですか?」


 この件は自分にも原因があること、咲奈の気持ちと咲奈への気持ち、バスケのこと、桜の指輪のこと、今まで溜まりに溜まった様々なことを打ち明けたくなった。


 流れで漏らしてしまった言葉とはいえ、親友である瑛太の告白は春喜に決意と勇気をもたらしていた。揺れる瑛太の目を見たときに、安全圏にいるのではなく自分もそちら側に行きたいと思った。


 傍観者ではなく当事者になりたいと思った。何もできない自分に腹が立った。


「午後は瑛太君や咲奈ちゃんとも話そうと思ってるの。授業中に終わらなかったら放課後になっちゃうかも。それでも待っていられる?」


「はい。何時まででも待ちます」


「何時でもはちょっと……まあ、遅くなったら仕事帰りのお父さんに車で迎えに来てもらえばいいか。それじゃあまたあとでね」


「はい。あの、クラスのことは心配しないでください。副担の小川おがわ先生の言うことをちゃんと聞くように皆に言いますし、俺に任せてください」


「うん、頼りにしてるよ。委員長さん」


 礼をして、両手がふさがっている桜に無理はさせまいと保健室の扉を閉めると「ありがとう」という言葉と少しずつ遠ざかる足音がした。


「ふぅー」


 廊下を一人で歩きながら春喜は大きく息を吐いた。話す約束は取り付けたもののそれはあまりに衝動的なもので、冷静になってみると考えがまとまらない。何を話したいかは分かっているがどこまで話すかどんな順番で話すか、自分の桜への気持ちまで話すのか、悩みながら歩いているといつの間にか教室まで戻ってきていた。


 少しずつテンションがいつも通りに戻ってきたクラスメイト達。だが相変わらず咲奈と瑛太は一言も発せず黙々と給食を食べていて、席に着く春喜は不機嫌そのものの表情の唯に迎えられた。





 放課後、春喜は教室の教員用の机の近くに自分の椅子を持って行き桜と向き合って座っていた。咲奈や瑛太との話はそこまで時間がかからずに終わったようで、帰りの挨拶が終わって春喜以外の全員が教室から出るとすぐに相談を始めることができた。


「坪倉さんは……?」


「保健室で親御さんの迎えを待ってるよ。落ち着いてはいる。もう少しすれば大丈夫だと思う」


「こればっかりは自分で折り合いをつけるしかないですもんね」


「……難しい言葉を知ってるんだね、春喜君」


「そ、そうですか?」


「うん。たくさん本を読んで、しっかり勉強している証拠だね」


 桜はしみじみと春喜を見つめる。春喜は桜のその視線が好きだった。包み込んでくれるような、見守ってくれるような柔らかい眼差しが否応もなく胸を熱くさせる。


 広い教室の中で二人きり。桜を独り占めにしている。その事実に心を躍らせながらもなんとか本題に入る。春喜が大きく深呼吸して冷静さを取り戻すと桜も春喜をじっと見つめて話を聞く姿勢になった。


「俺、一ヶ月以上前に坪倉さんとか寺田さんと約束していたんです。瑛太に好きな人がいないか聞いて坪倉さんたちに教えるって。でもなんとなく言い出せなくて、やっと昨日訊けたけど坪倉さんたちには話せてなかったんです。俺が遅くなったから坪倉さんは待ちきれなくなって、こんなことになったんです。俺のせいなんです」


 委員長としてクラスに騒ぎが起きたこと、桜の仕事を増やしたこと。親友として瑛太に図らずも気持ちを打ち明けさせてしまったこと。咲奈にも言わなくてもいいことを言わせてしまったこと。


 懺悔するかのように桜に打ち明けた。叱って欲しいのか、慰めて欲しいのか、春喜自身にも分からない。ただ、自分の行いが問題が起きる要因になったことを胸の中にしまっておくのが気持ち悪くて耐えきれなかった。


「どうしてなかなか瑛太君に訊けなかったのかな?」


 桜が優しく尋ねる。外から入ってくる光が桜の前髪を留めているパステルイエローのヘアピンに反射してきらめく。春喜はそちらを見つめることで桜と見つめ合う恥ずかしさから逃れる。


「はっきりとは分からないんですけど、多分……」


 人を好きになるということを真剣に考えたからだ。桜への気持ちは早々に自覚していたが、咲奈への感情の正体に悩んだこと、咲奈が自分に向ける感情を察したこと、龍に桜への気持ちを打ち明けたこと、これらが合わさっていくら親友の瑛太と言えども、好きな人というデリケートな質問をする決心をするには時間がかかってしまった。


「好きな人ってすごく大切な秘密だから簡単に訊けなかったんだと思います」


「そうだよね。恋の話ってとっても大事だよね。それが原因で人間関係が変わっちゃうこともあるし。時間をかけて考えてから訊いた春喜君の判断は間違ってないと思うよ」


「でも、そのせいで――」


「春喜君は悪くない。春喜君が責任を感じることなんて何もない」


 そう言い切る桜の表情は慈愛に満ちている。自分のことをとても大切に思ってくれている、そう感じた。


「加奈ちゃんたちとの約束は時期を決めていなかったんでしょう?」


「はい……」


「ならやっぱり春喜君に悪いところなんて一つもないよ」


「そう、でしょうか……?」


「春喜君はとっても責任感が強い。よく考えて、自分のことよりも他の人のことを優先して、春喜君が委員長をやってくれて本当に良かったって思ってる。いつも頼りにしてるよ。でも、責任感が強すぎて起きた問題を全部解決しようとしたり自分の責任だって考えたり、無理をし過ぎちゃうところもあるかな」


 春喜は委員長として桜のため、クラスのためになりたいと思って頑張ってきた自覚はある。 


 だが、桜の言う通りに無理をしていたという自覚はない。


「そこまで頑張ってないですよ。無理なものは無理だって諦めることはありますし」


「龍君にずっと声をかけ続けてくれたじゃない? 今日だって皆に静かに真面目に勉強するように呼びかけてくれたって小川先生言ってたよ。毎日の授業や掃除もそう。そんなに大きなことじゃないかもしれないけど、春喜君が皆にちゃんとやろうって言ってくれる小さな積み重ねがクラスを良くしてくれて、私のことも助けてくれてる。だから……」


 桜はふいに自分の前髪を留めていたヘアピンに触れた。ヘアピンを見つめていた春喜はハッとして桜の顔を見ると目が合う。気づかれていた、と春喜は恥ずかしさを感じながら桜の言葉を待つ。再びの慈愛の表情。


「あんまり悲しい顔はしないで欲しい」


 見透かされている。春喜はそう思った。


 今まで優等生として生活してきて、勉強も人間関係もそつなくこなしてきた。少なくとも誰かを傷つけたという経験は自覚がなかった。喧嘩はいつも仲裁に入る側、人の悪口も言わない、約束事は必ず守る、知りえた秘密は決して明かさない。


 そんな春喜はミスを犯し、加奈を泣かせた。いつもうるさいくらいに元気な瑛太を黙らせてしまった。咲奈が自分に話しかけてこない日などなかったのに、一言も話さなかった。それらのことに動揺して、悲しんで、後悔していたことに桜は気がついていた。


 桜はあくまで教師として、大人として、自分を見守ってくれている。頼りにしていると言いながら常に庇護下に置いて、春喜と桜の間には明確な一線が引かれている。とっくに分かっていたはずの一線を改めて強く実感した春喜は桜から目を逸らしてうつむく。


「加奈ちゃんは瑛太君の好きな人が自分じゃないっていうことは薄々気づいてたけど、目の前ではっきり言われちゃってびっくりして泣いちゃったんだって。最後には瑛太君が振られたならチャンス来たんじゃない? ってちょっと張り切ってた。瑛太君も咲奈ちゃんの好きな人が自分じゃないってこと、知ってたから平気だって。今日ずっと黙ってたのは色々考えて気持ちを整理したかったからだって言ってたよ。咲奈ちゃんのこと応援するって意気込んでた」


「咲奈は……?」


「……いきなり言われたからつい雑に言い返しちゃったけど、もっとちゃんと考えて瑛太君を傷つけないように言えば良かったって。瑛太君に何て言おうか考えてたから静かだったんだって。皆大丈夫なの。明日からは元通り。だから春喜君は何も悪くない」


「……はい」


 桜の表情や声色は優しい。だが、どこか有無を言わせない威圧感や緊張感があるような、絶対に罪悪感なんて抱くなよ、という意思を感じた。


 それが桜の願いならば、春喜はこの件に関してこれ以上悩むことをやめるしかない。


「分かりました。俺、自分のせいだって思うのはやめます。瑛太と話してフォローするくらいにしておきます」


「……う、うん。そうだね。じっくり話してみるといいよ」


 なぜか歯切れの悪い桜に違和感を抱きながらも春喜はいつもの調子を取り戻す。真面目で好奇心旺盛な優等生。悩み事や困っていることはしっかりと大人に相談できる。


「先生。まだお時間ありますか? 他にも相談したいことがあって」


「うん。加奈ちゃんのお迎えが来るまでは大丈夫。放送で呼んでもらうことになってるけど……まだ時間はあるかな」


 左手首の内側に着けた腕時計を見ながら桜が答える。手の甲が春喜に向けられて何も着けていない薬指も確認できた。これについても訊きたいがまずは小学生らしく悩み相談から入ることにする。


 相談をしてくれることが嬉しいのか、桜はニコニコと微笑みながら待っている。

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