春の喜びを詩(うた)にして
高鍋渡
第1話 新学期
四月、多くの学校でクラス替えがある季節。別れを悲しみ、出会いを喜び、しばらくの間はそわそわとして落ち着かない日々が続く。
小学校高学年くらいになると、そのクラス替えに何らかの意図があることを察し始める者も出てきて様々な噂や憶測が飛び交う。
あの子たちは喧嘩ばかりしているから離された。あの子のお世話はあの子しかできないから一緒になった。一緒に悪さをする仲間だから離された。ピアノを弾ける人を分けているらしい。あの二人は付き合っているから離された。あの子の親が学校に文句を言ったらしい。あのクラスに可愛い子ばっかり集まってるのって担任の先生の趣味だよね。よく見ると勉強も運動もそれなりに均等になってるんだね。
小学五年生の
四つ年上の姉である中学三年生の
高校教員をしている春喜たちの父親は、勉強に関しては栞や春喜に必要以上に強制はしなかったが、春喜たち自身がやりたいと言ったことは何でもやらせてくれた。
栞は受験のために塾に通わせてもらっていたし、春喜も漢字や算数で次の学年の先取りをさせてもらったり、父親が持っている科学に関する本はいくらでも読ませてもらった。だから春喜も勉強は嫌いではないし、それなりに得意な方だと自負している。
窓側から二番目の列の後ろから二番目の席に座る春喜が、教室の窓から見える満開の桜の木をぼんやりと眺めながら自分も塾に通わせてもらおうか、と教室の喧騒から意識を切り離して未来をおぼろげに考えている時だった。
「なあ春喜、担任の先生誰だろうな。俺は
春喜の前の席に座る
小学一年生からずっと同じクラスの親友の問いかけに、春喜は思考を未来から今に戻す。
「
「げぇ、俺西川のおばちゃんは絶対嫌だ。化粧濃いし細かいことですぐ怒るから苦手なんだよ。しかももう五十歳超えてるんだろ? うちのばあちゃん六十歳だぜ。ほぼ同じじゃん」
瑛太が大げさに顔をしかめる。昨年の五月頃、瑛太が休み時間に外でドッジボールをして教室に戻る時に、ボールを廊下に落として不運にも足に当たってしまい、通りがかった西川に室内でボールを蹴ったと思い込まれて𠮟られて以来、たいそう嫌っているのだ。
そばで見ていた春喜としては、瑛太の話を聞かずに思い込みで一方的に𠮟りつけた西川には苦手意識があるが、手の中でボールを回して遊んでいた瑛太にも多少の非があることは分かっているので、嫌いというほどにはなっていない。ただでさえ当時は、学年の中で室内でのボール遊びが原因で立て続けにガラスが二枚も割れている
「まあ、俺は二人のうちだったら溝口先生がいいかな。瑛太はどっちがいいの?」
前田は三十代半ばくらいの熱血体育会系の男の先生。体格が良くいつも元気でクラスの児童たちもつられて元気になってしまうタイプだ。休み時間は大抵児童と一緒に汗を流している。
溝口は二十代後半のおとなしめの男の先生。運動はあまり得意ではないが理科系の知識が豊富で話が面白く、春喜としてはどことなく父親を連想して、好感を持っている。
「俺はどっちかと言うと前田先生派だけど、二人のどっちかならどっちでもいいや」
「えー? 私、溝口せんせはともかく前田先生は絶対嫌だよ。暑苦しいし。前田先生になるくらいだったら西川先生の方が百倍いい」
春喜と瑛太の話に割り込んできた女子は春喜の後ろの席に座る
「はー? 前田先生が暑苦しいのは確かだけど体育の授業がめっちゃ楽しいらしいし、いいじゃん。西川おばちゃんのどこがいいんだよ?」
「そりゃあ瑛太みたいなうるさい男子をちゃんと注意してくれるところでしょ」
「何だと? 誰がうるさいって?」
「聞こえなかったの? いいよ、何度でも言ってあげる。瑛太だよ。え、い、た」
「この……咲奈のくせに」
「それに私のいとこが西川先生の娘さんと付き合ってて、もうすぐ結婚も考えてるんだから。私そのうち西川先生と親戚になるんだよ。そしたら親戚権限で瑛太のこともっと厳しく叱ってもらうから」
「な、なんだよそれ。ずるいぞ! 俺が西川おばちゃん苦手なの知ってて味方にするなんて」
二人の言い争いはいつものことで、春喜が我関せずといった態度で見守るのもいつものことだ。そして、今回のように瑛太が顔を真っ赤にして何も言い返せなくなって負けるのもいつものこと。
「咲奈のいとこって今何歳だっけ? 確か結構咲奈と離れてたよね?」
春喜は顔を茹でだこのように真っ赤にしたまま黙り込んでいる瑛太を放って咲奈に尋ねる。
咲奈は瑛太に向けていた刺々しい表情を一変させ、春喜には穏やかな表情を見せて答える。
「んーと、今二十三歳かな。もうすぐ二十四歳になる。高校一年生の時から付き合ってるんだって。すごいよね。西川先生の娘さんは一個上だけど」
「へえ。じゃあもう八年くらいか。確かにそんなに長く仲良くしてるなんてすごいのかも。あ、でもうちの親も高校の同級生だったって言ってたし、そういうもんなのかな」
「そうだよ。同じ学校だと一緒に色んな経験をするし、長く一緒にいるともうその人しか考えられなくなるって言うか、そういうのがあるんだよ」
「そう、なのかな……」
春喜はまだ恋というものをしたことがなかった。だから、瑛太が咲奈と話す時に何故顔を赤くすることが多いのか、咲奈が瑛太には当たりが強いのに何故春喜には優しく接するのか、その理由を知る由もない。
咲奈は前に垂らした自分の髪の結び目あたりをいじりながら春喜に言う。
「私たちも今年で知り合って八年目だね」
「そうだね」
「……もういい。ほら、先生たち来たよ。誰がこのクラスに来るんだろうね」
春喜の素っ気ない、というよりも特に関心を抱いていないような返答にわざとらしく不機嫌な表情を見せてから、咲奈が扉が開けっ放しになっている教室の前方の出入り口を指差した。
先ほど話題になっていた前田と溝口の二人が五年二組の教室を通り過ぎて後方の教室に歩いて行く。
「うわっ。前田先生と溝口先生、三組と四組だ。最悪、西川おばちゃんじゃん」
立ち直りが早い瑛太が教室中に聞こえるように大声で言った。西川に苦手意識を持っているのは瑛太や春喜に限った話ではないので、西川先生が担任か、という落胆の気持ちで教室が包まれる。
そしてこちらに向けて歩いてくる西川。いつもはジャージだが始業式の今日はスーツを着ていて、運動靴のような室内シューズとは不釣り合いだ。瑛太は奇跡を信じて手を合わせて祈っている。
春喜の目には西川の隣で誰かが一緒に歩いているように見えた。
「それじゃ……先生。いってらっしゃい。何かあったらいつでも言ってね。そのために隣にいるんだから」
「はい。ありがとうございます」
若い女性の声を聞くと、西川は前田たちとは反対側に歩いて行った。
「瑛太。西川先生多分一組だ」
春喜が瑛太の祈る背中に声をかけると、瑛太は跳び上がって両手のこぶしを天井に向けて伸ばした。
「まじ? よっしゃあ! 助かったぁ。俺の人生が終わるところだった……あれ? ってことは俺らの担任って……?」
「さあ? 新しい先生じゃないの?」
瑛太の叫びのあと、静寂に包まれた教室の誰しもが前方の出入り口に注目する。
身長は百六十センチに満たないくらい、平均的か少し細めの体格、身だしなみとしての最低限の薄い化粧をして、肩甲骨程まである綺麗な黒髪を頭の低い位置で一つに束ね、少し長めの前髪をヘアピンで留めて目をしっかりと見せていて、まだまだスーツに着られているような二十代前半の女性教師が出入り口で一礼をして教室に入ってくる。
その教師の歩みに合わせて、教室内の児童たちの視線も動く。
黒板よりも上部の壁には中心線に合わせて【やさしく つよく うつくしく】と書かれた校訓が掲げられており、その真下に立った教師は教室内を見渡したあと、もう一度礼をした。
五年二組の児童たちもつられて礼を返し、教師は少し照れくさそうに微笑む。
教師は静かに深呼吸をしてから黒板の方に振り返って白いチョークを持ち、若干小さくはあるが丁寧な字で、三つの漢字を縦に並べて書いた。その教師の名前だということは教室内の皆が理解できる。桜木小学校という名前にぴったりな苗字、春喜にとっては姉と同じ読み方をする名前。
もう一度児童たちの方を向き直した教師と春喜の目が合う。教師は一度教卓の上に置いてある座席表に目を落としたあと、再び春喜を見て優しく微笑んだ。
春喜は不思議な感覚を覚えていた。記憶の奥底に残っているような、どこかで会ったことがあるような懐かしい感覚。安心するはずなのに心がざわついた。
そして春喜が感じていたのはもう一つ。今までにない胸の高鳴りだ。ずっと顔を合わせていたいのに、何故か恥ずかしさがこみあげてきて目を逸らしてしまう。瑛太はもちろん、女子である咲奈と一緒にいても、体が密着するくらい接近しても感じることのなかった熱。
今まで春喜にとって他人の話や物語の中のものでしかなかった感情。生まれて初めて抱いた気持ち。これを上手に表す言葉を春喜は思い出せなくなっている。名前自体は知っていたはずなのに、照れくささから記憶に蓋をしてしまっている。
勇気を振り絞ってもう一度その教師の顔を見ると、もう目が離せなくなった。恥ずかしさも忘れてその全てを見たい、知りたいと思う。この人と一緒にいたい。二十九人いるはずの同級生が見えなくなって、世界には春喜と教師だけになる。そんな錯覚をしてしまうほど、春喜はおかしくなってしまっていた。
教師が言葉を発したことで、春喜は長くて短い思考の世界から解放される。
「五年二組の担任の
一瞬の静寂のあと、教室に風が吹いた。
春、桜は満開に咲いている。誰かが開けていた窓から風に乗って数枚の桜の花びらが教室に入り込んできて、春喜はそのうちの一枚を捕まえた。教師の桜を見ると、春喜と同じように桜の花びらを捕まえていて、それに気がついた児童たちが小さく歓声をあげながら拍手をした。
嬉しそうなその笑顔に、春喜はこの感情の名前を思い出した。
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