#6

「お待たせしました」


 携帯の画面を穴が空くほど眺めて待ち侘びた僕に声が掛かったのは、待合室に掛かった時計の長針が半周した頃だった。


 看護師に連れられて久しぶりに会った姉は、いつも結んでいる胸元まで伸びた艶やかな黒髪を揺らして微笑む。芯のある瞳は少し翳り、長い睫毛を庇みたいに降ろして笑うその表情は少しやつれているものの、まだ人の形を残してこの世界に存在していた。


「姉ちゃんッ!」


 思い切り立ち上がって駆け寄った僕を何とも言い難い顔で見つめた彼女は、この広い世界で迷子になっていた僕を掬い上げてくれる女神様に違いない。遠慮がちに桜色よりも薄くなってしまった淡雪みたいな唇を右手で覆い、「感染っちゃうよ」と眉を下げて諭すように小首を傾げた姉は、空いた左手を僕の頬に優しく添える。


 昔から何も変わっちゃいない──。


 僕が泣き出しそうな時、辛い時、困った時、怒っている時……必ず彼女が僕の存在を確かめるように頬に触れるその癖は、僕の気持ちを安定させる精神薬にも近い。


「いいよ……感染っても」


 今にも涙が雨となって降り出しそうな僕は、姉の華奢で少し冷たいその手に手を添えると、頬の全てで彼女という生き物を感じる。


「帰ろ……僕ん家に」


 割れ物には緩衝材を巻かないと──意識の根底に流れる感覚に従って、僕は姉を覆う為にそそくさとカーディガンを脱いで手渡すと、彼女は僕の腕に刻まれた傷跡を指先でなぞる。


「雫は優しいね」


 目を細めて僕の名前をなぞるように微笑んだ彼女は、振り返って看護師に頭を下げた。


「先輩、今まで色々とお世話になりました……入院費の方は私の給料から」

「ふふっ、最後まで律儀ね。砂煙病は国から特別手当が下りるって連絡があったから、金額の事は心配しないでいいわ」


 先輩と呼ばれた看護師は無理に明るい口調でヒラヒラと手を振ると、「私達また、会えるよね?」なんて冗談ぽく尋ねる。


 その言葉は質問というよりも願いに近く、姉はただ困った表情で瞼を閉じて黙り込む。それから深く息を吸って目を開いた彼女は、「いつでもお待ちしてます」と微笑んだ。


「そう……ね」


 複雑な心境を物語る細い看護師の声に、僕の心臓は雑巾絞りをされているように縮こまって痛み出す。


 一体誰がこんな未来を予想しただろう? 真っ黒で荒れ果てた過去の自分が膝を抱いて睨みつけた世界は、余りにも無情で淡白だ。確かに僕だけが特別不幸な訳ではないのかもしれない。それでも、僕が唯一縋れる光を奪うなんて──。


「行こ」


 僕を気遣うように出された姉の声に意識が呼び戻されると、さっき渡したカーディガンを纏った彼女が目を細める。


「ん」


 ──そうだ……例えいつか潰える光であっても、手の内に納めた輝きを最後まで逃してはいけないんだ……。


 運命の残酷さと自分の幼稚さに呆れつつポケットを弄った僕は、愛車の鍵を取り出す。折角のタンデムシートを見事に活用してないお陰で一つしか持ち合わせていないヘルメットを姉に被せ、お姫様をリードするみたくゆっくりと慎重に彼女の手を引いた。

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