#8

「お邪魔しまーす」


 戯けた口調で玄関を上がる彼女は、丁寧に靴を揃えると楽しそうに室内を物色する。屈んだ瞬間に服の襟口から僕を誘う様に覗く綺麗な鎖骨の黒子が婀娜っぽくて、僕はついその先の肌をも望んでしまう。


「これ、まだ生きてたんだ!」


 そんな事は露知らず、玄関の小窓に飾られたサボテンを指差した姉は乱れた髪を耳に掛けながら振り返ると、小さなサボテンの鉢を持ち上げて見せびらかす。


「そりゃあ……ちゃんと育ててるし」


 植物を育てる趣味なんて無い僕が唯一育てているこのサボテンは、自慢げに鉢を差し出した姉が十八の時の誕生日祝いでくれたものだ。何度か調子が悪くなったこともあるが、その度に僕は献身的な治療に勤しみ、枯れることなく愛しい姉の代わりとして大事に育て今に至る。


「サボテンって、雫みたいで可愛いよね」


 えへへと丸っこくて棘の鋭い植物と俺を交互に見比べた彼女は、「なんかさー、こう……人を寄せ付けないトゲトゲした空気感とか、内側に溢れるほどの愛情を持ち合わせてる感じとか」と、指を折りながら僕の性格を上げてゆく。まるで他己紹介を聞いているようでなんだか居心地が悪い僕は、ほぼ無意識に口を尖らせる。


 ──不器用でいじらしいサボテンに似てるのは、姉ちゃんの方だろ。


 黙り込んだ僕を不思議そうに見つめた姉は慈悲に溢れた瞳で鉢を見つめ、その鉢を握りしめた。


「私ね、ずっと雫が好きだったの」


 小首を傾げて微笑む彼女は、降り注ぐ日差しの尾みたいに真っ直ぐ伸びる髪を緩やかに払うと、僕の瞳の奥の奥を射抜く。まるで審判にでも掛けられている気分の僕は鍍金を取り繕うように何度も目を瞬き、心の奥底に仕舞い込んだ淡く切ない感情を必死に隠す。ろくに声も出ないまま生唾を飲んだ僕は、姉の言う『好き』と、僕がひた隠す『好き』の違いを考えて目頭が熱くなった。


「そう……僕も好きだよ」


 精一杯捻り出した言葉は実に未練たらしく、本当に言いたいことの十分の一も表現できていない。彼女の美しい慈愛と、僕の利己的な劣情は同等であってはいけないのだ。


「へぇ、どこが好きなの?」


 僕が噛み殺した心情を知らぬままそのまま二、三歩躙り寄った彼女は、今にも体が触れそうな距離を詰めてくる。


「どこって……強くて、恰好良くて、優しいところとか」


 脆くて、見栄っ張りで、繊細で、頑張り屋で、お人好しで、お茶目で、可愛いところ──溢れてくる単語が気持ち悪いほど並べられ、両手の指では抱え切れない愛情が声になることなく床に滑り落ちた。


「なんかソレ、ヒロインよりもヒーローだね」


 半分呆れたような声を上げた姉は薄っすら頬を赤くして踵を返すと、「お腹すいちゃったなぁ」なんて呑気な様子でリビングへと向かう。本当は誰よりも僕のヒロインなのに、そんなことを許さない血縁関係が彼女の腕を引き寄せることさえ許さない。


 ──あぁ神様……あんたは相変わらず無情だ。


 いつもは願いもしない陳腐な偶像に、いたく不機嫌な僕は心の中で唾を吐いた。


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