第5話 夜の朝食
帰宅したのは朝5時くらいだった。
橘平は時間感覚も身体感覚もとうに失い、着替えも忘れ、ベッドの掛布団の上にそのまま倒れこんだ。玄関では寝なかった。
眠る、というより気を失っている、と形容したほうが正しい睡眠であった。
次第に空は明るくなり、学校や仕事に行く時間が近づく。
学校の日は7時前に起きてくるはず橘平が、7時を過ぎても音沙汰がない。橘平の母の実花は「もしかして熱でもあるのかな」と少し心配になった。
実花は2階にあがり、橘平の部屋の扉を開ける。すると、ダウンコートを着たまま、うつ伏せで爆睡する息子の姿が目に飛び込んできた。「へええ!?」とすっとんきょうな声が自然とでてしまった。
「ちょっと、なんでこんな格好で寝てるのよ!!きっぺー!!」
と大声で呼びかけても、ゆすっても、つねっても起きない。
父や弟も呼んで、大音量で音楽を流してみたり、弟が上に乗ってみたり、といろいろ試みたが、どうやっても起きそうになかった。
もう放っておくことにした。
橘平が目覚めたのはおやつ時だった。目が開いても一時間くらいは何も頭に浮かばず、ぼーっと白い天井を眺めていた。
体が水分を欲していることに気づき、もっそりと立ち上がった。
ダウンコートを脱いでベッドに投げ、伸びをする。頭のてっぺんやカリアゲ部分をわしゃわしゃと掻く。顔を軽くたたく。そして部屋の向かいにある2階のトイレに入って用を足し、下の台所へと向かった。
窓から外の様子を伺うと、雪はやんでいた。父は村役場、母は村の食堂で働いている。弟は中学生だ。三人が出かけるためにか玄関周りだけは除雪され、飼い犬は除雪された敷石の上に佇んでいる。
橘平はシンクの蛇口をひねり、ポップな恐竜の絵が描かれたマグカップに水道水をなみなみとそそいだ。ぐいっと一気に飲んだ。
それからヤカンに水を入れ、火にかけた。シーンとした一軒家に、ふつふつした音が響く。急須に茶葉を入れ、マグカップになみなみとほうじ茶を注ぐ。
そういえば、さっきもほうじ茶を飲んだな。
遠い記憶のような昨夜の出来事を振り返り、整理する。時間だけみれば、今日の出来事でもある。最後に向日葵と電話番号を交換したことを思い出し、マグカップをもって自室に戻った。
ベッドに放ったダウンコートのポケットからスマホを探り当て、通知をチェックする。友達から「どしたのー?」「風邪か?」といったメッセージが入っているだけで、向日葵から連絡はなかった。
「まあ、あっちも疲れてるよなあ。つーか連絡くれんのかな、金髪の人」
スマホを持ちながら学習机の椅子に腰かけると、ぶるぶる、っとスマホが震えた。知らない番号からの電話だ。普段なら無視するが、反射的に電話に出ていた。
「はい、八神です」
『八神さんですか?こんにちは、一宮です。あの、ひま姉さんから電話番号を教えていただきました』
金髪から連絡があると思い込んでいたので、まさかの電話相手に動揺した。
「あー、あ、そうですか…こ、コンニチハ…えっと、一宮さん、大丈夫?元気?」
『おかげさまで。それで、お話をするとお約束しましたが…今度の土曜日でいかがでしょうか』
本当は今すぐにでも聞きたいところだが、雪も解けきらぬ中、また夜に出歩くのもつらいものがあったし、昼間は学生なので、その提案は妥当だった。
土曜日に会う約束をし、電話はそれで終わった。
橘平は履歴から、桜の電話番号を登録した。〈一宮〉と入力したところで、さくらは平仮名かカタカナか、漢字か、どれだろうと疑問を持った。さくら。サクラ。咲良、咲楽…桜。どの字であろうと、あの木と同じ音だ。ひとまず、平仮名で入力した。
夕方に母親が帰宅し、「なんであんな格好で眠ってたのよ」と当たり前の質問された。とっさに、「一人で雪遊びして疲れ果てた」と答えた。雪の中を走るという「遊び」はしたのだし、そう嘘でもないと思った。はあ?小学生ねえ、とあきれられたがそれ以上の追及はなく、橘平はほっとした。母には、こんな言い訳でも通るらしい。
母親が台所に立ち、だんだんと夕飯の匂いがしてきたところで、猛烈な空腹に襲われ、起きてから何も食べていないことに気付いた橘平だった。
余談だが、昨夜の電話帳は向日葵が疲労した橘平の代わりに入力したので、〈美人でかっこいいおねえさん〉と登録されている。
橘平はいつ気が付くだろうか。
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