第4話 嘘つきは嫌い

「じゃあ昇降口で待ってるから」


 放課後、教室に残ることになった春喜に小さく手を振りながら咲奈が教室を出た。瑛太は少年野球の練習があるため、母親の車で直接練習場所に向かっている。

 

 五年二組の教室は桜と春喜の二人きりになった。


 何か大事な用事があるわけではなく、日直である春喜はその日の授業の内容を記録する学級日誌を書かなければならなかったが書くのを忘れていたのだ。というのは建前で、日誌を書くことを忘れていたことを装えば桜と二人きりになれるという下心が春喜にはあった。春喜は桜がクラスの児童全員が教室を出るまで教室で仕事をしていることを知っている。


 一時間目の体育はバスケットボール。龍の活躍には目を見張るものがあった。


 二時間目は溝口先生の算数で、直方体の体積を求めた。一立方メートルって結構大きいのだと実感した。


 三時間目の音楽は歌を歌った。クラス皆で調和がとれていると思った。


 四時間目は国語で漢字のテストをやった。識と職をどっちだが分からなくなってしまったので気をつけたい。


 五時間目の社会ではお昼のあとで皆眠そうだったが、西川先生だったので寝てしまう人はいなかった。北に行くほど気温は低いと思っていたけど標高が高いから気温が低い土地もあることが分かった。


 六時間目の英語は英語で自己紹介をして、相手の好きなことを答えた。


 春喜が自分の席に座って一通り書き終えたあとに顔を上げると、教室前方の教員用の机でノートパソコンをいじっていた桜と目が合った。桜は春喜に優しく微笑みかけながら「春喜君、書けた?」と問いかける。


「い、いえ。もう少しです」


 春喜は目が合ってしまったことへの照れくささから、書き終えていたのにもかかわらず否定してしまった。桜先生と二人きりの時間が延長される。結果オーライだ。春喜がそう思いながら再び日誌に目を落とし、何の気なしに他のページを開くと春喜より前の日直が書いた記録が目に映った。どんなに拙い内容でも桜は花丸やコメントを付けてくれている。


 それを見た春喜の脳内に、本当は書きたかったが没にした文章が再浮上してくる。


 一時間目は上手くなくても一生懸命な桜先生が可愛かった。


 二時間目は桜先生が分からない人に個別に教えてあげていて、分からない人が少し羨ましかった。


 三時間目の桜先生のピアノが上手だった。ピアノを弾く姿に見惚れてしまった。


 四時間目、漢字テストで織の字は絶対に間違えない。桜先生の名前の字だから。


 五時間目は桜先生に会えなかった。何をしているのか気になった。


 六時間目の英語。英語の授業が一番好きだ。分かりやすくて楽しくて、桜先生も一番生き生きしている気がする。桜先生の英語の発音がとても上手だった。


 こんなことを日誌に書いたら桜先生はどんなコメントを返してくれるのだろうか。書いたら引かれるのではないか、書いて反応を見たい。相反する気持ちが春喜の心の中でぶつかり合い、数分悩んだ挙句、日誌に書き加えられたのは桜の英語の発音を褒める文章だけだった。


「先生、書き終わりました。お願いします」


 春喜は日誌を両手で持って、表紙を上に上端を自分側にして桜に差し出す。桜も「ご苦労様。読ませてもらうね」と言いながら丁寧に両手で受け取った。


「うん、さすが春喜君。字も丁寧だし、よく書けてる……あ、私の発音褒めてくれてありがとね。先生になると褒められることって少なくなったから嬉しい」


 早速日誌を読み始めた桜が春喜の顔をまっすぐに見て顔をほころばせた。


「いえ、あの、本当に上手だなって思ったので……」


 桜と二人きりになりたいがためにあえて休み時間に日誌を書かないでおいたのに、いざ二人きりで会話することになると緊張してうまく話せない。桜はおませな女子グループたちとはもちろんのこと男子たちともよく雑談をしているが、春喜は委員長としての仕事の会話以外は実はあまり話をしたことがない。本当はもっと会話を楽しみたいのに照れくささが勝ってしまう。


 そんな春喜の心情を知ってか知らずか、桜は優しい言葉を春喜にかける。その声色もとても優しいものだった。


「春喜君、いつもありがとね」


「え? な、何がですか? あの、俺、お礼を言われるようなことしましたっけ?」


「私がいないときいつもクラスをまとめてくれてるって、皆言ってるよ。私、担任持つの初めてだけど春喜君みたいな子がいてくれて本当に良かった。頼りないかもだけど、これからも一緒に頑張ろうね」


 教師から児童に向けられる最大の賛辞だと春喜は思った。確かに、桜がいないときは自分がクラスをまとめるのだという使命感と責任感を持って委員長という仕事に取り組んでいた。自分の出来得る最大限の努力をしてきたつもりだ。だから、そう言ってもらえることは学級委員長としてこの上ない喜びである。


 だが、桜は自分のことを学級委員長として信頼できる児童としか見ていない。そんなことは分かりきっていたはずなのに、春喜はつい悲しげな表情を見せてしまっていた。


「春喜君?」


 春喜を見る桜の表情が心配を表すものに変わる。春喜から見て左側、ヘアピンで留めていない方の髪を耳にかける仕草にドキリとしたことも相まって、目を逸らしてしまった。


「あの、先生はどうして先生になったんですか?」


 目を逸らしたことを誤魔化したいという気持ち、まだ会話を続けたいという気持ちと、核心に触れるのは怖いという気持ち、三つが合わさって無難な質問が口から出た。「人と話すときは目を見なさい」という父親の教えを思い出し、春喜は桜と目を合わせようとする。


 天井を見ながら、しばしの間思考していた桜が春喜と目を合わせた。


「子供が好きだから、かな。一生懸命で、純粋で、素直で、優しい、そういう子供のことが好きだったから。一緒に楽しく過ごしたい、成長する手助けをして、そばで見守りたい。そんな風に考えたから小学校の先生になったの」


「素直で、優しい……俺たちのこと、先生にはそう見えますか?」


「うん。違うの?」


「だって最近の龍とか、龍に対する女子の態度とか、男子もできるだけ龍に関わらないようにしてるし、俺だって……」


「今日の体育のときの龍君、格好良かったよね。私の双子のお兄ちゃんもバスケやってるんだけど、ちょっと思い出しちゃうくらいだった」


「はい……すごかったです。クラスの皆も今までの龍への感情とか抜きにして素直に拍手してて、あ」


 自分の言葉で気がついた春喜に、桜は少し得意げに微笑みかける。


「ね? それに龍君だって、今日の体育のあとの授業の様子どうだった?」


「それは……いつもより真面目だった気がします。珍しく音楽でちゃんと歌ってたし、五時間目なんて、西川先生の授業だろうと構わずいつも寝ていたのにしっかり起きてノートをとっていました」


「龍君は本当は素直で頑張り屋なんだよ」


「知っています。去年も一昨年も同じクラスだったので。あの、桜先生や前田先生は龍がクラスであんまり良い目で見られていないことを知っていて、それであえて体育の授業で龍のすごいところを皆に見せたんですか?」


「さすが、鋭いね」


 桜が目を見開く。


 しばらく逡巡したあと、桜は春喜に打ち明けることにした。それは、学級委員長としての信頼によるものだ。


「ごめんね。私、春喜君に甘えてたの」


「え? ど、どういうことですか?」


 大人の女性から甘えられた経験なんて一度もない春喜は困惑する。しかも相手が担任の先生で想い人である桜だからなおさらのことで、落ち着き始めていた心臓が再び激しい鼓動を刻み始めた。そんな春喜をよそに桜はどういうことかという質問に答えるべく、話を続ける。


「龍君が朝の読書をなかなか始めなかったり、授業態度とかクラスの皆への態度が良くないことが多いことには気がついていたの。私が注意しなくちゃとは思っていたけど、春喜君が注意してくれるからしばらく様子を見ることにしたんだ」


「俺が注意してたから……」


「うん。西川先生とか他の先生にも相談はしたんだけどね、春喜君なら大丈夫でしょうって学年の先生皆が言ってたんだよ。先生からも信頼されるなんてさすがだね」


「ありがとうございます」


 今度は褒められたことを素直に受け入れて春喜は笑顔を見せた。


 周りより少しだけ大人びていると言っても春喜はまだ十歳の小学五年生。破裂しそうな恋心を抱えながら褒められては、委員長に対しての賛辞であることを簡単に忘れてしまう。


「それで私は注意するのを春喜君に任せて、龍君をやる気にさせて皆からも受け入れてもらうにはどうしたら良いかなって考えることにしたの。それから前田先生と今日の体育のことを計画したんだ」


「先生がお手本でミスしたのもわざと……?」


「あ、そ、それはその、そういうことにしておいて、ね?」


「先生、バスケ好きって言ってませんでしたっけ?」


「それは、うん、そうだけど……春喜君も意外と意地悪なんだね」


 桜はわざとらしく不機嫌を装って頬を膨らませた。


 こんな砕けたやり取りができることに春喜は喜びを感じる。


「……バスケは好きだけど、やるのは、まあスポーツの中では好きな方だけど、本当は見るのが好きなの」


「えっと、双子のお兄さんがやってるからですか?」


「……うん」


 何か含みのあるような答え方に、春喜はそれ以上追及することはできない。周りより少しだけ大人な春喜は桜のあまり話したくないというオーラを感じ取れてしまった。



 話題を龍のことに戻す。


「あの、龍はこのままで良いんでしょうか? 連休明けも今日みたいにちゃんとしてくれるんでしょうか?」


「それは龍君次第かな。少なくともクラスの皆は龍君の良いところを見つけられたし、本当は真面目にできるんだっていうところも見た。龍君も皆に褒められて自信を持ってくれたと思う。このままもう少し見守ろうと思うの。あ、でも何か良くないことをしてたら今度はちゃんと私が注意するからね。春喜君ばっかりに押し付けたらいけないもの」


「押し付けるだなんてそんな、平気です。全然負担になんかなってませんし」


 春喜は元来責任感が強い性格だが、ここまで言い切るのはもちろん桜のためだ。桜の役に立って少しでも桜の笑顔が増えるなら、問題児の一人や二人、世話してみせるという意気込みを持っている。


「でも、どうして龍はああなっちゃったんでしょうか? 去年までは良い奴だったというか、もっと人懐っこい感じだったのに」


 桜はその問いには答えず、目を細めて春喜に微笑みかけ、ため息をついた。呆れたという意味ではなく、感嘆の方の意味だということは理解できた。


「春喜君はそこまで考えてくれてるんだ。ほんとに立派に……嬉しいよ」


「立派って……そんなことないです」


「謙遜が多いところ、そっくり……あ、龍君はね、きっと色々な事情があるんだと思う。ちょっと気分が乗らないこととか、なかなか他の人に相談できないこととか、春喜君にもあったりするでしょ?」


「それは、はい」


 桜先生のことを好きになってしまったこととか、彼氏がいるのか聞きたいけれど、知るのが怖くて聞けないこととか。思っていても口にはできない。


「私も聞いてみるけど、もし春喜君が龍君ともっと仲良くなって、龍君の方から春喜君に話してくれたらこっそり教えて欲しいな。駄目かな?」


「もちろん大丈夫です」


 桜のお願いを断るという選択肢は春喜にはない。最後の「駄目かな?」の部分だけ小さい子供への声掛けのように早口で少しいたずらっぽく言ってくるのが可愛くて、その分の気持ちは即答という形で表に出た。


「でも、無理には聞かなくて良いよ。龍君が話してくれるのを待ってくれるだけで良いから」


「分かりました。じゃあ、その……秘密の約束ということで」


 思いが溢れた春喜は衝動的に左手の小指を差し出した。左利きの春喜にとってはそれが自然だ。


「え?」


「今先生が話してくれたことも含めて、他の誰にも言いません。俺の中だけに留めておきます。だから、その、誰にも言わないっていう約束を……」


 時が止まった。その一瞬で春喜は我に返る。


「あ、す、すみません。こんなこと――」


「うん、約束」


 慌てて引っ込めようとした春喜の左小指に桜は自分の左小指を絡みつけた。


 左薬指に始業式のときにははめていた銀色の指輪がないことに春喜は気がつく。式のような特別なときにだけつけるアクセサリーだったのだろうか、と春喜は思う。


「指切り、懐かしいな……」


「え?」


「あ、ううん。何でもない。ごめんね長々と話しちゃって。ほら、廊下で咲奈ちゃんが待ってるよ」


 桜に促されて廊下を見ると教室の出入り口から咲奈がこちらを覗いているのが見えた。待ちきれなくなって教室まで迎えに来たようだ。春喜の視線に気がつくと腰に手を当てて頬を膨らませ、まさにご立腹という態度をとる。頭のてっぺんで作っているお団子髪も心なしか膨らんだように春喜には見えた。


「ほら、女の子を怒らせたら怖いよ?」


「はい……さようなら」


「さようなら」


 名残惜しくも絡めた指を別れさせ、春喜は教室を出る。振り返ると、桜が先ほどまで指切りをしていた左手を振っていた。


「ほら、早く帰ろ」


 手を振り返そうとした春喜の左手首を咲奈が掴み、グイグイと引っ張って昇降口へと歩かせようとする。どうせ連休明けにまた会える、こんなことで怒っては学級委員長らしくない、そう考えて文句を言うのを控えた春喜はおとなしくどすどすと廊下を強く踏みしめながら早足で歩く咲奈の隣を歩く。


「なあ咲奈、なんか怒ってる? 足音激しくない? 待たせたのは悪かったよ。ちょっと委員長として先生とクラスのことで大事な話をしていたんだ」


「別に、怒ってなんかない」


 そう言いながら立ち止まった咲奈の顔はむくれたままだ。そして目を伏せてから言葉を続ける。その声色にずしんと重みを感じて、春喜は息を吞む。


「うちのクラスのほとんど皆、桜先生のこと好きだよね?」


「そうだね」


「春喜も?」


「まあね」


 咲奈が言っているのは一人の女性としての桜ではなく、担任の先生としての桜のことだというのは理解できた。だから春喜は即答した。


「去年の石野先生も良かったけど、桜先生も良い先生だと思うよ。一生懸命だし、皆のことすごく考えてて、俺らのこと信頼してくれているし」


「それは、そうだね……でも、私はあの先生嫌い」


「え?」


 時が止まった。先ほどの桜との指切りのときとは違う。あんな、恥ずかしさと爽やかさを合わせ持つような甘酸っぱいものではなく、どろどろとして、胸の奥にどす黒い何かが溜まっていくような、苦くてまずくて気持ち悪い感覚が春喜を襲う。


 咲奈は春喜を見据えて言った。


「だって、あの先生。嘘ついてるから」

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