第3話 良いお手本

 約三週間の月日が流れ、大型連休前最後の登校日となった。


 少しでも桜に認識してもらうために春喜は自ら立候補して学級委員長を務めており、一日の仕事は登校後、八時十五分になったら八時三十分からの朝の会開始までの間にクラスメイト達を静かに読書させることから始まる。


 五年二組は真面目な児童が多いのか、ほとんどが春喜の注意がなくとも時間になれば静かに本を読み始めるし、時間に気がつかなかった場合も一度声をかければ読書に取り組んでいた。


 八時二十五分くらいに教室に入ってくる桜は、クラスの全員が静かに読書をしている光景を見ると嬉しそうに微笑むため、春喜はそれを見るのが楽しみだった。


 だがそんな春喜の手を煩わせ、ささやかな楽しみを妨害しようとする者が一人だけいる。


りゅう。読書の時間だぞ。教室に戻れよ」


 金城きんじょう龍。身長百六十センチと小学五年生としては大柄な体格が特徴でバスケットボールのスポーツ少年団に入っている。春喜とは三年生の頃からクラスメイトだ。


 時刻は八時二十分だというのに龍はベランダの柵の上から顔を出して、綺麗な花たちもすっかり緑色の葉に入れ替わった桜の木を眺めている。


「うるせーな。分かってるよ」


 龍は春喜に舌打ちをしながら不機嫌を丸出しにした顔を向けたあと、自分の席に着き、クラスの女子たちが「何あれ」「感じ悪」「いつも態度悪すぎだよね」とひそひそと話すのをまったく気にせずに人気漫画の小説版を読み始めた。


 龍はクラスの中で浮き始めている。


 去年まではこんなことはなかった。勉強は苦手だったけれど気の良い奴で、決まりを破ったり注意されて不貞腐れるようなことをするタイプではなかった。そんなことを思いながら春喜は、難関大学出身の有名人が自身の子供の頃からの勉強経験を綴った自叙伝を読んでいた。


 やがてジャージ姿で髪を一つに縛った桜が教室に入ってくる。今日は体育の授業があるからこの格好だろうという春喜の予想通りだ。体育がない日だと髪を縛っていなかったり、スーツのような服を着ていたり、長いスカートをはいているのをこの三週間で把握している。


 朝の会での話題は大型連休のことだ。クラスメイト達が皆口々にその予定を言い合っている。


「先生はどこかに出かけるんですかー?」


 桜を気に入ってよく話しかけているグループの女子が問いかける。


「うーん、遠出する予定はないかなー。おうちでのんびりしてるかも。あ、でも映画は見に行きたいかな。【星降る夜に君に会いに行く】って映画。結構話題になってるから見たことある人もいるかな? でも小学生の皆にはちょっと早いかな……?」


「知ってるー! お姉ちゃんと見に行ったよ。泣けたから先生も絶対見た方が良いよ。でもカップルがすごく多かったから、先生も彼氏と行くの?」


 同グループの先ほどとは別の女子が投げかけた何気ない質問に春喜の胸が締め付けられる。若くて綺麗で優しい桜に彼氏がいない可能性は低い。そんなことは分かっていながらも、春喜は残されたわずかな可能性を信じるために桜の恋愛関連の話は極力耳に入れないようにしており、今積極的に話をしているグループの女子ともなるべく関わらないようにしていた。そうすることで幸いにも桜に彼氏がいるという情報は耳に入ってきていない。


 桜は苦笑いしながら答えた。


「お友達と一緒に行くよ。高校生の頃からずっと仲良しの女の子のお友達。それに先生には彼氏はいなくてそれより……あ、いけない。もうこんな時間。皆、一時間目体育だから着替えて。春喜君、挨拶をお願いします」


 春喜の号令で朝の会が終わる。


 五年生になると男女で着替えをする場所が別になったため、桜は女子を引き連れてどこか別の教室へと移動を始めた。男子たちはそれがどこかは知らないし、知ろうとすると学年主任の西川のお説教が待っているので知るつもりにもならない。


 彼氏はいない、という桜の言葉を頭の中で反芻しながら、春喜は少しだけ上機嫌で着替えを始めるのであった。



 五年二組での体育の授業は教員二名体制で行われることが多く、三組担任で体育が専門の前田がメインで二組担任の桜がサポートに入る。桜はサポートというよりも一緒に運動しているだけのことも多いが、桜の存在をより近くに感じることができてこの制度が春喜は好きだった。


「ドリブルは少し腰を落として……誰かにお手本を見せてもらおうかな」


 お手本、と言うと前田は必ず桜に目を向ける。桜がやる気満々で前に出て、あまり上手くないお手本を見せたあと、前田がきちんとしたお手本を見せるのがお決まりのパターンだ。春喜は桜の様子から、前田があえて晒し者にしようとして桜に振っているわけではないことは分かるし、運動が苦手な女子たちが「詩織先生のおかげで体育の時間も気が楽になった」と言っているのを聞いたことがある。運動が苦手でも体育の授業はできるのだと、春喜は桜へ抱いている感情とは別の種類の感心をしていた。


 立ち上がって前田からバスケットボールを受け取った桜がその場でドリブルを始める。他の競技とは違って意外と様になっており、児童たちから小さな歓声と拍手が湧き起こる。嬉しそうに微笑む桜に前田が「そのままコートの端まで行って戻ってきてください」と声をかけ、桜は言われた通りに元いたコートの真ん中からコートの端に向かって走り出す。


 しかし、数歩走ったところでボールはコントロールを失い、桜の右足のつま先辺りにぶつかって勢い良く遠くに転がっていってしまった。


「あー、先生、ボール蹴っちゃいけないんだー」


 西川に怒られたことをいまだに根に持っている瑛太が声をあげる。


「うるさい、瑛太。わざとじゃないでしょ」


「うっ、いってぇ。何すんだよ」


 咲奈が瑛太の脇腹に拳を突き立て黙らせた。五年二組の中では恒例となったやり取りに今さら反応する者はいない。


 桜のつま先に当たって転がったボールは体育館の壁にぶつかって、桜や児童がいる方へ戻ってくる。前田がそれを拾い上げ児童たちの方を向く。


「最後ちょっと失敗しちゃったけど、頑張ってくれた桜先生に拍手!」


 これも体育の時間のいつもの光景。照れたように微笑む桜の表情は、春喜が好きな顔の一つだ。


「龍、すまないがお手本を見せてもらえないか? 先生実は足を痛めていて走れないんだ」


 拍手が鳴りやむ頃、前田が龍に声をかけた。腫れ物になりつつある龍が指名され、盛り上がっていた児童たちは一瞬で静まり返る。特に龍を嫌っている女子たちがあからさまに怪訝な表情を向ける。龍はそれに気づいているものの、全く意に介することなく立ち上がり「いいっすよ」と軽く返事をしながら前田からボールを受け取った。そのままドリブルをしながらコートの端までゆっくりと歩く。


 その姿だけでその場にいた全員が察した。龍は上手い、と。


 ボールが床に触れる音が大きくなった瞬間、龍はコートの反対側に向かってドリブルをしながら走り出した。ボールが龍の手に勝手に戻ってきているように感じるほど正確に、ただ走っているのと変わらないくらいのスピードで、まるで対戦相手がいると錯覚するように龍はボールを触る手を入れ替えながら左右に軽やかかつ力強いフットワークで動く。そしてゴール下に走りこむと、そのまま軽やかにレイアップシュートを決めた。それはバスケに詳しくない素人でも見惚れるくらい美しい姿であった。


 圧倒的な龍の実力を前に、今まで龍を避け気味だった男子たちは手のひらを返したように褒め称える。龍を嫌っていた女子たちも呆気に取られて自然と拍手をしている。浮いていた龍が一瞬にしてクラスの中心へと変わった。


 春喜は龍を称えながら、ふと桜と前田のいる方を見た。二人も拍手をしているがどこか真剣な表情で、集団の前に立っている龍ではなく集団の児童たちの様子を見ているようだった。

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