第5話 指輪をする意味

 四月と五月にまたがる大型連休は最終日を迎えた。

 

 春喜は姉の栞に会いに両親とともに東京の母親の実家へ遊びに行き、別の日には瑛太や他の男友達と日中は公園で野球をして遊び夜は瑛太の家に泊まるため夜通しゲーム大会、またある日には咲奈の家族と合同でバーベキューに出かけるなど充実した日々を過ごした。


 咲奈は桜のことが嫌いと言ったあの日以来特に変わった様子はなく、桜のことが関係しなければ問題はないだろうというのが春喜の見解で、一抹の不安を抱えながらもいつも通り接することができていた。



 連休最終日の昼食を終えた午後、春喜は両親とともに駅前の映画館に来ている。目的の映画は桜も見たいと言っていた【星降る夜に君に会いに行く】だ。イラストレーターである春喜の母親が原作小説の表紙絵を担当していることもあり、以前から両親が二人で見に行く計画だったところに桜の話を聞いた春喜も瑛太との遊びの予定をキャンセルして加わった。


 桜先生と共通の話題ができる、あわよくば学校以外で桜先生に会える。そんな下心を持ちながら映画館のロビーで上映開始の時間を待っていると、上映中だった映画が終わったのかシアターからロビーに人が流れ出てきた。たくさんのカップルや女性グループ客の中から春喜は思惑通りの人を見つける。白いブラウスにベージュのロングパンツとそこまで目立つような服装ではないが、春喜の目にはその姿が鮮明に映った。


「桜先生……」


 春喜がそう呟くと同時に桜は春喜たちに気がつき、春喜に微笑んだあとに両親に向けて頭を下げた。桜の隣には全体的にパステルカラーの衣服に包まれた女性がいて桜と同様に春喜の両親に頭を下げている。桜よりも少しだけ身長が小さく、髪は少しだけ長く、目がクリっとしているこの女性が桜の言っていた高校生の頃から仲良しの友人の女性だと春喜は思った。


「こんにちは、春喜君。藤田先生もお久しぶりです」


 歩み寄ってきた桜は春喜に挨拶をしたあとに春喜の父親に向けて声をかけた。春喜の父親は高校の教員、先生と呼ばれる職業ではあるが誰も彼もから呼ばれるわけではない。桜がそう呼ぶ理由は察することができる。


「桜先生と父さんって知り合いだったの?」


「ああ、先生が高校二、三年生だったとき俺が担任だったんだ」


 そんな父親の返答に春喜は自分だけが桜と特別な繋がりを持っているという優越感を抱く。


「わっ、詩織が先生って呼ばれてる。すごい」


 桜の隣にいる女性が両手を口元に持っていきながら驚きと感動のこもった声で言った。


「そ、そりゃ先生なんだから当たり前でしょ」


 照れたように苦笑いする桜。学校では見ることがない、同年代の人間と関わる様子という新たな一面に春喜は見惚れてしまう。


「春喜君、明日から学校だけどゴールデンウィークはどうだった? 楽しかった?」


 友人のからかいから逃げるように桜は春喜に尋ねる。いつものような教師の顔になった桜に見つめられ、春喜は咲奈の言葉をふと思い出した。


「だって、あの先生。嘘ついてるから」


 まっすぐに春喜を見つめる瞳の奥には優しさが見える。綺麗な肌と調和する薄い化粧が素材の良さを感じさせ、学校では嗅いだことがないほのかに香る甘い匂いが春喜の鼻孔をくすぐる。  


 いいや、そんなわけがない、咲奈の勘違いだ。なんの根拠もなくそう考えてしまうほど、春喜は桜に重たい感情を抱いている。


 春喜は胸の高鳴りを悟られないように平静を装い質問に答えた。


「楽しかったです。東京のおばあちゃんの家に行ったり、河原でバーベキューしたりしました。あの、先生はどこかに行ったりしたんですか?」


「んー遠出はしなかったかな。お買い物に行ったり、同じ市内にあるお母さんとお父さんの家に行ったりはしたけど、あとはおうちでのんびりしてた。だから明日から皆の思い出を聞くのを楽しみにしてるね。春喜君も詳しく教えてね」


「うん、あ、はい」


 最後に笑顔を向けられて動揺した春喜は敬語を忘れそうになる。春喜が同級生と比べると冷静な人間であることは自他ともに認める事実であるが、桜を前にするとついほころびが出てしまいうまくいかないこともある。その度に春喜は自分が桜のことをどうしようもなく好いていることを自覚する。


 春喜と桜のやり取りが一段落したところで父親が桜に声をかけた。


伊織いおりは元気かい?」


「はい。昨日までこっちに帰ってきてたんですけど、ちょっと実家に顔を見せたくらいであとはずっと美月みつきとイチャイチャしてたみたいです」


 桜が隣にいる女性の方へ目を向ける。美月と呼ばれたその女性は春喜の母親に【星降る夜に君に会いに行く】の原作小説の本にサインを書いてもらっているところだった。本名は藤田由香里ゆかり、ペンネームは藤由里香ふじよしりかという母親は界隈ではそこそこの知名度を誇るが、顔出しをしておらず、年齢と住んでいる都道府県しか公開していないため正体を知る者は少ない。藤由里香として母親が声をかけられたところを見るのは春喜にとって初めてのことであった。


「相変わらずだな。来年にはこっちに戻ってくるんだったか?」


「その予定です。そしたら美月と……」


「そうか。めでたいことが続くんだな」


 その後も昔を懐かしむように父親と桜の話は続く。その話の中で春喜は美月と呼ばれた女性の苗字が萩原であること、萩原も父親が担任していた生徒であったこと、伊織と呼ばれているのは自己紹介の時に言っていた桜の双子の兄で、萩原と交際していることを理解した。萩原が高校時代から父親と関わりがあったのならば母親のことを知っていてもおかしくはない。


 そして不思議なまでに桜の男性関係の話題が出ることはなかった。


「それじゃあそろそろ映画が始まるから。二人とも元気でな」


「はい……また今度。春喜君、また明日ね」


「先生もお元気で」


 春喜たちが見る予定の映画の上映開始時間が近づき、桜たちと別れることになった。別れ際、右手に小さなバッグを持っていた桜は左手で春喜に手を振る。今日も指輪はしていない。


 萩原と楽しそうにおしゃべりをしながら歩く桜の背中を見送る春喜は、昔のことを思い出していた。


 父親に連れられて姉の栞と一緒に初めてこの映画館に来たときのこと。大好きなアニメ映画を楽しみにしていたらシアターに入る直前に父親と知り合いらしい二人の男女と出会った。その二人も父親のことを先生と呼んでいた。


 男の子の方は父親よりもさらに身長が大きく、女の子の方は自分の顔よりも大きいポップコーンの容器を持っていた。美味しそうなそれに自分も姉も夢中になり見つめていると、一緒に食べさせてくれた優しいお姉ちゃん。顔も名前も覚えていないがポップコーンのお姉ちゃんとして春喜の脳内に刻まれている。


 その後もその女の子とは何度か会うことがあり、いくつかの思い出がうっすらと残っている。不思議なことに桜を見ると度々その女の子のことを思い出すことがあった。春喜の脳内で思い出の女の子の顔は段々と桜の顔に書き換わっていっている。そばにいた大きな男の子は双子の兄の伊織という人だと補完された。


 もし本当にその女の子が桜先生だったのなら、なんとロマンチックな出会いだろうか。幼稚園に入る前に出会い、小学五年生で再会。映画化しても良いくらいの奇跡だ、と春喜は思い出と妄想に浸りながらシアターへと足を踏み入れた。



 案の定客のほとんどがカップルや女性のグループのため春喜は少しだけ居心地の悪さを感じながらも、誰も自分に関心などないと思い込み、眼前に広がる巨大なスクリーンを見つめた。


 映画は高校の天文学部を舞台にした青春恋愛物語。序盤、流星群を見に行った部活の合宿で主人公がヒロインに告白して交際が始まる。中盤、楽しい日々を過ごすがヒロインが生命を脅かす病気を患っていることが発覚し、入院生活が始まる。終盤、必死の闘病で外出許可を得たヒロインは主人公と流星群を見に行くことになり、主人公はそこでずっと一緒にいたいと言いながらヒロインの左手の薬指に指輪をはめる。高校生だから安物しか買えなくてごめんと謝る主人公と、嬉し涙を流しながら構わないと首を横に振り、最後に主人公に口づけをしたヒロイン。他の天文学部員に祝福される二人の姿が映し出されて物語は終わる。


 戦い続けたヒロインと支え続けた主人公の健気さ。応援してくれた仲間たちとの友情。流星が降る風景の美しさ。そういったものに感動しつつも、春喜の心に一番印象強く残ったのは、左手の薬指にはめた指輪の意味だった。


 婚約の証となる婚約指輪。結婚した証となる結婚指輪。どちらにしても左手の薬指にするのが一般的だ。始業式の日、桜の左手の薬指には確かに指輪があった。だが、今日を含めてそれから指輪をしているところは見たことがない。


 桜先生は婚約もしくは結婚をしていた。けれどもやっぱりやめたのだろうか。そうであるなら今は誰とも結婚しておらず、連休前に言っていたことが本当ならば彼氏もいない。現に祝日なのに女友達と映画を見に来るくらいなのだからきっとそうだ。


 父親が運転する七人乗りのミニバンタイプの車に揺られながら、春喜は思考に更けていた。姉の栞がいないだけで余計に広く感じる車内で、希望はあるということを自分に言い聞かせる。


 頭の中で反響する咲奈の言葉には耳を塞いだ。

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