第4話 君の修行は、誰が為に

 人間、つまりヒトの遠い祖先である原人は大体二百万年前の更新世辺りに発生したと考えられている。

 始めはサル同然だった僕達の祖先はいくつかの種に分かれたり滅びたりしながら次第に服を着ることを覚え、火の扱いを心得て、石器を用いるようになり、直立二足歩行するようになったのを切っ掛けとして急速に技術や文化を発展させていったそうだ。

 現生人類に至っては、その技術の発展速度が凄まじいものであることに異論の余地は無いだろう。

 火の発見と利用という第一次エネルギー革命から二度目の革命までは数十万年の間があったけれど、そこからは一世紀程度でエネルギーの主役が石油に移り、そして今では人の感情をエネルギー利用する技術が開発されている。

 それぞれのエネルギー革命を揮発材として科学技術もまた次の段階へと発展してきたというこれまでの歴史通り、僕達が生きる今の時代も新技術の黎明であり過渡期であった。

 そういう世界を目の当たりにしていると、人類の発展とは目覚ましいものだと思わされる。


 けれどそれはあくまで種としての話であり、個体としての進歩や成長というものは時に非常に遅々としている。

 僕はそんな実感を抱かざるを得なかった。

 傍らの彼女を見ながら。


「それで、なんでじゃがいもが無いんだよ! 今日練習するのは肉じゃがだぞ!? じゃがが無かったらただの肉じゃないか!」

「いやねえ伊吹、これはただの肉じゃないわ。兵庫県が誇る黒毛和牛で、あらゆる他のブランド牛のルーツであるとも言われている、但馬牛よ!」

「なんでそんなアホみたいに良い肉買ってきてるんだ! 普通の豚肉でいいって言っただろ! 高校生が食う肉じゃないんだよ! 肉じゃがにするのが勿体ないわ!」


 家計に余裕なんて無かった僕の家なんかでは、半ば空想上の存在として扱われていた和牛ビーフ。

 普通にステーキとして食べたい。


「お前じゃがいも買い忘れたことを黙ってた上に、こんな肉を買ってきたことも報告しなかったの? それぞれ個別に連絡相談して然るべき事案でしょこんなの」

「だって、買い忘れたって言ったらあんた怒るじゃない」


 まあ怒る。


「それに、私が独断で良いお肉買ったことも知ったらそれも怒るでしょう?」


 よくわかってるじゃあないか。


「分けて二回も怒られるんなら、一度に言った方がいいじゃない」

「怒られることに効率求めるな!」


 ちゃんと然るべき回数怒られろこの阿呆。


 そんな僕達の言い合いを、高遠先輩が無邪気な感情で彩られた表情を浮かべながら、後ろで眺めていた。


「美味しそうなお肉だねぇ。献立、すき焼きにまるっと変えちゃったら?」

「僕の家ではすき焼きはお祝い事の時にしか食べないんですよ。とてもじゃないけどこんな心境で食せません」


 幸福の前借りにも程がある。

 ここでそんなことをしたら、後々不幸が訪れる気がしてならない。

 そうでなくても、五月の試験に対する踊梨の修行が上手くいっていないことで、僕達の未来には今、ただでさえ重たい暗雲が立ちこめているのだから。


 先輩が修行に協力してくれるようになって踊梨の身だしなみや振る舞いは多少マシにはなってきたけれど、未だ発展途上。

 トキメキを数値化したものであるTPの獲得には至っていなかった。

 もう既に、五月も残すところ半分を切ったというのに。


「踊梨、お前は崖っぷちという自覚が足りないようだな? こんなおふざけをやってる場合じゃあないんだぞ。毎度毎度なにかしらしでかしやがって。今度問題起こしたら先輩のTDでお仕置きしてもらうからな」

「そ、それは罰として重すぎると思うんだけど……。私死なない? 大丈夫?」


 けれどそうでもしないと改善されそうにない。

 先輩にはメイクの手ほどき以外にも様々な協力をしてもらっているけれど、そこにお仕置きも追加で。


 するとそこへ丁度、もう一人の協力者がやってきた。


「三上くん、お邪魔しま――何やってるの?」

「やあ清花。踊梨の修行の一環で、ちょっと料理の練習をしようとしてただけだよ」

「手始めに手作りのお弁当とか学校に持って行って家庭的なところをアピールする作戦よ!」


 いや調子良く言ってるけど、初手で躓いてるんだけどな、君。


「それで、あんたは何しにきたのよ清花。先輩と一緒に味見してくれるの?」

「それは遠慮しておく――今日は、頼まれていた物を持ってきた」

「頼まれてた物って、もしかして――」


 その台詞に僕が反応すると、彼女は少しだけ得意げに口角を吊り上げた。


「はい、これ。垰止さん専用にチューンアップした護身用デバイス」


 そう言って、彼女が取り出したのは腕輪型の小型端末だった。


「きゃー! これよこれ! 待ってたわ、ありがとう清花!」

「予定より早く仕上がったんだな。ありがとう、お疲れ」

「既製品を改造しただけだから、一から作るより手間も費用もかからなかった。やってることはほとんどただのパワーダウンだし」


 僕や踊梨からの感謝の声に、どこか満更でも無さそうな顔で彼女はそう説明した。

 女子力を気にする女性が身に付けるものということで、その見た目からはデバイスや機械といった印象は無く、普通にブレスレットとして使用できるようなデザインだった。


「本来の機能はトキメキエネルギーを風力に変換して使用者の周りを突風で包み、近寄る暴漢を弾き飛ばすというものなんだけれど、出力を大幅に下げてあるわ。そのデバイスでできることは、拳を向けてる限られた方向に風を吹かすことだけ。護身用として要件を満たすかは甚だ疑問だけど……」

「大丈夫よ! 取り敢えずは試験を乗り切れればいいだけだから!」

「まあそもそも、踊梨に護身用TDは必要無いしな……」


 機械に頼らなくとも十分過ぎる程強い。

 誤解を恐れずに言えば、女子離れしている。


「なんか失礼な事考えてる?」


 細めた目で睨み付けられ、僕は滅相も無いと首を振る。

 こんな戦闘力の高いやつと喧嘩するのは御免だった。


「ともあれこれでいよいよ、残された課題はTPを稼ぐことだけになったわけだ。……まあ、それが依然として一番ハードル高いんだけどね」


 いつの間にか二週間以上に渡っているこの修行だけれど、成果が出ているとはとても言えない状況。『相性不問』という通り名を持つ僕も彼女にはトキメくことが出来ないまま時間だけが過ぎていく。

 未だ彼女の持つTPはゼロであった。


 そしてこの先も彼女に対してトキメく自信の無かった僕は、他の男子生徒からTPを稼ぐ為の手段として、手作り弁当作戦を立案したのだ。


 踊梨の女子力が壊滅的であることは最早周知の事実で、誰もが認めるところである。

 そんな彼女が、女の子っぽい綺麗で可愛い弁当を持って行く。

 彼女が見た目の良い手作り弁当を持っているという光景は、ただそれだけでそれなりのギャップになるはずだ。

 この学校の男子は基本的に全員女好きなので、引っかかる人間が一人や二人ぐらいはいるだろうという公算である。


 だが根本的な問題として、彼女は料理ができない。

 以前僕にカレーを振る舞おうとして、とても文明人とは思えない振る舞いを見せていたのは記憶に新しい。

 そんな彼女が弁当作りなんて無謀だと思われるかもしれない。

 高遠先輩からも「掉棒で星を打つようなものじゃないかなぁ……?」と遠回しっぽい直接的な否定をされた。


 しかし僕とて無策ではない。


 この作戦の良いところは、見た目さえ綺麗にできれば良いという点である。

 別に誰かに食わせて胃袋を掴もうというわけではなく、美味しそうな手作り弁当を踊梨が学校に持って行くというだけで、目的は達成される。

 食べるのはどうせ踊梨なのだから。


 つまり味なんてものはどうでも良く、精巧な食品サンプルがあればそれでもいいとさえ僕は思っていた。


「なのにまさか、材料不足で調理すらまともに始められないとは……」


 肩を落とす僕に、先輩が「たはは」と笑う。


「でも伊吹クン、お弁当に肉じゃがというチョイスはどうなのかな……?」

「え? な、なにかおかしいですか?」

「いやまあ、そこまで変とは言わないけど……。女子高生が手作りで持っていくお弁当としては、あまり見ないかな? 煮物は他のおかずと一緒に入れるの気を遣うし……」

「そうなんですか? 僕は女の子の弁当に肉じゃが入ってたら、家庭的なんだなぁって感動するんですけど……」

「もし他の男子にも同じ感動を求めてるんだとしたら、考え直した方がいいかも。伊吹クンの想定してるトキメキって、高次元過ぎるきらいがあるから……。そもそも、男子って女子のお弁当の中身を一々見てるものなの?」

「三上くんがそういう細かいニッチな部分にこそ萌えるというなら、私はその隙間に適者生存していくこともやぶさかではない」

「伊吹、異常な奴が考える普通は、大体世の中とズレているものなのよ」


 思いがけず、三人の女子から口々に批判される肉じゃが、というか僕。

 嘘やん、じゃあこの作戦もダメってこと?


「……いや、踊梨にだけは言われたくないぞ。お前こそ色々ズレまくってる癖に」

「あー、言ったわね! 言っちゃったわねあんた! 人が気にしていることを!」


 人差し指を僕に向けてぎゃーぎゃー喚く踊梨。

 指で人を差すな。


「うるさい、そんなことよりお前は綺麗に料理を作れるように努力しろ。肉じゃがは置いておくにしてもだ。ただでさえ全然女子力が向上してないんだからな。もう少し必死になってもらわないと困る。この手作り弁当作戦が功を奏さなければ、いよいよ絶望なんだぞ」


 これまでの修行による成果はほぼゼロ。

 これから先上手くいくという保障も無ければ、作戦が失敗した場合のコンティンジェンシープランも無い。

 それを理解しているのかいないのか、危機感の足りない彼女に僕は苦言を呈した。


 すると彼女は眉を吊り上げてこんなことを言う。


「はーあ!? まるで人がサボってるみたいに言わないでもらえる!? 私だって十二分に頑張ってるっての! ていうか、私の女子力が向上しないのって師匠のあんたの感性がズレてるからじゃないのー!?」

「よくもそんなことを! 僕はちょっと特殊なだけだ! ズレてるわけじゃない!」

「目に見えるほどの違いは無いでしょそこに!」


 一息吸って、彼女が続ける。


「そもそも『相性不問』が聞いて呆れるわよ! 散々偉そうなことばかり言って、あんたが私にトキメいたのは未だ最初の十ポイント分だけじゃない! あんたがもっとほいほいトキメいてくれれば、ここまで苦労することないんですけど!?」

「人に責任を転嫁するな! こっちこそ、どれだけ苦労してると思ってるんだ! お前の修行に時間を持って行かれるせいで、他の女の子達と全然遊べないんだぞ!」

「何が他の女よ! 私の修行があるんだから、私に集中しなさいよ!」

「そういうことはもうちょっとでも魅力的になってから言ってくださーい!」


 確かに僕も至らないところはあるだろうが、彼女にそんな文句を言われるのは業腹だった。

 僕が色んな時間を割いて彼女に協力しているのは事実なのに。


 これまでの鬱憤も合わさってか、僕の声は先程から次第に勢いを増していた。


「というか僕に文句があるなら他の男子をトキメかせればいいだけだろうが! 僕は別に、お前にトキメかせて欲しいなんて頼んでないぞ! とっとと見栄えだけは取り繕った弁当作ってそこらの男騙くらかして来い!」

「は、はぁーっ!? 何よそれ! そうなったらあんたはお役御免になるだけなんですけど!? あんたは私にトキメく気無いわけ!?」

「だーから別にそれでいいって言ってるんだよ! お役御免、良い響きだね! そろそろ僕をこの負担ばかりの仕事から解放しろ!」

「あんたそんな風に思ってたわけ!? 私に協力するのはもう飽き飽きだっての!? だったらもういいわよ!」

「それで困るのはお前だろうが、もうちょっと考えてから口開け! 考えたことそのまま口に出す癖どうにかしろ!」

「なによ、恩着せがましい上に口うるさい! 確かに頼んだのは私だけど、そういう偉そうなことは結果を出してから言ってちょうだい!」

「恩に着せるつもりはないけど、少しぐらいありがたみを感じてくれてもいいもんだろう! 他の女の子と遊ぶ暇も惜しんで、ちっとも進歩の見えないお前に時間を遣ってるんだ! 他人に過ぎない僕がここまでやってるんだから、お前ももうちょっと真剣にやれ!!」

「だから、やってるって言ってるでしょ!? なんでそうやって決めつけるのよ! ……わかったわ、結局あんた、私のことなんてどうでもいいんでしょ!? あんたがトキメかないのは、そもそも私に興味無いからなんでしょ! ずっと嫌々付き合ってたんだったら、もう協力してくれなくていいって言ってるのよ!」

「なんだその言い草は! 僕がお前にトキメけるかどうかはわからないって、最初にちゃんと言っただろうが! ……けど、この僕を全くトキメかせられないようでは、他の男子をトキメかせるのもやっぱり無理かもしれないな! 今のうちに家に帰る準備をしておいた方がいいんじゃあないか!?」

「――ちょっと、伊吹クン」


 そこで不意に向けられた先輩の声に、僕ははっと我に返る。

 いつの間にか狭窄していた視野が、じんわりと広がっていく。

 自分でも気付かないうちに、頭に血が上っていたらしい。


 開けた視界の向こうで、踊梨が僕を見ていた。

 唇をぎゅっと引き結んで、何かに耐えるように瞼を瞬かせながら。


「……なによ、ばか」


 震える声でそう呟いて、彼女は勢いよく背を向けた。

 そして耳が張り裂けるような大声で、


「伊吹のあほんだらーっ!!」


 そう叫んで、彼女は足早に部屋から出て行ってしまった。


「いや、あほんだらって……」


 今日び聞かないな。

 何となく溢れたその呟きも、もう彼女には届かない。

 踊梨が出ていった後も部屋には高遠先輩と清花がいるけれど、なんだか不思議と取り残されたような気分だった。

 自然と溜息が溢れる。


「どうしたの、伊吹クン。あんな言い合い、キミらしくもない」

「……すいません、ムキになってしまったみたいで」


 思い返してみれば、僕は明らかに冷静さを欠いていた。

 始めはいつものような軽い言い合いだったはずが口論にまで発展してしまった。

 感情に任せた口論から得るものなど一つもなく、むしろ失うだけだと知っていたはずなのに、どうして僕は自制することができなかったのだろう。


 恐らくそれは、このところの彼女に対する不満が胸中にあったからだろう。


 五月末の試験が刻一刻と迫る中で、大して危機感も感じられない振る舞い。

 修行に必要な物を買い忘れても悪びれない様子。

 退学になることを善しとしているのかと疑いたくなる。


「……ただ、冷静さは欠きましたが、僕は間違ったことを言ったとは思っていません。気合いを入れ直して修行に励まないといけないのも、最近あいつの身が入っていなかったのも事実です。……このままで痛い目見るのは、他でもないあいつなんですから」


 落第して学校を追い出されるのも、家族に叱られるのも全部あいつだ。

 僕は彼女がどうなろうと、究極的には痛くも痒くもない。

 僕達は結局、他人なのだから。

 誰も、彼女の代わりになることはできない。

 だから、彼女に頑張ってもらうしかないのに。


「――僕が頑張ってそれで済むような問題だったら、どれだけ楽だっただろうかと思いますよ。努力不足で割を食うのも僕自身だったなら、こんな思いをすることも無かった」


 どこまで行っても他人だからこそ、尚のこと辛い。

 そして歯がゆい。


 自分の問題を解決する為の努力なら僕にもできる。

 むしろそれくらいしかできないと言っても良い。


 けれどそれは、他人の問題を解決する為の努力とは全く話が異なる。


 例えば高校受験。

 僕が受験生本人だった場合、やるべきことは単純だ。

 志望校に受かるよう勉強すればいい。

 自分の努力の多寡で結果が決まる。シンプルでわかりやすい。


 けれど例えば僕が受験生の子供を応援する親だった場合。

 子供が志望校に受かって欲しいと思っても、できることなどたかが知れている。

 精々勉強しやすい環境を整えたり、分からない問題を教えたり相談に乗ったりするぐらいだ。

 もしも自分が代わりに受験できるなら、僕はそうしたいと思うだろう。


 けれど世の中にそんな甘い話は無く、人生に関わるような大問題ほど、当人にしかどうにもできないことが殆どだ。

 今回の件もそうである。


 僕と彼女は他人で、彼女の問題は彼女自身の頑張りに懸かっている。

 僕は彼女がどうなろうと痛くも痒くもない。


 ――そのはずなのに、今の状況に憤りを覚える。


「なるほど。伊吹クンは、退学になっちゃうかもしれないのにそれを気にかけていないような踊梨ちゃんにモヤモヤしてるんだ。キミ自身は、彼女に退学なんてして欲しくないから」


 不意に、高遠先輩がそんなことを言った。

 言われて、僕は一瞬息が詰まったような感覚を覚えた。


「……やめてください。それじゃあまるで、僕があいつを好きみたいじゃないですか」

「あれ、違うんだ?」

「妬ける」


 ニヤニヤとからかうような笑みを向ける先輩と、ふて腐れたような顔で好き勝手なことを言う清花。

 やれやれ、僕は溜息をついた。


「そういうのじゃありませんよ。僕はただ、何かに努力している人間に、その努力が報われて欲しいと思っているだけです。これは女も男も関係無くね」


 努力を続けることの辛さやそれが必ずしも報われるわけではないという事実を、僕は知っているつもりだ。

 元々大した人間などではない僕は、そういった事実を知りながら生きてきた。


「てことはつまり、キミ自身も踊梨ちゃんが努力してないとは思ってないわけでしょ?」

「…………」


 先輩に言われて、僕は黙る。


「私も、踊梨ちゃんは頑張ってると思ってるよ。……それに、決して今の状況を気にしていないわけでもないと思う」

「……どういうことですか?」

「何も考えずにただの無神経で楽観的な振る舞いをしてるわけじゃないってこと。伊吹クンに対するあの子の態度には、ちゃんと意味があるように私は思うな」

「意味? どういうことです? 具体的にはどんな――」

「そこまでは私にもわからないよぉ。……それに例えわかったとしても、私から言うようなことじゃないと思うし」


 先輩にそうやってあしらわれ、余計に頭が混乱する。

 そんな僕に、清花が更にこんなことを言った。


「三上くん。彼女が未だTPを獲得できないのは、単純な女子力不足以外の要因に依る可能性がある。それが最近あなた達を見ていた私の見解」


 気を抜けば聞き漏らしてしまいそうな起伏の乏しい声に、僕は耳を向ける。


「女子力不足以外の要因……?」


 なんだろうそれは。

 皆目見当もつかない。


 TPは男性が感じたトキメキエネルギーそのものなのだから、トキメキを感じないということは女子力が足りていないということではないのか。


「何の事は無い、単純な話よ」


 そんな前置きの後、彼女が言う。


「TCシステムでは、男性が特定の異性に対して発生させた感情の高まりをトキメキとしてTTが認識し、エネルギーに変換した後に対象の女性が持つTRへと伝達される。特定個人に対してのものではない感情の高まりは、トキメキエネルギーにはならない。つまり、女性側がTPを得る為には、自分に対する明確なトキメキを男性に与える必要がある」


 これは本当に単純な話か? 要点だけかいつまんで欲しい。

 そんな僕の思いが通じたのか、清花は単調な声色でこう続けた。


「つまり裏を返せば、男性は相手の女性に対する感情に、自覚的でなければならない」

「自覚的でなければって……」


 彼女の言葉に僕は眉を顰める。

 僕が彼女に対する感情に思い違いをしていると?


「まあ取り敢えず一度、踊梨ちゃん追いかけた方がいいんじゃない? 喧嘩みたいになっちゃったし。伊吹クンだって、彼女が嫌いなわけじゃないでしょ?」


 言外に、早く仲直りしてしまいなよと水を向ける先輩。

 けれど今の僕は、そう簡単に素直にはなれなかった。


「……別に追いかけなくても、その内戻ってきますよ。ここは元々あいつの部屋ですから」


 頭を冷やして彼女と話すことも、出ていった彼女を追いかけることもできそうにない。


 やはり僕は、大した人間などではない。

 まだまだ子供だ。


     ◇◇◇


 そして結局、夕食の時間になっても踊梨は戻ってこなかった。

 先輩と清花もあの後それぞれの部屋へと戻り、今この部屋には僕一人だけ。

 なんだか久し振りに一人の時間を過ごしているような気分だった。

 実際は一人の時間なんて他にも時折あったはずだけれど、踊梨と共同生活を始めて今日まで、それを強く実感したのは久し振りのことであった。


 何の事は無い、彼女と会う前の生活に戻ったというだけの話なのに。

 どうにも居心地が悪く感じてしまう自分が、今は少し腹立たしかった。


 間違った台詞ではないとはいえ彼女を傷付けるようなことを言って、素直に謝罪をする気にもならないくせに、彼女がいないと居心地が悪い。

 そんな身勝手で女々しい自分がとても嫌だった。


 もやもやとした陰鬱な気持ちを紛らわそうと、結局一人で食べ始めた夕食。

 踊梨の分を冷蔵庫に入れる行為が、また何とも虚しかった。

 静かな部屋で口に運ぶ食事はどこか味気なくて、美味しいとは思えない。


「……これは、あいつに料理を教えられるような立場じゃなかったかもしれないな」


 誰もいないとわかっているのに、そんな独り言が溢れる。

 彼女は今、どこで何をしているのだろうか。

 ぼんやりとしたそんな思いが胸中を漂う。


 解放されて一人になった時くらい別のことを考えれば良いものなのに、どうやら踊梨について頭を悩ませることはすっかり癖になってしまっているらしい。

 彼女が今どこで何をやっているかなんていう、考えたところでどうしようもない事柄から思考は次第に流れていく。


 使い終わった食器を洗いながら、僕は昼間の清花の言葉について考えていた。

 踊梨が未だTPを獲得できないのは、単純な女子力不足以外の要因に依る可能性がある。

 男性は相手の女性に対する感情に、自覚的でなければならない。

 彼女はそんなことを言っていた。

 僕は頭の出来が良いわけではないけれど、彼女の言葉の意味がわからないほどではない。


 要は、僕は本当は踊梨にトキメいているけれど、僕がそれを彼女に対してのトキメキであると認識していないから、TPにならないということを言っているのだ。

 それはわかる。


 けれど僕は、彼女の意見は間違っていると思う。

 僕が踊梨に対して抱く感情は、トキメキではない。

 女の子にトキメくことに関しては他の追随を許さない僕が言うのだから間違い無い。


 言わば、親鳥が小鳥に向けるような感情。そのはずだ。

 けれどそうだとしたら、このモヤモヤとした気持ちの原因は何なのだろう。

 どれだけ考えても答えは出なかった。

 まるで迷路にでもはまったように、同じ所をぐるぐると回り続ける思考。

 そこから抜け出せないでいる内に、いつの間にか夜も更けていった。


 明日も学校があるからとベッドに潜り込んでみても瞼が重くなるわけでもなく。

 さりとて悩みが解決されるわけでもなく。

 そんな夜遅くになって、ようやく彼女は部屋に戻ってきた。

 ベッドで寝ている僕に気付かれないようにという気配りなのか灯りもつけず音を殺して歩いていたけれど、寝転がっているだけで眠ってはいなかった僕は彼女の気配にすぐに気付いた。


「……遅いぞ。どこに行ってたんだ?」


 身体は起こさず、顔も向けず。

 布団を被ったまま目も開けずに僕は訊ねた。

 寝たふりをして黙っていようかとも思ったけれど、自然とそんな台詞が漏れていた。


 寝ていると思っていた僕から声をかけられたことに驚く彼女の気配。

 けれどすぐ、こんな言葉が返ってくる。


「――別に、あんたには関係無い」

「……そうかい」


 取り付く島も無いというのはこういうことを言うのだろうか。

 そして訪れる気まずい沈黙。


 恐らく僕がそうであるように、彼女もまた昼間のことを消化していないのだろう。

 怒っているという気配がありありと伝わってくる。

 そして僕は、そんな状況にどこか気を落としている自分に気が付いた。

 それはあわよくば帰ってきた彼女から謝ってくれないかと期待していたようで、ますます自分が嫌いになる。

 女の子を不幸せにしない為に、立派な男になろうとやってきた僕だけど、結局はこんなに矮小な存在だ。

 自分の気持ちに折り合いをつけることもできず、ごめんという短い言葉を口に出すことすらできない。

 本当に、どうしようもない。


「……明日から、私の分の食事は要らないから」


 会話というよりかはただの業務連絡のような響きで、不意に彼女がいった。


「……わかった」


 彼女からの拒絶に近い言葉に存外ショックを受けながら、なんとか僕はそれだけ返した。

 もう少し別の言葉を、もう少し多くの言葉で語ることが出来れば、もしかしたら違う未来があり得たのかもしれないけれど。

 それ以上僕は何も言えなかった。


 言葉が少なかったり、多すぎたり。

 相手への配慮が足りなかったり認識に相違があったり。

 様々な要因で僕達は人とすれ違う。

 馬鹿みたいなことが切っ掛けで大きなものが失われることもある。

 そして一度失ったものを再び手に入れることがどれだけ難しいことかも、僕は過去の経験から知っているはずなのに。


 それでも、一歩を踏み出すことができなかった。


     ◇◇◇


 次の朝目が覚めて最初に頭に浮かんだのは、昨晩自分はいつの間に眠りに落ちたのだろうかという疑問だった。

 知らぬ間に眠りに落ちていた僕はぼんやりと目を覚まし、重たい頭を持ち上げる。

 枕元の時計に目を向けると、時刻は朝の八時。

 いつもより遙かに遅い起床だった。

 早いところ踊梨も起こさないとと隣を見て、僕は気付く。

 そこに、踊梨はいなかった。


 彼女の制服や鞄も無くなっていることから、既に登校した後らしいと僕は悟る。

 普段あれだけ朝に弱い彼女が、僕に起こされるまでも無くさっさと学校へ向かった。

 その行動からは僕と一緒に登校したくないという頑なな意思が見て取れて、僕は寝起きの頭で遅れながら昨日の出来事を思い出すと共に、朝から憂鬱な気分になった。


 ふと窓の外を見やるとしとしとと細い雨が降っていて、重たい雲に覆われた空は雨粒の勢いがこれから増していきそうな予感を感じさせた。

 彼女は今、この空をどんな気分で眺めているのだろう。

 そんなことを僕は漠然と考えていた。


 いつまでもこのままではいけないという危機感はあった。

 彼女の修行だって早く再開しなければ、試験までの残り時間は時々刻々と過ぎていく。

 何より、彼女との今の距離感はとても居心地が悪かった。

 では前までのような関係に戻るにはどうすればいいのか、簡単な答えなら僕も知っている。

 自分の至らなかったところを詫びて、自分の想いを伝える。

 彼女を傷付けるのは本意では無かったということは確かなのだから、しっかり謝って伝えたいことを伝えればいいはずだ。

 それで彼女が許してくれるかは置いておいて、それぐらいしか僕にはできない。

 けれど簡単に見えるその手段は、今の僕にとってとても遠くの手の届かない所にあった。


 謝罪の言葉を口にするだけならできるかもしれない。

 けれど、その言葉に誠意を持たせる為には自分の気持ちを整理して伝えることが必要で、その自分の気持ちというものが僕にはよくわからなくなっていた。

 思考の迷路を迷い続ける夜を越えて、僕は自分の想いすらも見失ってしまっていた。

 彼女はあの口論の中で僕に対して、自分への興味が無いからトキメかないのだろうと言っていた。自分のことなどどうでもいいのだろうと。


 けれどそれは違う。そういうわけではない。


 そしてそんな誤解を解消することも、今の僕にはできないのだった。

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