第2話 自己紹介

 体育館での始業式が終わり、教室に戻ると自己紹介をする流れになる。春喜は最初に自己紹介をした桜の話に全ての内容を覚える心意気で聞き入った。


 年齢は現在二十三歳で教員二年目。実は双子で兄が少し遠いところで働いている。昨年も桜木小学校に勤めていたが五年生の副担任をしており、主に五、六年生の英語の授業を担当していたので、今の五年生の学年とは関わりがほとんどなかった。趣味は読書と料理で好きなスポーツはバスケットボール。生まれも育ちもこの町で、大学生の頃だけは隣町に住んでいた。


 自己紹介が終わって何か質問があるかと教室に投げかけた際には、おませな女子から好きな男性のタイプを聞かれ、悩みながら背の高い人と答えていた。


「ご、ごめんね。恥ずかしいからそういう質問はまた今度ね」


 そう言って恋愛関連の質問はたった一問でシャットアウトされてしまい、春喜は残念なような安心したような感覚になった。もっと色々知りたいが、余計なことまで知りたくはない。例えば彼氏がいるとか。


 また今度、という返答に女子たちも納得して自己紹介は五年二組の児童たちの番になる。出席番号一番から順番にということで、二十四番の春喜までは遠い。春喜は先ほどまで桜が立っていた教室の前方でクラスメイトが行っている自己紹介を聞き流しながら、黒板の脇の教員用の席に座って笑顔で拍手をしたり、口下手な児童に対しては優しく質問をする桜のことを見つめていた。


 その一挙手一投足に心が震えた。特別なことなんて何もしていないはずなのに、桜が動いたり話したりするたびに、たまに目が合うたびに、顔や胸の辺りが熱を帯びていく。


「――ってわけで将来はプロ野球選手を目指しています。野球好きな人はもちろん、そうでない人も仲良くしてください。最後に、好きなタイプは細かいことを注意してこない人です」


 盛り上がりを見せた瑛太の自己紹介が終わったことに気がつき、春喜はハッとする。


 次は自分の番だが、これまでの自己紹介をまともに聞いておらずどんなことを話せば良いか分からない。


「どうした? 次春喜だぞ」


 自分の席に戻ってきた瑛太が春喜に声をかける。同時にクラスメイト達の視線も集まり、考えがまとまるよりも前に春喜は黒板の前に立たざるをえなくなってしまった。必死に頭を回して、何を言うべきか考えを巡らせている。


 春喜は人前に立つのが苦手なタイプではない。瑛太のように目立ちたがりというようなタイプでもないが、こういった場で言い淀むことは今までほとんどなかった。今、そうなってしまっているのは、何も考えずに皆の前に立ってしまったことと、たった二メートルほどの距離の近さで、お行儀よく椅子に座って微笑みながらこちら見つめている桜のことで頭がいっぱいだからだ。


「えっと、名前は、藤田春喜です……」


 なんとか名前だけは絞り出したがその後の言葉が出てこない。春喜はクラスメイトの自己紹介は聞いていなかったが桜のことは見ていたので分かる。こんな風に言葉に詰まってしまった児童に対して桜は優しく質問してくれて、助けてくれる。


 春喜はそれが嫌だった。桜の手を煩わせるようなことを出会って早々にすることが恥ずかしいと考えた。どうにかしてすぐに何か言わないといけない。手のかかる子、話すのが下手な子だと思われたくない。その焦りで余計に考えはまとまらなくなり、春喜はすがるように直前に終わりの部分だけ聞いていた瑛太の自己紹介を思い出し、真似ることにした。このときの春喜はこれが最善だと思ってしまったのだ。


「え、えっと、その、好きなタイプは――」


 そこまで言って自分が発した言葉の意味を理解した。クラスメイト達の興味津々な視線が春喜に向けられている。真剣な表情で見つめる咲奈と目がばっちり合い、春喜はつい目を逸らした。その視線の先では桜が春喜を見つめている。


 その言葉は、喉を通って口というダムから漏れ出してしまった。


「と、年上の、女性、です」


 教室に静寂が訪れる。それが一瞬だったのか、一分以上だったのか、春喜は理解できるほどの冷静さを失っていた。


 桜の顔が見れない。今、自分の顔が真っ赤になっていることは体感できるがどんな表情をしているのか分からない。視界も耳から入る音も定まらない。うまく息が吸えなくなって苦しくなる。初めて味わうこの感覚に春喜は戸惑い、うつむくことしかできない。


 失敗した。何故こんなことを言ってしまったのか。桜先生の顔を見ながら年上の女性が好きだなんて言ったら、まるで先生のことが好きみたいじゃないか。春喜はそんな後悔に埋め尽くされる。


「あの、春喜君……?」


 桜が春喜に声をかけようとする。そのときだった。


「春喜! 深呼吸しろよ! 先生、春喜は緊張してるだけだからちょっと待ってあげてよ」


 瑛太が春喜に声をかけた。


 春喜は言われた通り深呼吸をしてみると視界が晴れた。瑛太は立ち上がって、春喜を応援するように笑顔を見せている。その二つ後ろの席では咲奈が不満げな表情で頬杖を突きながら横を向いて、窓越しに桜の木を見つめている。


 その元気でいつも励ましてくれる瑛太と、瑛太が目立つと少し不機嫌になる咲奈。長年一緒に過ごしたいつも通りの二人の姿を見て、春喜は冷静さを取り戻す。しっかりとクラスメイトの方を見て改めて自己紹介をする。


「えっと、好きな教科は理科で、小さい頃は恐竜とか動物とか植物の図鑑とか、宇宙の本とかよく読んでました。今もたまに読むし、それ以外の本も結構読むので趣味は読書かなって思います。でも運動も好きなので体育も好きな教科です。将来の夢は決まってないけど、勉強を頑張りたいなって思っています。好きな食べ物は納豆とアイスかな。お菓子だとポップコーンが好きです。嫌いな食べ物は特にありません……」


 その後はつつがなく春喜の自己紹介は終わった。クラスメイトからの拍手と桜の優しい微笑みを受けて、ほんの少しだけ不機嫌そうにふくれっ面になった咲奈とすれ違い、春喜は自分の席に戻る。



 全員の自己紹介が終わると明日から始まる授業や今後の行事についての説明があり、それも終わるとこの日は放課となった。桜は早速おませな女子たちに囲まれて色々質問攻めにあっているようだ。教室の出入り口で女子たちと話をしながら教室を出る児童に挨拶をするという器用な動きをこなしている。


 春喜はあの輪の中に加わって話がしたいという気持ちはありつつも、それを実行に移す踏ん切りはつかずいつものように瑛太と咲奈と一緒に下校することにした。


「先生、さようなら」


 これが今の春喜の精一杯。勇気を振り絞って目を見て言うことができた。瑛太と咲奈も続く。


「春喜君、瑛太君、咲奈ちゃん。さようなら。また明日ね」


 桜も春喜に微笑みかけながら左手を小さく振って応える。桜は右利きだが、右手は周りを囲む女子に握られていた。手相を見ているようだ。


「先生、結婚線太いのが一本だけある。しかも上向きだから一人の人とラブラブな結婚生活になるんだよ」


「えー、そんな風に言われるとちょっと恥ずかしいな……」


 そんな会話をこれ以上聞きたくなくて、春喜は足早に教室から離れていく。



 担任の先生のことを好きになるなんておかしい。そんなことは分かっている。この思いが成就しないであろうことも分かっている。でも、ほんの少しだけでも夢を見たかった。十歳の春喜と二十三歳の桜は十三歳差。今すぐにはありえないことだが、春喜が二十歳になる頃には桜は三十三歳。二十五歳になれば三十八歳。もっと歳が離れているのに結婚した芸能人のニュースはよく見る。大人になればありえない歳の差ではない。


 だから、桜の恋愛関連の話は聞きたくなかった。自分が大人になるまでこのままでいて欲しかった。そんなことを思ってしまうほどに、春喜は桜のことが好きになってしまっていた。


 春喜自身もその理由はよく分かっていない。ただ、一つだけ心に引っかかることがあった。


 春喜が幼稚園に入る前や入った直後に出会った思い出の中の女の子。ポップコーンをくれたお姉ちゃん。イチゴアイスとチョコアイスを食べ合ったお姉ちゃん。膝の上に座らせて、絵本を読んでくれたお姉ちゃん。恋という言葉や概念を知る前に出会った名前も顔も覚えていないお姉ちゃん。暖かくて、優しくて、一緒にいると安心した。


 春喜の記憶にうっすらと残っている女の子の面影が桜を見ると思い出された。


 春喜は高鳴る胸を抑えながら、くだらないことを言い争っている瑛太と咲奈の後ろをついて行く。



 春喜は桜の左手の薬指にはめられた銀色の指輪の意味をまだ知らない。

 瑛太は桜が振っていた左手を見ておらず、指輪の存在に気づいていない。

 咲奈だけが指輪に気づき、その意味を理解している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る