#9
台所に残っている食料は、残念ながら備蓄用に買い溜めた缶詰やらインスタント食品ばかりだった。元々そんなに料理が得意ではない僕の腕前では、こういう状況下においても簡単なものについつい手が伸びてしまう。
──折角なら、もっと料理らしいなんかをストックしておけば良かった。
本当なら見栄を張って手料理の一つや二つぐらい披露したいところだが、お生憎様一昨日ぐらいから物流が止まり出した東京では、材料の生鮮食品すら入手困難だ。
「あっ、鯖味噌!懐かしぃ!」
ゴソゴソと缶詰を漁る姉が声を上げて取り出したのは、甘い味噌の味が特徴的な鯖の味噌煮缶で、僕は呆れながら飲みかけのペットボトルと雑多な書類、それからコンビニで貰う割り箸が吹き溜まる机の上にそっとサボテンの鉢を置く。
「本っ当、好きだよね」
「へへへ……お父さんとお母さんが仕事でいない時、二人で半分こしてよく食べたじゃん? 鯖が無くなったら、残りの汁をご飯にかけたりして」
懐かしそうに語る彼女の瞳が一段と艶を増し、穏やかな思い出と共にそのまま緩やかに頬を伝う。まるで絵画から出てきたような美しい光景に釘付けになった僕は、いつも姉がやるように彼女の湿った頬に手を添える。柔らかくて冷たい、少しザラついたその肌に触れながら、何故もっと早く彼女を迎えに行かなかったのかと後悔して、僕は静かに瞼を伏せた。
「雫?」
鈴が転がるみたいな声色の姉は、笑顔には到底見えない泣き顔を作って僕を呼ぶと、「心配掛けてごめんね」と囁く。
「それはお互い様でしょ。僕も散々姉ちゃんに心配掛けてきたし」
信じたくないし、認めたくない。
今ここに存在している彼女が、そう遠くないうちに掴むことすらままならない砂と消えてしまうなんて。もう二度と、僕の名前ひとつすら呼んでくれないなんて。
「じゃあ……さ、私の最期の我儘に付き合ってよ」
その言葉に、心臓が大きく跳ねる。
──今まで我儘なんて一度も聞いたことのない姉が、僕にどんな欲望を押し付けるのだろう?
好奇心に釣られた僕は間髪入れずに「いいよ」と答えると、主人の命令を待つ飼い犬みたいに彼女の瞳をじっと見つめた。
「私が砂になるまで……『姉ちゃん』じゃなくって、『栞』って呼んで?」
耳まで赤くして小さく言い放った彼女を呆然と眺める僕は、一瞬その言葉の理解が追い付かずに全身の動きをフリーズさせる。
「今なんて……?」
「だーかーら、名前で呼んでって」
口を尖らせてむくれて見せた彼女は、不貞腐れたように握りしめた鯖味噌缶を僕に手渡すと、動揺したのか途端に缶を落とす。
「何やってんのー」
つい可愛い彼女を揶揄ってしまった僕は、次の瞬間に目を見開いて驚いた表情を浮かべた姉を見て、ニヤニヤした顔を凍てつかせる。
「指が……」
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