#10
両手で口を押さえた僕が見たのは、ショックのあまり膝から崩れ落ちた彼女の丸まった手首と、両手の指先が無くなった代わりに散らばった砂粒、重力に従って無機質に転がる鯖味噌缶。
「姉ちゃんッ!!」
時間が止まったように動かない彼女に慌てて駆け寄った僕は小さく震える肩を抱き寄せると、柄にもないお姫様抱っこを初めて披露してリビングのソファにそっと座らせた。
「……大袈裟だよ」
色白の顔を青くした彼女が、せめてもの強がりを吐いて僕を窘める。ここにきてもなお弱音を吐かないあたり姉らしいとは思うものの、愛する彼女が自分に本音を晒してくれないのが不甲斐なくて涙が滲んでくる。
「あのさ、ねえちゃ……栞、こういう時ぐらい素直になってよ。確かに僕は臆病で、不甲斐なくて、頼りないかもだけど、僕の前だけは偽らないで」
「別に偽ってなんか……っ」
反論しようと笑った彼女の瞳から溢れた痛々しい雫は、伝う途中で彼女のザラついた肌に呑まれて消える。幾ら涙を呑み込んでも渇きに飢えたその砂は、目に見えて栞自身を蝕んで僕に見せつけているようだった。
「私ね、本当は弱虫なの……いい加減で中途半端で、怒りっぽくて、我儘で……。でも、雫の『お姉さん』になった時、私が雫を守るんだって誓った……私の後ろをついて必死に歩く雫がいたから、私は、私は……っ」
産まれたての赤子が息の仕方も知らないように泣くその姿は、いつもの凛々しい栞の欠片さえ感じられない。それでもその様子が狂おしいほど愛くるしく思えた僕は、彼女の体温が沈む体を包み込む。乾燥した素肌は撫でるたびに綻び、パラパラと崩れては砂溜まりを作り出す。
「栞が頑張り屋さんだってこと、僕が一番よく知ってるよ……今まで、ずっと守ってくれてありがとう」
きつく抱いて仕舞えば、きっと彼女の脆い体は早々に崩れて元に戻らない。砂浜で作った城が海水の波に飲まれて壊れるように、栞と僕が流して混ぜた塩水が彼女を侵食してゆくような気がした僕は、痛む鼻の奥に悲しみを押し戻してそっと彼女から体を離す。
「お腹……すいたんだっけ?」
「……うん」
「鯖味噌、食べる?」
「うん」
せめて彼女の散り際に心残りを作りたくない僕は、急いで缶詰のプルタブに指を掛ける。カチ……ッと軽快な音を立てて開いた缶の中から顔を見せた茶色い魚は、懐かしくももどかしい気持ちを思い起こさせた。
「ねぇ雫……あーん、して欲しいな」
この後に及んで頭の中がお花畑なのか、涙声の栞は肘の辺りで丸みを帯びた腕を突き出すと、「これじゃ食べれないでしょ?」とぐしゃぐしゃの笑顔で首を傾げる。
「わ、分かったよ、やればいいんでしょ」
こんな恥ずかしい事をするのは、正直一昔前のバカップルだけだと思っていた。照れ臭さで彼女から目を離した僕は、ごちゃついた机に埋もれた割り箸を引っ張り出して割ると、缶を軽く掻き回して彼女の口元へと運ぶ。
「はい……あーん」
目線を逸らしつつ差し出した割り箸から、彼女が触れる振動が伝わる。これは介護だ。決して不純な動機なんてない──筈。
「ふふっ、美味しい」
──もしも一つだけ願いを叶えてくれるのなら、僕は姉と他人として生まれたかった。
緩んだ頬を小さく動かして咀嚼する栞を眺めながら、当てにならない神様がもしも僕を憐れんで願いを聞き届けてくれるのならば、僕はきっと迷わずこう願うだろう……などと考える。
「ねぇ雫、今……幸せ?」
僕の表情がかき曇ったのを見透かしたように微笑った彼女は、透き通っていた筈の瞳に磨硝子のような靄を浮かばせた。
「……うん」
──もう彼女は、そう長くない。
直感で確信した僕は溢れる涙と鼻水が混じる汚い顔を服の袖で拭って、明るい声を取り繕いながら栞の微笑い顔を真似する。
「へへへ……私も」
モゴモゴ彼女が口を動かすたび、ジャリジャリと咀嚼音には似つかわしくない雑音が大きくなると、栞は苦しそうに咳き込む。
「だ、大丈夫……?」
「うーん……口の中が不味くて飲み込めないや。……お水、飲みたいな」
苦々しい砂利を吐き出した彼女は困ったように眉を下げるも、どこか虚ろなその眼は焦点をぼやかして揺らぐ。これ見よがしに机の上を陣取る飲みかけのペットボトルのキャップを開けた僕は、そっと彼女の下唇に沿わせて水を流し込むも、水に飢えた口元の皮膚が珪藻土みたいに全てを吸収してしまう。
「それじゃ飲めないよ」
静かに上体を起こして僕の唇を啄んだ栞の唇は固く、生き物とは思えないほど冷たい。それでもまだ彼女の香りが残る土塊は、「口移しして」と小悪魔よろしく不敵に囁く。
僕は目を見開いた。
叶わないと思っていた理想の全てが、ここまで忠実に成就するなんて思ってなかった僕は、嬉しさと悲しさが綯い交ぜになった思考を落ち着かせるように深呼吸をする。
「一回、だけだよ?」
覚悟を決めて水を口に含んだ僕は童話の王子みたいにそっと彼女に『口移し』という名の接吻をすると、ほんのりと開いた栞の口に水を注ぐ。さっき食べた缶詰の魚が邪魔するように纏わりつき、僅かに砂粒が混じる僕の悲惨なファーストキス。本当ならお気持ちすらも遠慮したい筈なのに、それが憧れで愛おしい栞であれば願ったり叶ったり──砂に感染って腐った僕の頭も、そう認識してしまうぐらいに酷く呆けていた。
「し……ず、く」
水が満ちたのも束の間、一瞬色濃く残ってはさらさらと消えてゆく哀れな珠玉を吸い込んだ彼女は、残りの命を削るように僕の名前を呼ぶ。
「なぁに?」
「……ずっと、だい……す……き」
声とも取れないぎこちない単語が、はらりと煙みたく宙を舞う。
「栞ッ!!」
たった今の今まで動いていた彼女は、土塊として見事に大地に帰った。いつか来るとは知っている別れがこんなにも苦くて、食感の悪いものなのかと辟易した僕は、嗚咽を抑える事なく顔から滴る水鞠を弔いのように砂に落とす。
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