第12話 大好きな人には好きな人がいる

 七月に入り加奈や唯から催促される頻度も増えたこともあり、春喜はやっと重い腰を上げて瑛太に好きな人がいるのかという問いをぶつけた。灼熱の日差しを避けるように日陰を選んで歩いている下校中のことだ。


 夏休みにあるピアノの発表会に向けて平日も特別レッスンをすることになった咲奈は母親の車で先に帰っている。


「瑛太って好きな人とかいるの?」


「え? は? い、いや、いきなりなんだよ。あ、暑さでどうかしたのか?」


 シンプルで直球な春喜の問いに瑛太は狼狽する。それはまるで咲奈と二人で話しているときのようだ。


「どうもしてないよ。なんとなく気になっただけ」


「なんだよそれ……春喜はどうなんだよ。春喜が教えてくれたら俺も言ってもいい」


「その言い方だといるってことだね」


「あ……いや、そうだよ! いるよ! 好きな人くらい」


 開き直った瑛太の顔は茹でだこのように赤い。ずっと日陰を通っていたし水分補給もこまめにしていたので熱中症ではないはずだ。


「お前はどうなんだよ」


 ここから加奈のことをどう思っているかに繋げるにはどうしたらよいかと考えていた春喜に、ごく自然な反撃が放たれる。春喜の脳内に思い浮かんだのは桜の顔だった。


「いるよ。俺も」


 春喜がそう言った瞬間、興奮気味だった瑛太の表情が冷静さを取り戻す。


「……咲奈か?」


 歩みを止めて放たれたその言葉、その真剣な眼差しに春喜は瑛太という人間の本質を垣間見る。普段はお調子者で騒がしいが、スポーツなどの真剣勝負の世界で見せる姿は同性の春喜から見ても惚れ惚れするほど格好良い。そのギャップに多くの女子が惹かれ、男子も自然と瑛太の周りに集まる。


 これは瑛太にとって真剣勝負なのだ。だから春喜も真剣に答える。咲奈への感情の正体を春喜はまだ知らない。間違いなく言えるのは桜が好きだということ。


「違うよ」


 何故だか少しだけ胸がチクリと痛む。同時に張りつめていた瑛太の表情が和らぐ。


「じゃあ、俺が……咲奈のこと好きだって咲奈に言ってもいい?」


 形を持たないもやもやとした感情が春喜を支配する。真剣な瑛太を応援するのは当たり前のことだと思うが、はっきりと「いいよ」と言えない自分に春喜は驚く。


 それを言ってしまったら自分の大切な何かが失われてしまうような、これまでの日常が、当たり前が崩れてしまうような気がして、何も答えることができなかった。


「いいよな? 春喜は別に咲奈のことなんとも思ってないんだろ?」


 瑛太は春喜の両肩を掴み、問いかける。目の前に迫る親友の必死な表情に春喜は根負けして頷いた。


 この日はずっと春喜の中にもやもやとした何かが蠢いていた。




 事態が動いたのは翌日の朝だった。


「私、瑛太君のことが好き」


 朝の読書が始まる直前、加奈が瑛太に告白をした。担任の桜はまだ来ていないが、クラスメイトはほぼ全員登校しているため、全員の視線が教室前方の席に座る瑛太と、唯に手を握られながらそばに立つ加奈に向けられる。皆が瑛太の返答を待っている。


 ああ、まずいことになった。


 昨日瑛太と話したことは結局自分の中で処理し切れず、加奈たちには話せていない。おそらくは頼りにならない自分に痺れを切らして行動に出てしまったのだと、春喜は後悔をしながらただの傍観者になる。


「え、えっと」


「私を瑛太君の彼女にしてください」


 上ずった声で言いながら加奈が瑛太に向かって頭を下げ、唯に握られていない方の手を差し出す。


 教室中から歓声が沸き上がる。期待の眼差しから瑛太は逃げる術がない。


 早く返事をしろ、その手を握れ。教室中の感情が春喜にも分かるほど一つにまとまっていく。


 加奈の隣では唯がにやつきながら瑛太を見ている。これは唯の差し金だと春喜は理解した。


 逃げ場を塞いで、了承せざるを得ない状況を作った。瑛太がここで断れば、加奈にとてつもない恥をかかせることになる。だがこのまま瑛太の本音は違う。こうなったのは報告が遅れた自分のせいだ、と春喜は唇を痛いほど噛みしめる。


 間に入って誤魔化すか。加奈に恥をかかせず、唯も納得するような収め方があるか。悩みに悩んだがどうにもならない。それでも、親友を救い加奈たちへの贖罪をするために立ち上がった。委員長としてとりあえず注意をすればいい。桜が教室に来るまで時間を稼げればいい。桜ならきっとうまく収めてくれる。


「何してるの?」


 教室前方から聞こえたその声に春喜は瑛太たちのもとに向かっていた足を止め、ざわざわとしていた教室から音が消えた。


 教室の空気を一変させたのはトイレから戻ってきた咲奈だった。状況を理解できておらず、頭を下げながら手を差し出す加奈と、困惑する瑛太を交互に見た後、この場で最も冷静さを保っていた唯に視線を向ける。唯はしたり顔で答える。


「加奈が瑛太君のこと好きだって告白したの。今は返事待ち」


「ふーん。良かったね、瑛太」


 まるで興味がないかのように咲奈は瑛太の肩を軽く叩いて自分の席に向かう。教室の静寂は維持される。だが、すぐに静寂は破られた。瑛太が自分の肩を叩いた咲奈の手首を掴み、引きとめる様子にざわめきが起こる。


「あっ」


 無意識に体が動いたのだろう。自分の行動に驚いた表情をする瑛太と行動しかねている春喜の目が合った。


「何?」


 咲奈が振り返ると同時に高い位置で一つに結ばれた長い髪も動物の尾のように暴れ、やがて咲奈のまっすぐな体の軸に沿って床に向けて垂れた。冷静で普段の様子そのままの咲奈の声が瑛太に向けられる。


「お、俺は、咲奈のことが好きなんだ」


 さらに静まり返る教室。咲奈の頭をはさんで春喜に見える瑛太の目は揺れている。


 目を逸らし、ぐすっという小さな音が聞こえた先を見ると加奈が声をあげずに泣いていた。加奈を抱きしめながら唯が咲奈を睨みつける。教室中の視線も咲奈に向けられた。


 咲奈は再び振り返り春喜と目を合わせて言った。


「私は、瑛太のこと別に好きじゃない」

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