第5話 淡い世界、運命の君
関東の梅雨入りはまだ先と言われているけれど、五月下旬ともなれば長雨も増えてきた今日この頃。
ずっと同じような空模様。
この日も朝から空には厚い雲がかかり、僕は雨に降られていた。
本来、女性の服装が薄着になりがちなこの時期の雨天は望むところなのだけれど、どうにもそれを楽しむような心持ちではない。
どこか陰鬱な気持ちを引きずりながら、僕は一人傘を差し登校していた。
今日も今日とて孤独な道のり。
このところずっと、僕は校舎へのこの道を一人で歩いていた。
かつて一緒に歩いていた彼女は、ここにはいない。
そんな僕に、後ろから声がかかる。
「よっ、三上。結構雨が似合ってるぜ」
軽く後ろを見やって、傘を持ち上げ視線を送る。
「……ああ、君か……」
そこには見慣れたクラスメイトの顔があった。
僕は小さく息を吐いて再び前を向く。
「おいおい、つれないのはいつものこととはいえ、今日はまた随分だな」
薄い反応しか返さない僕に構って何が楽しいのか知らないけれど、彼はこんな僕にいつも同じように話しかけてくる。
「……朝から男と話して何が楽しいわけ? 僕には理解できない」
「いやいや、俺だってそりゃあ女子と話す方が楽しいけどよ。目の前にダチがいれば声かけるだろーよ、普通」
ダチ、ねえ……。見解の相違だ。
今の僕には友達の定義さえ曖昧なので、彼のことはただのクラスメイトとしか思えない。第一彼は男だ。
「そもそも、君はなんで一人で登校してるわけ? 彼女と一緒に通いなよ、学校。女の子と共に過ごさない学校生活に果たして価値なんてあるのだろうか?」
何故か彼女がいる彼は、僕の言葉に屈託の無い笑顔を見せた。
「いやあ、そうしたいのは山々だが、ちょっと喧嘩しちまってね。今はちょっと冷却期間さ」
「ざまあみろ――間違えた、それは大変なことで。よく笑ってられるね」
僕の悪態には眉一つ動かさず、彼は言う。
「ふはは、彼女と喧嘩するなんて、彼女がいないとできないことだからな。男ならそれを楽しむくらいの心構えでないといかん」
「……初めて君の言うことに感心したよ」
剛胆というかなんというか。
感心と同時に、僕もそんな考え方になれたらと思ってしまった。
そんな僕の心を見透かしたように、彼は先程までとはまた違った色の笑みを浮かべた。
「――それで、お前も相変わらずか? 一人で歩いてるとこを見ると」
「まあ、何か変わっていれば少なくとも今君とお喋りはしてないだろう」
踊梨が僕より早く朝起きて、一人で登校するようになってからそろそろ二週間になる。
つまり、僕達が口を利かなくなって二週間だ。
「前から疑問だったんだけどよ。お前らまだ同棲してるわけ?」
僕が何も話していないのに何故か大まかな事情を察しているらしい彼がそう訊ねてくる。
「……まあ、ね」
なんでお前にそんなこと答えなければならないのだという思いで一杯だったが、僕は渋々答えた。
今僕が生活している部屋は元々踊梨のもので、その前に僕が使っていた部屋があるので戻ろうと思えば戻ることができるのだが、それはどうにもできないでいた。
この二週間、関係を修復する為の一歩を踏み出すことのできなかった情けない僕だけれど、このまま部屋まで別になればもう何の切っ掛けも関わりも無くなるような気がしたからだ。
女々しさが爆発してる感じなので理由を言うのは憚られる。
有難いことに彼は深くは追求せず、適当な感想を述べた。
「なんだよ、家庭内別居ってやつか?」
「前提が間違ってるけど、概ねそんな感じだよ」
僕としてはその適当な距離感が妙に適度で、苦笑を添えて答える。
まあ実際は笑っているような余裕は無いのかもしれないけれど。
踊梨の運命が決まる五月末の試験まで、あとほんの数日。
なんだかんだですぐそこまで来てしまっていた。
今からおよそ一ヶ月前、僕は彼女から女子力を向上させる為の修行に協力して欲しいと請われ、師匠になった。
けれど今は、彼女とほとんど言葉すら交わしていない。
女子力修行はこの二週間完全に停止していて、結果を出すのはもうほとんど絶望的と言って良かった。
全ては他愛の無い言い合いから始まり、そこから発展した、今思えば馬鹿みたいな口論で台無しになってしまった。
つまり僕が彼女の人生を曲げてしまったようなものだ。
そのことに、僕は少なからず責任のようなものを感じていた。
そしてその後ろめたさが、余計に彼女へ近づくことを忌避させる。
「……大丈夫なのか? 峠止踊梨は。このままじゃ十中八九で退学なんだろ」
少しまじめなトーンでそう水を向ける彼に、僕は答える。
「大丈夫じゃない……」
十中八九どころか十二分に駄目だろう。
現実というのは決して甘いものではない。
正常性バイアスはどこまでいっても錯覚でしかない。
「――けど打開策を、考えていないわけじゃない」
いざという時の為、というかそのいざという時はほぼ確実に来るのだけれど、その時の為の策を僕はここ二週間ずっと考えていた。
正攻法に頼れないなら邪の道を行くしかなく、どうにかこうにか思いついたのは策とも言えない何かだけど。
峠止踊梨の師匠として、僕には責任があった。
「そんなこと考えるぐらいならとっとと仲直りしてお前がトキメいてやれよ」
「……正論を言わないでもらえるかな」
正しさは時に人を傷つける……。
彼の言うとおりにできればどれほどいいか。
物事はそんなに単純ではない。
よく問題は時間が解決してくれるというような論調があるが、あれは嘘だ。
時の経過でもたらされるのは解決ではなくただの忘却であり、諍いをうやむやにしているに過ぎない。
そして忘れた程度で解決した気分に浸れるような問題なら、そもそも大した問題ではない。
僕はこの二週間程度ではあの日の後悔を忘れることなんてできなかったし、この間に流れた時間は余計に僕の行動を雁字搦めにした。
時間が経つほど、謝りにくくなる。
小学生でも知ってる真理だ。
「……人間関係なんてこんなにままならないのに、どうして人はそれでも誰かと関わりたいと思うのだろう」
「日頃女子の尻追いかけ回してる男の台詞とは思えねえな」
馬鹿にし腐ったような台詞とは裏腹に、本当に気遣わしげな視線を向けてくる隣の彼。
というか人聞きの悪いことを言うな。
追いかけ回してなんていない、断じて。
遠くからちょっと眺めているだけだ。
「どうやら大分重傷みたいだが……。女の傷は女に癒やしてもらえよ」
最低な遊び人みたいな台詞を吐いて、彼は前方を顎で指す。
そこには、僕達の傘より二回り以上は小さいであろう傘が小さく揺れていた。
あんなサイズの傘ですっぽり体を隠せるほど小柄な少女は、中々いない。
「おーい、皆瀬!」
僕の隣で、彼がその傘の少女を呼び止める。
その呼び声でこちらに顔を向けたのは、クラスメイトの皆瀬清花だった。
「……三上くん、おはよう」
「おい俺は!?」
声をかけた彼が何か吠えているが僕は無視した。
「おはよう、清花」
そんな挨拶と共に、いつも女の子に向けている笑顔を浮かべる。
正直に言うと、僕は彼女と顔を合わせることにもあまり気乗りしなかった。
踊梨の修行に協力してくれている彼女は僕と踊梨の事情についてよく知っていたし、僕が頼み込んで協力してもらったにも関わらずその僕がこんな醜態を晒し続けているわけだから、合わせる顔というものが無かった。
そんな僕の心境も知らず、彼が言葉を続ける。
「おい皆瀬、三上のやつが色々心労重ねてナーバスなんだよ。慰めてやってくれないか?」
人の気も知らず、彼が無責任なことを言う。
彼の言葉に、清花は小さく小首を傾げて、僕にその瞳を向けた。
「……それは、三上くんからのお願い?」
久しぶりに聞いたような気がする彼女の声に、僕は少し戸惑う。
「いや……」
「三上くんには借りがある。恋もしている。だから三上くんがそうして欲しいというなら私にはいつでもそれに応える準備がある」
臆面も無くそんな気恥ずかしくも有り難い台詞を述べて、清花は「でも」と続けた。
「でも私としては、三上くんが今抱えている悩みは三上くん自身が解消すべきだと思っている。三上くんが望むことならなんだってしてあげたいけれど、私にできることは高が知れている。この場合、心労の原因は解決できない」
大して何も説明していないのに、僕が何に心を悩ませているかなんてお見通しだという体で彼女は言った。
「まあ私としては、この機に乗じて三上くんの心を手に入れに行くのもやぶさかではないけれど」
真顔でそんな風に嘯く彼女に、僕は思わず苦笑を溢す。
彼女の言葉は何も間違っていない。
踊梨と僕の問題は僕にしか解決できないし、解決するべきなのだ。
そもそも清花に慰めて欲しいなんてお願いはあの軽薄な男が勝手に言ったものだけれど、彼女がきちんと言ってくれて助かった。
今、清花に甘やかされなんてしたら、心の弱い僕のことだ、そのまま流されていってしまったかもしれない。
「ありがとう、清花。こんな僕を見放さないでいてくれて」
だから僕は、彼女にお礼を言った。
踊梨とのごたごたを長引かせて清花との縁まで疎遠になりつつあったのに、そんなことは意に介していないような様子で接してくれる。
「気にしないで。と言いたいところだけど、気にしてくれるなら今度デートに付き合って」
そう言えば、修行へ協力する見返りとして僕とのデートを条件にしてきた彼女だったが、それは僕からお願いするという話になり、結果未だにその約束は果たしていない。
「わかったよ。……ただ、ちょっと待っていて欲しい。その前に、面倒事を一つ片付けたいから」
折角の清花とのデートも、別の事に頭を悩ませている状態では十二分に楽しめない。
どうやらいい加減、一歩踏み出さなければならない時が来たようだった。
◇◇◇
とはいえ、これまで頑なに踊梨との会話を避けてきた僕である。
いきなり話しかけても相手にされないかもしれないし、何より話しかけづらい。
何か彼女と話す丁度良いきっかけが、どこかに転がっていないものだろうかと頭を悩ませている間に、僕の午前中は過ぎていった。
午前の授業が終わり、昼休み。
頭の使いすぎからか僕の胃袋はいつも以上の空腹を訴えていた。
取り敢えず昼食だなと学食に向かおうと僕が席を立った矢先、廊下の方から聞き覚えのある声が飛んできた。
「おーい、伊吹クーン」
そんな誰もが思わず顔を向けてしまう声色で僕を呼ぶのは、日本のアイドルこと高遠璃咲先輩その人だった。
呼びかけられた僕はもちろん、クラス中の視線がそこに集まる。
「せ、先輩っ!?」
突然の訪問に僕の声はうわずる。
誰もが焦がれる高遠璃咲と浅からぬ縁を持つという光栄に浴してきた僕ではあるけれど、こんな風に教室を訪ねられたことは今まで無かったし、何よりここ最近は彼女との関わりも減ってきていたので、突然の接触は心臓に悪い。
彼女の魅力には、慣れなんてあり得ないのであります。
そんなわけでどぎまぎを思いっきり顔に出しているであろう僕に、先輩は軽く手を挙げてこう言った。
「や。ちょっと頼み事があるんだけど、伊吹クン今、暇?」
「先輩の頼み事なら授業でも法事でも抜け出す所存です」
深々と頭を下げて僕は答える。
気分としては姫に忠誠を誓った騎士である。
実態は美女と野獣であるけれど。
「そこまでされるのも困るんだけどな……」
困った笑顔も似合う彼女だ。
かわいいぜ。
「まあいいや、暇ならちょっと付いてきてよ。行きたいところがあるんだよね」
「それは全くもって構いませんが……。いいんですか?」
それとなく周囲の反応を窺いながら僕は尋ねる。
先輩がやっているのは完全に呼び出しである。
この学校において生徒が別のクラスの異性を呼び出すなんていうのは珍しい光景ではなく毎日そこかしらで行われている日常茶飯事なのだが、高遠先輩がそれをやるとなると話が異なる。
それは先輩自身理解しているはずだが……。
「ん? 何が?」
けれど先輩は、柔やかな笑みを貼り付けて、僕の懸念を一蹴した。
「いやぁ、学校の敷地からは出ないんだけど、ちょっと遠いからさ。一応ボディーガードを頼めないかと思ってね」
その言葉に、僕は頷く。
僕と踊梨は先輩の私的なボディーガードであるということで学校にも名が通っている。
だからその名目で彼女に付き従うのはおかしなことではない。
けれどその実、彼女から本当に警護を頼まれたことは今まで一度も無く、今回も何か別の用件があるということは明白だった。そしてそれをここで明かすつもりは無いということも。
「わかりました、行きましょう」
まあ向かう先がどこであろうと何が待ち構えていようと本当に危険を伴おうと、僕には他の選択肢なんて無い。あったところで選ぶ気が無いのだ。
それに、丁度彼女に相談したいこともできたところだった。
◇◇◇
今朝に比べれば雨は大分小ぶりになっていたけれど、傘を手放すという程でもなく、僕と先輩、二つの傘が並んで道を歩いていた。
場所は校舎からはそれなりに離れた位置にある、生徒達から俗に森林エリアと呼ばれている所で、道の両脇には豊かな緑に彩られた林が広がっている。
遊歩道やちょっとしたレジャーを楽しめるような場所も整備されていて晴れの日にはお外好きの男女でそれなりに賑わうのだが、今は僕達以外に人影は無い。
折角の雨天なのでできることなら相合い傘と洒落込みたいところだったが、先輩相手にその提案は不遜なので僕は苦汁を飲む決意をした。
いっその事どちらかの傘が破れてくれれば自然な流れで移行できるのに。
そんな邪な考えを巡らせる僕に、先輩は不意にこう言った。
「なんだか久し振りな気がするね、キミとしっかり話をするの」
「……そうですね」
実際、僕と踊梨の仲違いによって先輩との関わりも極端に減っていた。
「最近どう? 元気にやってる?」
「残念ながら元気とは言いがたいですね。先輩はどうですか? なんだか今まで以上にお仕事が増えているみたいですけど」
「まあねぇ。忙しくさせてもらってるよ。けれどちょっと前までは忙しい中にも閑有りって感じで楽しかったのに、最近は後輩二人がずっと喧嘩してるからさぁ。大変だよ私は」
そんな風に、愚痴っぽく言われる。
完全に僕を指しての台詞であり、申し訳なく思う。
そして彼女の気まで煩わしてしまっているのならば、余計に早く解決しなければならない。
「……その件で、先輩に相談したい事があったんです」
意を決して、というほどのことではないけれど、それなりに覚悟を決めて僕は言った。
僕の台詞に、先輩は少し驚いたような顔を向けた。
「なに? 何でも聞くけど、どしたの?」
そして僕は言う。
「踊梨にちゃんと謝って仲直りしたいんですけど、面と向かって話をする切っ掛けが見つからなくて……。どうすればいいでしょうか」
そんな僕の台詞に、先輩は更に驚いたように目を開いた。
そしてそれからふっと顔を緩め、それからぽつりと言う。
「ずっと喧嘩してる癖に、考えることは一緒なんだもんなぁ……」
「え? どういうことですか?」
先輩のよくわからない一言に首を傾げる僕。
彼女は言った。
「もう知ーらない、なるようになっちゃいなよ、さっさとさ。多分決して、悪いようにはならないから」
「ええ……」
発言の意味がわからず眉を顰める僕に、
「ほら、着いたよ。ついてきて欲しかった場所はここ」
彼女はそう言って広げた手で辺りを示す。
そこは、森林エリアの最奥。
二十五メートルプールが二つ三つ収まりそうな大きさの湖が広がるその場所には、ゆっくりと湖を眺めながら語らう為のベンチが数基備えてあって、雨天でも雨に濡れないよう藤棚も誂えてある。
そしてそんな藤棚の下で、一人の女子生徒がベンチに腰掛けていた。
僕はそんな彼女の姿を認めて、思わず目を丸くする。
次いで隣の先輩に非難がましい視線を向けた。
「ちょっと先輩、なんでここにあいつがいるんですか」
僕のもっともな問いに、先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「だってそりゃ来てもらうでしょ、彼女も私の大事なボディーガードなんだから」
その台詞に僕は諦めて、藤棚の彼女の方へ目を向ける。
そこにいたのは、他でもない、峠止踊梨その人だった。
一人ぼんやりとその場に座っていた彼女は、僕と先輩の声に気づいたのか立ち上がり、ゆっくりとこちらを向く。
「……待ってたわよ、伊吹」
どうやら向こうは僕が来ることを予め知っていたらしい。
僕はそんな彼女になんと声をかければいいのかわからず、
「……よう」
取り敢えずそれだけ返して、彼女のベンチに歩み寄った。
同じ部屋で寝起きしている相手ではあるのに、こうして見る彼女の姿は清花や高遠先輩以上に久方振りに思えた。
「お前も先輩に呼ばれたのか?」
「ええ、先輩がお気に入りのこの場所に来るためにボディーガードとして私達を集めたという設定よ」
「いや、設定って言ってますけど……」
だけどこれで大体の事情は飲み込めた。
先ほどの先輩の言葉にも得心がいった。
つまり僕と踊梨は、お互い同じようなことを考えて先輩に相談していたというわけか。
僕はため息をつきたくなるのを堪えて、額に手をやる。
いい加減踊梨と仲直りしたいとは思っていたが、まさかいきなりこんな展開になるとは思っていなかった。
そして突然引き合わされても、何の準備もしていないのだから何を言えばいいのかわからない。
そんな僕と踊梨に先輩は、
「それじゃあ、私は適当に辺りを散歩してるから、ごゆっくり」
と言ってどこかへ行ってしまった。
いや、もう警護っていう名目も一緒にどこかへ行っちゃったじゃん……。
僕が項垂れていると、踊梨がぽつりと言う。
「……座りなさいよ、取り敢えず」
随分と素っ気ない一言だったが、どうやら彼女は僕と会話してくれる気ではあるらしい。
僕としても彼女としっかり話す場というもの自体は有り難いものだったので、言われたとおり彼女の隣に腰を下ろす。
藤棚がしっかりと雨滴を防いでくれているようでその場で傘は要らなかったが、目の前の湖には未だポツポツと雨粒の波紋が広がっていた。
そして、二人並んでそんな景色を眺めるのはいいものの、ぎこちない沈黙が流れる。
どうやら踊梨も僕と同じく何を話せばいいのかわかっていないような様子だった。
「……良い天気ね」
「いやめっちゃ雨だけど」
話題に困ってるのはわかるけど、これが良い天気だとはとても思えない。見解の相違か?
「でも、雨の日があるから晴れの日の良さが高まるとは思わない?」
「……それはまあそうかもしれないけど」
そうかもしれないけど、そうかもしれないだけだ。
何が言いたいんだこいつ。
「…………」
いや、黙るのかい。僕も黙っているけれど。
まったく、いつの間に僕達はこんな話題の困る間柄になってしまったのだろう。
ちょっと前までは下らない会話で時間を無駄にするほどだったのに。
なんだかやるせない気分になって、僕は散々堪えていたため息を盛大に吐いた。
「はあ……。なんだかなぁ」
すると、隣に座っていた踊梨が何故か慌てたように肩を揺らした。そして言う。
「ごめんなさい、私と話なんてしてもつまらないわよね」
聞いたことも無いような彼女の声色に思わずそちらを向くと、踊梨はどこか遠いところを見るような目をこちらに向け、心苦しそうな笑みを形作った。
彼女らしくないそんな態度に、僕ははっと気づく。
そうだ、彼女はまだ誤解したままなのだ。
彼女は、僕が踊梨のことを嫌いだと思い込んでいるままなのだ。
あの時の彼女の言葉を、僕が否定しなかったばかりに。
あの時の僕の言葉が、彼女を傷つけるものだったばかりに。
いったい何が話題に困るだ。
僕はまず何より先に、その思い違いについて話をしなければならなかった。
「踊梨、ごめん、話があるんだ」
だから僕は口を開いた。
彼女は何かを待ち構えるように目を細めた。
「話さなきゃいけないことは山ほどあるけど、まずはこれだけ言わせて欲しい。君はあの日、僕が君のことをどうでもいいと思っているんだろうと言っていたけど、それは誤解だ。僕は断じて、そんなことは思っていない」
細められていた瞳が、薄らと開かれる。
「むしろ逆なんだよ。僕はこれまで頑張る踊梨の姿を見てきたから、踊梨には何としてもその目標を達成して欲しいと思っている。退学になんてならないで欲しいと思っている――そう思っていたから、焦っていたんだ。僕が、君に結果を出させてやれないことに。そしてその焦りから、色々と酷いことを言ってしまった」
二週間も言えずにいたけれど、口に出してみれば何のことは無い、ただのありふれた謝罪。
だけどきちんと伝えなければいけなかった謝罪だ。
僕は頭を下げ、続けた。
「済まなかった。踊梨だって頑張っていることは知っていたはずなのに、それを無視して傷つけてしまった。頑張りが足りないなんて言葉は、僕が言っていいものではなかった。反省している」
謝らなければいけないことはまだまだある。
このつまらない喧嘩のせいで、彼女の大事な時間を二週間も奪ってしまった。
この学校に残れるかどうかが決まる大事な二週間だったのに。
「今頃こんなこと言うなんて遅すぎるけど、どうか許して欲しい。そして許されるなら、最後まで君の修行に協力させて欲しい」
そんな申し出をする僕に、彼女はしばらく何も言葉を返さなかった。
やはり、今更許してもらおうなんて虫が良すぎたか。
そう思った矢先、彼女がおもむろに言葉を発した。
「……私の方こそ、ごめんなさい」
そんな台詞に、僕は思わず顔を上げる。
「私もあの日からずっと考えてた。どうしてこうなっちゃったんだろう、何がいけなかったんだろうって。……そうやって考えて、結局悪いのは私だって気づいたわ。伊吹の気持ちも考えず、自分勝手なことばかり言っていた。あんたは、私が無理矢理協力させたのに、そのことも忘れてた」
「いや、だから僕は別に――」
協力するのが嫌だったわけじゃない。
そう言おうとした僕の言葉に被せるように、踊梨は続けた。
「だから、そうじゃないって言ってくれて、嬉しかった。とても嬉しかったの。ずっと、私はあなたに嫌われていると思っていたから」
そう言って彼女は小さく微笑んだ。
その穏やかな笑みは元から整っている彼女の顔立ちも相まって、そこに吸い込まれていくような不思議な感覚を僕に与えた。ていうか今気付いたけど、ちゃんとメイクしてるじゃん……。
「そして、ね……。驚くほどに嬉しかったから、私、気付いちゃった。自分でも今まで半信半疑だったんだけど――」
そして、彼女の真っ直ぐな瞳が僕を見据える。
「――私、どうやらあんたのこと好きみたい」
鼓動の音が、聞こえた気がした。
「えっ……」
一瞬何を言われたのかわからず、そしてわかってからも尚、何故そんなことを言われているのかわからなかった。
「それはえっと、どういう好き? 友達として好きってこと? それとも――」
「普通に男女として好きってことだと思う、けど」
僕のあたふたとした見栄えの悪い問いにそう答え、彼女は慌てるように顔を背けた。
「わ、私だってよくわかってないのよ! 今まで人を好きになったことなんて無かったし、誰かを好きになるって感情もよくわからないし……」
目の前で起こっていることが現実だと飲み込むことのできない僕に、彼女は続ける。
「自分でもよくわからない内に、多分私はあんたを意識してた。あんたが他の男をトキメかせる為にって考えてくれてた作戦でも、私の頭にはあんたをトキメかせることしかなかったし、あんたから他の男をトキメかせろって言われた時は腹が立ったし、あんたは私に興味無いんだと思った時はショックだった」
そろそろ高遠先輩とかがドッキリ大成功の看板を携えてその辺から出てくるのだろうか? しかしそんな気配は感じられない。
「あんたと喧嘩してからその辺りの事を先輩に相談したら、それは恋だねとか楽しそうな顔で言われるし、清花にはなんだかものすごい敵対心を向けられるし……」
なんだかその光景は鮮明に想像できた。
ということは、今踊梨が語っている言葉も全て事実なのだろうか。
「恋だとか言われても、それが結局どういうものなのかはわからなかった。けど、あんたに嫌われているわけじゃないんだとわかった時の安心感と嬉しさ――これがきっと、恋に落ちてる状態なんだろうって、私は思っちゃったのよ」
とても信じがたい出来事だったから中々信じることができなかったけれど、そもそも踊梨が冗談や悪戯でこんなことを言い出す奴ではないということを僕は知っている。
……いや、どうかな。
案外冗談で言い出す可能性も……。
無いとは言い切れない、が。
少なくとも今の彼女は本気であろうということは、目を見ればわかった。
だからこそ、僕は答えなければならないだろう。彼女の想いというやつに。
そしてその為には、はっきりさせなければならないことがある。
僕は彼女のことを、踊梨のことをどう思っているんだ?
自分のことなんてどうでもいいんじゃないかと、踊梨は言った。
けれどそれは違う。
僕は彼女の努力が報われて欲しいと心から思っている。
だからこれまで協力してきた。
それは彼女が僕にとってどうでもいい存在ではないということだ。
そんな僕を、じゃあ彼女のことを好きなんじゃないのと先輩はからかうようになじった。
けれどそれも違うと思う。
確かに僕は踊梨のことを憎からず思っているけれど、彼女にトキメキを覚えたのは最初期の一度だけで、それもTPにして十ポイント程度。
この事実が、先輩の考えに対する反証になっている。
だが、僕が彼女にTPを生み出すことができないのは、僕が彼女に対しての想いを自覚していないからかもしれないと清花は論じた。
だから彼女は未だにTPを得ることができないのだと。
もしその考えが正しいとすれば、先輩の考えを否定する根拠が無くなる。
というかそもそも、自分の感情について論をこねくり回して、僕は何をしようとしているんだ?
どういう方向に話を持って行きたいんだ?
こんなもの、僕が踊梨に対してこれまでどんな感情を抱いていたのか、それを正直に明かせば終いじゃあないのか?
葉桜の季節に彼女と出会い、修行と称して色々なことを一緒になってやってきた。
色々な彼女をこれまで見てきた。
そして、彼女が噂で語られるほどにどうしようもない少女というわけではないということを僕は知った。
確かに彼女は常識や共感力が欠けていて、デリカシーも無いし始めは顔も洗わなかったし料理はできないし自分勝手だしすぐ調子に乗るし、彼女がしでかした失敗を数えれば枚挙に暇が無い。
けれど彼女はそんな自分を変えようと努力してきた。
親の意向で通うことになったこの学校を、自分を変えるチャンスだと捉え足りないものを補おうとやってきた。
出会った頃の下ネタは今では鳴りを潜めているし、身だしなみにも気を遣うようになったし、自分の行いを顧みるようになった。
そんなどんどん変わっていく彼女を間近で見ながら、僕は何を想っていたのか。
努力を厭わず前向きに進歩を続ける踊梨。
そんな彼女に僕が感じたのは、トキメキでは、ない。
それは名前の無い、なんだかモヤモヤとした薄暗い感情だった。
彼女が女子として少しずつ魅力を増していくことを僕は喜ばしいと感じつつも、同時に少しずつそんな感情を蓄積させていた。
僕が他の女子、例えば先輩や清花に時折感じるような純粋なトキメキを、僕は踊梨には感じなかった。
それは何故か。
僕はもうわかっている。
それは彼女の懸命な努力が、女子力向上という目標が、僕以外の別の男の為のものであるという風に理解していたからだ。
そして僕自身、始めからそういうものであるとして彼女の修行に協力してきた。
僕は彼女にトキメくことができなかったから。
彼女の修行は女子力を向上させて退学を免れる為のものであり、その鍛えられた女子力は僕以外のどこか他の男子に向けられることになる。
始めからそういう理解の下で、僕は彼女の師匠を買って出た。
しかし修行を始めて少しずつ彼女の少女としての魅力が磨かれていくにつれ、それがいずれ僕の知らない男子をトキメかせるという事実に、僕は言いようのない醜い感情を覚えたのだった。
そう、あれは、嫉妬に似ている。
嫉妬や独占欲などの醜悪な感情をごった煮にしたような、名前の無い黒い感情。
それが僕が踊梨に対して抱いてきた感情だった。
それはある種の認知的不協和だったかもしれない。
僕という人間は狭量で矮小で、本当にどうしようもない。
全ての女子が好きだみたいな碌でもない思考を飼い慣らした気になって、まず第一に女子のことを考えているみたいな顔をしながら。
努力は報われて欲しいみたいなことを言いながら。
僕は本当は、彼女に他の男をトキメかせて欲しくなかったのだ。
一番自分勝手なのは僕だった。
そんな僕に、不意に踊梨が言った。
「……ところで、お腹空かない?」
そんな一言で僕は思考の淵から引き戻される。
高遠先輩に連れ出されるまでは確かに空腹だったけれど、ちょっと色々あったせいで今はそれを感じる余裕は無い。
とはいえ何か食べ始めれば入るだろうが――
「えっと、踊梨……?」
些か唐突な彼女の話題に僕が怪訝な顔を浮かべると、
「お弁当、あるんだけど……」
彼女は傍らの鞄からおずおずと弁当箱の入った包みらしきものを取り出した。
そして意を決したようにそれを突きつけ、
「あんたの為に、作ってきたんだから!」
赤らめた顔で、そう言った。
「――ありがとう」
僕は呆気にとられながらもそう礼を言った。
「けど、どうしていきなり弁当を?」
「仕方が無いでしょ! 作って来たはいいものの、どのタイミングで渡せばいいのかわからなかったんだから!」
そう言う彼女は居心地が悪そうにそっぽを向いている。
「あんたにちゃんと謝る為には、あんたが教えてくれようとしていた料理をしっかりできるようにならないと駄目だと思ったのよ。……早く開けなさい」
急かされて言われるがままに包みを広げる僕。
そして蓋を開けた弁当箱には、驚くべき光景が詰まっていた。
卵焼き、ハンバーグ、プチトマトにレタス、そして肉じゃが。
冷凍食品などには頼っていない、そして驚くほどにきちんとした見た目の、夢のような手作り弁当がそこにはあった。
「こ、これをお前が……?」
俄には信じられず、思わず踊梨の方に視線をやる。
「何よ、信じられないっていうの? ……あれから頑張って練習したのよ。先輩や清花に手伝ってもらって」
視線を逸らしたまま、恥ずかしそうに彼女は言った。
「そうか……」
それはまあ、彼女達には随分と迷惑をかけてしまっただろうが、恐らく一番頑張ったのは他でもない踊梨だ。
あの踊梨がこんなにしっかりした弁当を作れるようになるなんて……。クララが立った時以上の衝撃を覚える。
修行を提案した僕も、まさか二週間でここまでになるとは思っていなかった。
「……食べてもいいか?」
「当たり前でしょ、何の為に作ってきたと思ってるの」
「いや、ちょっと自分でも驚くほどの感動と驚嘆で、勿体ないから食べずに防腐処理して冷凍保存した方がいいんじゃないかと、俄に思い始めてるんだけど」
「そういう気持ち悪いのはやめてお願いだから」
懇願されるように彼女に請われ、僕はそれではやむなしと箸を付ける。
そしてまずは肉じゃがをひとつまみ。
「……美味い」
「ほ、ほんと?」
「あ、ああ……。驚くべき事に、本当に美味い」
「そこまで愕然とした表情で言われるのも釈然としないけど、まあいいわ」
得意げにふふんと鼻を鳴らす踊梨。
おいおいマジかよ、見栄えがいいだけじゃなく美味いのかよ。
こいつほんとどうしちゃったんだよ。
「僕が立てた手作り弁当作戦は、味には頓着していなかったはずだ。あくまで踊梨が自分で食べることを想定していた。それは見た目と味、両方のレベルを高めるのは時間的に厳しいと思っていたからなのに……。これなら普通に男子に食べさせられるぞ。落としたい男に食わせて胃袋を掴むことも夢じゃない」
偽らざる僕の正直な評価。
それを受けて、踊梨はなんだかふて腐れたような表情を浮かべた。
「だから、私は別に他の男子に食べさせたいなんて、それでTP稼ぎたいなんて思ってないのよ。私が胃袋を掴みたいのは、他でもないあんたなんだって」
そんな台詞に、思わず僕はむせ返ってしまった。
人が食事をしている時は、キュンと来ちゃうような台詞はできるだけやめてもらいたい。
「ちょ、ちょっと、大丈夫!? なんか変なの入ってた!?」
「いや、大丈夫……。ちょっとびっくりしただけ……」
しかし、どういうことだろう。
今まで踊梨に対して純粋なトキメキなんてほとんど感じてこなかった僕が、ここに来てその言動に翻弄されている。
……いや、本当は理由なんてわかっている。
踊梨の目の前にいるのが他の誰かではなく、僕なのだと彼女がその言葉と態度で伝えてくれたから。
器の小さい僕は、それでようやく雑念無く彼女と向き合うことができるようになったのだ。
そこに思い至り、僕は大事な話を思い出した。
「――踊梨、さっきの話だけど」
「さっきの話?」
きょとんとする彼女に僕は続けた。
「さっき君が、僕に告白みたいなことしてくれただろ。僕はまだそれに対して、何も答えていない」
すると彼女は「ああ、そのことね」と呟いて、小さく息を吐いた。
「あんなこと言っておいてなんだけどね、伊吹。私は別に、あんたにはっきり答えを出して欲しいとか、付き合って欲しいとか、そういうことを思っているわけじゃないのよ。だって、誰とも付き合わないっていうのがあんたの考え方なんでしょ? その考え方も、どうしてそんな考えに至ったのかも私は知っちゃってるから、今すぐ付き合ってなんて言えないわよ」
「でも、そんなことじゃあ――」
「けど、これだけは言っておくわよ」
僕の反駁を無視して、踊梨が続ける。
「あんたは一人の女性を一生好きでいる自信が無いから誰とも付き合わないって言った。でも私だったら、あんたに嫌われたとしても、そしたらもう一度好きになってもらえるように頑張るだけよ。今回みたいにね」
「――」
「そして心配しなくてもその内、あんたが下らない考えなんて捨ててそっちから告白してくるぐらい、女子力の高い女になってやるっての。あまり峠止踊梨を舐めないことね」
そして懐から取り出したTRの画面をちらりと見て、彼女はニヤリと口を歪めた。
「それにあんたが私のことをどう思ってるかなんてもう、はっきり聞くまでもないしね」
言われて僕は思う。
その画面には今、一体どれほどのTPが表示されているのだろう。
「……僕に嫌われたかもと思い込んでしょげ返ってたやつの台詞とは思えないな」
気恥ずかしさを誤魔化すように僕が茶化すと彼女は、
「はーあ!? そっちこそ、散々馬鹿にしてた私にあっさりトキメいて恥ずかしくないわけ?」
そんな風に煽り返してきた。
いつの間にか僕達の間には、以前までのような空気が戻ってきていた。
いや、以前までよりも更に居心地が良いかもしれない。
雨降って地固まるとはよく言ったものである。
そんな僕の胸中を知ってか知らずか、踊梨が不意にこんなことを言う。
「伊吹、どうやらようやく、雨は止んだみたいよ」
言われて視線を空に向けるも、頭上には未だにどんよりと厚い雲が覆い被さっていて、雨粒も小刻みに落ちてきている。
「……どこが? めっちゃ雨降ってるけど」
僕がそう問うと、彼女は軽やかな足取りで藤棚の下から雨空の下へと躍り出た。
「確かにそうね。けど、今の私達には雨より晴れが似合っていると思わない?」
そう言って彼女は右腕を真っ直ぐに空に突き出した。
「太陽がこっちを向かないなら、この手で掴み取ってやるのが私の流儀よ!」
そんな台詞を吐いた彼女の右腕から放たれる、猛烈な風。
僕は彼女が何をしたのか、即座に理解した。
その右腕に付けられているブレスレットのような物は、清花が彼女の為に作ったTDだ。
それは腕が向けられた方向に風を吹かせるというもの。
けれど女子力の低い彼女向けに誂えられたそれは、出力を犠牲にしたデバイスであるはずであり、今僕の目の前で吹き荒れているような風を起こせるような物ではなかったと思うんだけど……。
けれど実際彼女のTDは突き上げられた拳の方向へ竜巻のような風を吹かし、そして――
重たく厚い雲に一点、円形の穴が穿たれた。
そしてそこから差し込む一筋の陽光が、僕達のいる湖を照らし出した。
「――」
突然広がった淡く幻想的な景色。
そしてその真ん中で、僕に向けて溌剌とした笑みを向けている踊梨。
その光景に、僕はしばらく言葉を失った。
「へへーん、どんなもんよ! やっぱり雨より晴れの方がいい感じじゃない?」
「――いや、まあ、それはそう思うけどさ」
湖面からちらちらと反射する光に目を細めながら、僕は無粋な一言を彼女に贈った。
「こんなことにTP使って、試験は大丈夫なわけ?」
今の現象を引き起こすのに、彼女はどれほどのTPを使用したのか。
はっきりとした数値は知らないが、僕の一言で画面を確認し青ざめている彼女を見るに、大体のことは理解できた。
「どどど、どうしよう伊吹ぃ~!」
「うん、もうちょっと後先考えて行動するよう気をつけような」
万難を排してようやく手に入れた念願のTPをこんな豪快な使い方をするのは、まあ彼女らしいとは言えなくもないけれど。
ただその結果として今にも死にそうな顔をしている彼女は、何とも面白くて、僕は思わず笑ってしまった。
「ね、ねえ伊吹? ものは相談なんだけど、明後日の試験までに、もう一度さっきみたいにトキメいてくれない? くれるわよね? それぐらいできるわよね!?」
「さあね、踊梨次第だ。でも手作り弁当作戦はもう文字通り喰らってしまったから、別の方法で頼む」
「ここ二週間で準備してきた武器が早くも使えない!?」
頭を抱えて愕然とする踊梨。
まあ退学が懸かっているのだから当然だろう。
けれど僕は、今の事態をそれほど心配していなかった。
これは僕の希望的観測かもしれないけれど、彼女がこの先全然TPを稼げないなんていうことは無いだろう。
何故なら僕は、もう彼女への感情をしっかりと自覚してしまっているのだから。
◇◇◇
人類の歴史を長いと捉えるか短いと捉えるかは人によるだろうが、その歴史の積み重ねは一つの真実を僕に教えてくれている。
それは、人はどこまで行っても、他者との関わりの中で生きる生き物であるということだ。
人類の歴史とは、人間関係の連なりである。
人を愛し人から愛され、誰かの為に何かを成し遂げる。
そしてその想いや成果を次の人々へ繋いでいく。
家族、社会、国。
様々な他者との関わりを軸に、僕達は今日を生きている。
とはいえその関わりが生み出すものは、良いことばかりでもない。
人間関係の中では時に残酷な出来事に心を引き裂かれることもある。
喧嘩、仲違い、対立、軋轢、戦争。
人との関わりは大なり小なりの痛みを伴うというのもまた、事実であろう。
三度の世界大戦を経て傷つき荒廃した世界でも、人の歴史は続いていく。
つまり人が人として生きる以上、僕達は永遠にずっと同じ事を繰り返すのかもしれない。
けれどそんな中で生まれたTCシステムは――人の想いを力に変える夢のようなシステムは、僕達に希望を伝えてくれているのではないか。
例え痛みを伴うものであったとしても、誰かを想い誰かと関わることは、かけがえなく素晴らしいことなのだと。
そう示してくれているのではないか。
なんていうこと、僕は近頃考えている。
そんなTCシステムの研究開発の為に設立された教育機関。国立高緑高等学校。
そんな学校に僕が入学して、早くも二ヶ月が過ぎた。
身に余るような幸福や幸運を享受しつつも、当初僕が予想していたより遙かに山有り谷有りだった高校生活。
たった二ヶ月でそんな万感に想いを馳せるのもどうかと思うが、まあ実際色々あったから仕方が無い。
「いやぁ、でも一時はどうなることかと思ったよ」
明るい笑顔と共にそう言うのは、日本が誇るアイドルである高遠先輩。
「私としてはどうにかなってしまっても一向に構わなかったけれど」
起伏に乏しい声を発する清花は、けれどいつもより少しだけ表情が柔らかだった。
「でも、こうやって三上くんの手料理を食べるという貴重な経験ができたし、悪いことばかりではない」
「すき焼きかー。伊吹クンの家ではお祝い事の時にしか食べないって噂の」
「そうですよ。だから食べてるんです」
こうして四人で鍋を囲むというのは、中々どうして良いものである。
そんな穏やかな感想を抱いていた僕の隣で、彼女が言った。
「いやー! 皆さんご心配おかけしました! そして色々ご迷惑おかけしました!」
殊勝な台詞に似合わない、屈託の無い笑顔を浮かべ騒いでいるのは、もちろん踊梨だ。
今日の日付は六月一日。
五月の月間女子力評価と昨日行われた試験の結果が通知されたのがつい先ほど。
どうにかこうにか退学という結末だけは回避した踊梨を祝うべく、彼女達は集まってくれていた。
「いやーでも、流石私っていうか、ガチれば不可能なことなんて無いっていうか? この感じだと私がこの学校の頂点へ上り詰める日もそう遠くないんじゃないですか?」
「そのすぐ調子乗る癖、どうにかした方が良いよ」
「なに固いこと言ってんのよ伊吹! 今日ぐらいはぱーっと飲みなさい! 騒ぎなさい! 無礼講よ! なんか芸しなさい伊吹! 裸踊りとか!」
「酔ってんの? ソフトドリンクで? 勘弁してくれ」
僕はもう騒ぐとかそういう気分では無い。
ようやく肩の荷が下りたというか、師匠としての責任を果たせたというか。
退学回避という結果を聞いたところで、どっと疲れが出てしまった。
しばらくはゆっくりさせてもらいたいところだ。
「……まあ、こうして正攻法で試験を突破することができてよかったよ。色々あったけどさ」
そういう安堵は僕にもあったので、第一志望の大学に受かった人間でもしないであろう喜び方をしている踊梨を、特に止めるでもなく好きにさせていた。
そんな僕に、彼女が笑いかける。
「あんたももっと喜びなさいよ。これでまだ私と一緒にいられるようになったのよ?」
「……目標は達成したのだから、僕は晴れてお役御免では?」
彼女の女子力修行は五月の試験を乗り切ることが目的だったはずだ。
それはもう達成された。
眉を顰めて尋ねる僕に、
「何言ってるの、まだまだ付き合ってもらうわよ! というか、全てはここからなのよ!」
そんな身勝手なことを言ってくる。
「これまで以上の女子力を目指す時が来たのよ! ここから先始まるのはただの女子力修行じゃない! これはそうね、まさしく、花嫁修業よ!」
「いや、花嫁修業って……。また随分と大事だな」
まあ、彼女に振り回されるのにはもういい加減慣れている。
僕はやれやれと頭を振りながら彼女に言う。
「まあその心がけは立派かもしれないけどさ。相手を探す方が先なんじゃないの? そういうのって」
そんな僕に、踊梨はこんなことを言ってのけたのだった。
「あら、相手なら、もう見つけたわよ」
そしてにかっと笑う彼女。
ふーん、そう。
なるほどな?
どうやら彼女とは、もう少ししっかりと話し合う必要があるようだった。
路傍の貴石の花嫁修業 カワナガ @kawanagaharuto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます