第3話 誰も知らない、君の想い

 僕はこの国の四季が好きだ。

 例え住み慣れた地の見慣れた景色でもあっても、それらは季節ごとに変わった様相を呈し、新しい何かを教えてくれる。

 だから僕は四季が好きだ。


 夏の薄着が好きだ。本能に訴えかける刺激はまさに眼福。

 冬の厚着が好きだ。もこもこふわふわした服装は女性が本来持つ柔らかさを際立たせる。

 暑さを忘れた秋のコーデは最も個性が豊かで細かいところに目を走らせるのが楽しい。

 冬の寒さから解き放たれ少しずつ露出が増えていく春の背徳感は堪らない。


 つまり僕は四季が好きだ。

 あらゆる季節を愛している。

 女性を愛でるのと同じように。


 時に今は五月の初旬。

 暦の上では既に立夏、少しずつ夏の訪れを感じ始める今日この頃。

 誰かに手紙を送るという雅な文化はすっかり廃れてしまったけれど、誰かに畏まってメールする時に、僕は時候の挨拶として薫風の候をよく用いる。

 新緑の樹々を渡って届く夏の兆しをはらんだ風から、匂うような清々しさを感じるという感覚を風が薫ると表現した美しい言葉である。


 それは全くの余談として、今この場この部屋においては女子の華やかで柔らかい薫りが漂っていた。

 身に余る幸福に、神と仏とその他この世界全ての上位存在に対して感謝しながら僕が身を置くそこは聞いて驚け、学生寮にある高遠先輩の自室である。


 まさかこんな聖域に立ち入る機会を得ることになろうとは。昔の自分に教えたらその場で昇天してしまうだろうから、タイムマシンが発明されていなくて良かった。

 これまで余人の立ち入りを許さなかったそこは、さっぱりと綺麗に片付いた空間。


 ちょっぴり期待していた展開が、完璧を演じようと努力してきた彼女も誰にも見せない部屋の中は他人に見せられないほど散らかっている、というようなギャップ萌え展開だったのだけれどそういう運びにはならなかった。

 流石は先輩というべきか、普段人に見せないような部分にも、徹底的に気を配っているのだろう。


 僕はそんな室内を取り敢えず海馬に永久保存しておこうと見渡しながら、先輩に言う。


「綺麗な部屋ですね。どこかの踊梨とはえらい違いですよ」


 踊梨と出会い同じ部屋で生活するようになって早一週間。

 今でこそ僕が掃除をして住みやすい空間になっているけれど、始めはかなり散らかっていたものだ。

 描写するのも気乗りしないほどに。


 そんな僕の賞賛に、けれど先輩は恥ずかしそうに頬を掻いた。


「いやぁ、実は二人を部屋に呼ぶってなって急遽片付けたんだよ。普段誰も来ないから油断しちゃって、到底見せられない感じになってたから――」

「なんで片付けちゃったんですかァ!?」


 即座に僕は吠えていた。

 先輩は目を丸くして「な、なんで私は怒られてるんですかぁ?」と全く何もわかっていない様子だ。

 いやいや、いやいやいや。


「いいですか、先輩がしでかしたのは、ラーメン屋で長年継ぎ足してきた秘伝のスープを一気にトイレへ流したような行為なんですよ。わかりますか」

「ごめん、全くもって意味わかんないや」

「しっかり者の先輩が少しずつ散らかしてきた部屋は、散らかり方や汚し方にもそこに至る意味や理由があって、一度片付けてしまえばもう元には戻らないというのに!」

「伊吹クンって、変なところで針小を棒大にするよね」

「あんた、誰もついていけないとこまでキモさが振り切るとどう批判していいのかわからなくなるからやめてくれない?」


 女子二人から相次いで非難を向けられ、僕は渋々口を噤んだ。

 そんな僕に踊梨が続ける。


「ていうか、私が部屋散らかしてた時はそんなこと言ってなかったのに、なんだか扱い違うくない?」

「ばっお前。あのな? お前は元々怠惰でずぼらなやつがその通りの生活送ってるだけじゃん。先輩は几帳面のしっかり者に見えて抜けてるところがあるからいいんじゃんか。不良が普通に学校サボってタバコ吸ってたって誰も褒めないだろうがよ。それと同じだっての少しは考えてからモノ喋れや」

「取り敢えず、伊吹クンに抜けてるとこ見せたらヤバイってことはよくわかったよ」


 あれ? そういう結論に落ち着くんですか?

 おかしいなあ。

 これから少しずつ本当の自分を見せていけたらいいねって感じで、前回まとまりませんでした?


「それに手元狂うから、そろそろ伊吹クンの言葉に反応するのやめるね」


 そんな無体なことを言う先輩は、先程から踊梨の正面に屈んで彼女のメイク中である。

 そしてそれこそが、僕と踊梨が先輩の部屋に居る理由であった。

 高遠先輩から化粧のやり方を教えてもらう。

 女子力向上の為に彼女が立てた目標は、なんとか先輩の協力を取り付けて、こうして進行中なのである。ただ、余り順調とも言えないけれど。


「どうどう? 伊吹! 可愛くなってる? トキメく感じ?」


 メイクが終わって、踊梨がそんな問いを投げかけてくる。


「ああ、流石は高遠先輩だな。やっぱ上手いわ」


 正直、見違えるようである。

 化粧ってほんとすごいな。


「まずは私自身を褒めなさいよ!」


 僕の感想に彼女はそう抗議してくるが、僕は肩を竦める。


「だって君座ってるだけで何もしてないじゃん。自分でやらなきゃ意味無いんじゃない? この先もずっと先輩にしてもらうつもりかよ」


 先輩だって暇じゃあないのだから、それは土台無理な話だ。

 朝早くから仕事に行かなければならない日もあるし、遠出して数日間帰ってこないようなことだってあるだろう。

 今日だって先輩は昼から仕事で学校は休むらしい。

 にも関わらずこの朝の時間に、踊梨に協力してくれているのだ。

 踊梨は良い先輩を持ったものだと思う。


 彼女自身もそれは自覚しているのか、先輩のメイク講座に遅れない為に最近は朝早く起きるようになった。

 まあ僕が起こしてるんだけど、二度寝三度寝しなくなっただけでも進歩である。


 とはいうものの、そんな生活が数日続いた現在において、その成果は芳しくないというのが正直なところだろう。

 これまでの人生で化粧なんてものに一度も触れてこなかった踊梨が一朝一夕で技術を身に付けるとは思っていなかったけれど。

 それにしても、酷いものだった。


 彼女が自分でメイクをすると、まるで居眠り中に落書きされたかのような顔面になる。

 そんな状態で外に出たら笑い者になるのは必至で、化粧をしない方がはるかにマシなのである。

 だから結局、最終的には先輩が仕上げる形に落ち着いていた。


「でも踊梨ちゃんは素材が良いから、私も興が乗っちゃうよ。錦上に添花してる気分とでもいうの?」

「先輩、あまり甘やかさんでください」


 甘やかしたら調子に乗る。

 それが垰止踊梨という人間だ。

 ちなみに甘やかさなくても調子には乗る。

 どうしようもない。


 だがこの時の踊梨は先輩の「素材が良い」という賛辞も耳に入らない様子で、憮然とした表情で口を尖らせていた。


「……伊吹。元々あんたが女子力上げたいなら身だしなみにも気を遣えって言ったから、化粧を練習することになったのよね」

「まあ、流れとしてはそうだったね」

「じゃあ、実際に化粧したにも関わらずあんたが全然トキメかないのはどういう了見なわけ? ここ最近TP一ポイントも増えてないんですけど」


 そんな恨み言を溢す。


「だって僕は君のノーメイク嫌って程見てるし、今更なびいたりしないよ。ていうか元々先輩の言う通り素材は良いんだから、ちゃんと顔洗ったり歯磨いたり髪梳かしたりすれば、後はナチュラルメイクで十分だと思うよ。僕の場合は外見では最早誤魔化せないくらいに君のズボラな内面を知ってしまっているから、化粧してTP稼ぐなら僕以外の男を狙った方が良い」


 まだ彼女の人となりをよく知らないような男なら、まあぱっと見普通に美人な彼女のことだ、いくらかトキメく奴が少なからずいることだろう。


「えっ……。踊梨ちゃん、今まで顔も洗ってなかったの……?」

「あの時はたまたま時間が無かっただけですから!」


 それは絶対嘘だと思ったけれど、これ以上彼女を怒らせても面倒なだけなので僕は何も言わなかった。

 代わりにこう指摘する。


「君は僕をトキメかせることに拘っているようだけど、別にそれが目的じゃないだろう? 目的は女子力の向上だ。極端な話、僕がトキメかなくたって他の男がトキメけばいいだろう」


 最近踊梨にぴくりとも食指が動かない僕に対して、彼女が意地になってきている気がする。


「……それは、そうだけど」

「僕はもう君の化粧の有無程度では揺るがないかもしれない。でも他の男達には効果的だろうから、ちゃんと技術を教わるのは良いことだと思うよ」


 目的を見誤ってはいけない。

 結果までぶれる。


 既に五月の第二週。

 彼女には余り時間が残されていないのだから。


「……わかったわよ」


 僕の指摘に、彼女はふて腐れたように頷いた。

 そんなやり取りの中で何事か思案顔だった先輩が思い出したかのように口を開いた。


「そういえばさ。五月の評価って四月とは違って、TDの実技試験の成績も見られると思うんだけど、そっちは大丈夫なのかい?」

「えっ」


 初耳だった。

 男子と女子では成績評価の仕組みが前提からして違うので、わからないことは多い。

 実技の成績が加味されるということは、多少女子力を改善させてもTDの扱いが酷かったらどの道落第ということだろうか?

 心配に思って踊梨に目を向ける。

 彼女は恐れなど知らなそうな顔つきだった。


「だいじょぶですよー、私、身体動かすのは得意なんで」


 ……本当に大丈夫なんだろうな?

 心配に思い先輩に尋ねる。


「ちなみに、その実技試験ってのはどういうことをするんですか?」

「TDでちゃんと護身できるかどうかをテストするんだよ。近くの物を弾き飛ばしたり遠くの的を狙い撃ったり」


 流石に本物のTD使ってやるだけあって結構実践的である。


「まあ完璧にできなくてもそれほど減点はされないけどね」

「余裕余裕、よゆーですよ」


 相変わらず自信過剰な様子でのほほんとしている踊梨。

 まあ自信があるのはいいことだけど、そこに根拠はあるのだろうか?


「でもお前、TP無いからデバイス起動できないじゃん」

「――ほぇ?」


 僕の一言に、時が止まったようだった。


 踊梨がきょとんとした顔で首を傾げ、先輩が強張った顔で辛うじて苦笑いを形作っている。


「……あー、そっかぁ。TDって、TP無いと起動できないのかぁ」


 などと呑気に他人事のような声を漏らして、


「――ってそれ私大ピンチじゃん早く言いなさいよ!」


 そんな逆ギレをかましてきた。


「そうだなぁ、やばいよなぁ……。可哀想に」

「ちょっと!? のっけから諦めムード出してない!? まるで打つ手無しみたいに!」

「踊梨ちゃん? 私の知り合いが芸能系の養成所やってるんだけど、行ってみない? 踊梨ちゃん顔はいいし思い切りもいいからから、案外向いてるかもよ……?」

「先輩が退学後の未来を見据えてくれている!?」


 愕然とする踊梨を余所に、僕と先輩は顔を見合わせた。


「実際問題、どう思いますか? 希望は残っていますか?」

「うーん……。流石にデバイスを起動できないと始まらないからなぁ。……踊梨ちゃん、レシーバーには今何ポイント入ってるの?」


 そんな先輩の台詞に踊梨は青い顔を返す。


「……ゼロです」


 悲壮感のあるその顔に僕は頭を抱えた。


「相変わらず酷い女子力だな……。ていうか、この前僕から持っていった十ポイントはどうしちゃったわけ?」

「あんなの、チルルチョコ買ってそれですっからかんよ」

「なんで使っちゃうんだよ……」

「だってまさか試験にTPが必要になるとは思わなかったんだもの!」


 涙目で絶叫する踊梨。

 そんな彼女を慰めるように先輩が言う。


「ま、まあ、元々十ポイントぐらいじゃあってもなくても変わんないし……」

「び、びええええー!」

「ああ、慰めになってない慰めで踊梨が泣いちゃった……」

「ご、ごめんね! 踊梨ちゃんごめんね! ほら泣き止んで、メイクとれちゃう!」


 わたわたとあわてふためく先輩に涙を拭いてもらってる踊梨が羨ましい。

 嫉妬しそう。


 という煩悩は置いておいて、僕は極めて真面目なことを論じた。


「本気で学校に残りたいなら泣いてる暇も無いな。試験に向けて対策を講じる他無い」

「対策かぁ……。伊吹クン、何か思い付く?」


 口元に手を当てて考え込む先輩。

 かわいい。


 最近先輩に引かれたり呆れられたりで評価を下げている感じがあるし、ここは一つ理知的なことを言って頼りになる男を演出しておくのも悪くないだろう。


「具体的な案はともかく、考えられる基本方針は大きく二つです。一つは単純に、女子力を上げてデバイスを起動できる程度にまでTPを稼ぐ。もう一つは、少ないTPでも起動できるデバイスを手に入れる」


 順々に指を立てながら僕は説明する。


「一つ目の女子力向上方針に関しては、これまでとやることは変わりません。どの道女子力を上げないと退学なのだから、修行は続けるべきでしょう。これまでよりハードに」


 すっかりしょげ返っている踊梨に視線を向けて僕は続けた。


「ただ修行の結果なんとか女子力を上げて落第を免れても、その程度のTPでは実技試験の方に落ちる可能性がある。試験対策でTD操作の練習をできるようなポイントは残らないでしょうし、何なら本番でも起動できないかもしれない。となれば、踊梨でも使えるようなTDを手に入れるしかないでしょう」

「でも、そんなデバイスがあるの? TDってどれも結構エネルギー使うイメージだけど」


 そんな疑問を口にする高遠先輩。

 確かにそうだけど、それはあなたが有り余る女子力で無茶な使い方してるのも要因じゃないでしょうか……。


「確かに女子力の無い踊梨でも使えるようなTDなんて聞いたことがありませんが……、特殊なTDが必要ということなら、心当たりが無いわけでもありません」


 僕がそう答えると、先輩より先に踊梨が反応した。

 勢いよく立ち上がったかと思うと目にも止まらぬ速さで飛びかかってくる。


「本当!? 本当!? 伊吹それ本当!? 私にも使えるTDがあるの!?」

「まだわからないって……。ちょっと離れて、鼻水が……」


 縋り付くようにへばり付いてくる彼女をどうにか引き剥がして、


「まあ、後で確認はしてみる。……けど、あまり期待はしないでくれ。基本は一つ目の、女子力を上げるというのが大前提だ。そこは変わらないんだからな」

「わかってるって! さっすが伊吹ぃ、頼りになるぅ!」


 さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいな変わりようである。ほんと調子良いなこいつ……。

 あと、頼りがいがあるところを見せたかったのは高遠先輩なんだけど……。


 先輩は僕を見直してくれただろうかと思って目を向けてみると、先輩は腕時計に視線を落として目の色を変えていた。


「あっ、やっば、もう時間だった! ごめん、仕事行かなきゃ!」

「ああ、はい、すみません長居してしまって」


 見れば、僕達もそろそろ登校しなくてはいけない時間だった。

 この話は取り敢えずここまでだろう。


「この間の事件が広まっちゃって、最近取材とか多いんだよねぇ。報道番組とかにも呼ばれたりするし。ああいうの肩凝っちゃうから嫌なんだけどなぁ」


 手早く荷物をまとめながら先輩はそんな愚痴を溢す。

 先日の高遠璃咲誘拐未遂事件は目撃者が何人かいたらしく、偶然その場を捉えた写真も出回ったりして、結構なニュースになった。

 犯人の身元や正体については明らかにされておらず、僕も知らされていない。

 そのことが更に憶測を呼び、時間から一週間程経った今でもまだ注目されているらしい。


 まあそうやって事件が日の目を浴び、僕や踊梨が誘拐犯と一戦繰り広げていたところが写った写真が出回ったお陰で、僕達は先輩の私的ボディーガードとして認識され、こうやって先輩と一緒にいても不審に思われないような立ち位置を獲得できたのだけれど。


 とはいえ僕達も先輩と四六時中一緒にいるわけでもなく、例えば先輩の仕事についていったりはしていなかった。

 僕達は普通に学生なので、仕事がある先輩とは違って授業をサボるわけにはいかない。

 一応ボディーガードという名目の僕達が彼女と離れて学校に通っていていいのかという疑問があったけれど、「守ってくれるのは学校に行く日や休日だけでいいから」というのが先輩のお言葉だった。

 そして続いた「ボディーガードとしての関係より普通に友達として接してくれた方が嬉しい」という台詞を、僕は一生忘れず挫けそうな時のお守りにしようと思う。


「じゃあ踊梨ちゃん、取り敢えず頑張ってね。また何か進展あったら夜に教えて!」


 そう言い残し、先輩が慌ただしく去っていく。

 隣には踊梨だけ。

 なんだか取り残された気分。


「……さて。僕達も学校行くか」


 気を取り直そうと言った一言に、返ってきたのは落ち込んだ声。


「……そうね」

「どうした、元気出せよ。これから一層の奮励努力でTPを稼がないといけないんだぞ? せっかく先輩にメイクしてもらったんだし、自信持って――」

「そのことなんだけど、伊吹……。さっき泣いたから化粧崩れちゃって、先輩に直してもらう時間が、無かったわ」


 見れば、殴られて痣ができたみたいになってる踊梨の顔。

 崩れたメイクを踊梨が自分で直せるはずもない。

 既に諦めの表情だった。


「……取り敢えず、顔洗ってこようか」


 やはり女子力修行は難しい。まだまだ先が見えやしない。

 つまりどうやら、新しいTDをなんとしても手に入れる必要があるらしい。


 その為の心当たりを当たるのは、あまり気は進まなかったけれど。


     ◇◇◇


 僕が教室に入ると、目的の人物はもう既に登校していた。

 自分の席で、その小柄な身体を机に突っ伏してぴくりとも動かない。

 その様子はさながらバッテリー切れのロボットのようで、そしていつもの彼女の光景だった。

 教室にいる間、彼女はほとんどこんな調子で居眠りしている。授業中だって構わずだ。

 そしてそんな睡眠が単なる怠惰故ではなく、一応彼女なりの理由があってのことだということを僕は承知しているので、起こしていいものかどうか少し迷った。


 取り敢えず自分の席に鞄を置いて彼女の背中を眺める僕。

 そんな僕に、いつもの彼が声をかけてきた。


「お? なんだよ三上、高遠璃咲のボディーガードとしてお近づきになっただけでは飽き足らず、早くも他の女子を開拓中か? 節操無いなーお前」

「人聞きの悪い言い方をするな、そういうのじゃない」


 因みにボディーガードの件は当然学校中に知れ渡っているので、廊下を歩けばこれまで以上に注意を向けられるようになってしまっていた。


「照れるなって、それもまた男の性よ。……ふむふむ、『相性不問』の次の餌食は皆瀬清花みなせさやかかー……。ようやく重い腰を上げたって感じ?」

「うるさい、お前には関係無い」


 にやにやと気に障る笑みを浮かべる彼と会話を続けるのも鬱陶しくて、僕はその場を離れて彼女の席へと向かった。そして咳払いを一つ。


「えっと、ごめん皆瀬。寝てるところ悪いんだけど、ちょっと頼み事があるんだ」


 起きないようなら取り敢えずは諦めようと思って、控えめな声量で投げかけた一言。

 にも関わらず、彼女は即座に身体を起こした。

 そしてぐるりと首を曲げてこちらを見る。


「……おはよう、三上くん」

「ああ、おはよう……」


 どこを見ているのかがわかりづらいぼんやりとした瞳をこちらに向けて、子守歌を囁くような声で彼女は続けた。


「頼み事って、何?」


 寝ている時はバッテリーの切れたロボットのようだったけれど、起きたら起きたで今度は充電されたロボットのような印象を受ける。

 表情や声色から喜怒哀楽が読み取りづらいマイペースな少女。それが彼女という人間だ。


 小柄な彼女はなんとなくマスコットのような雰囲気で愛嬌があるのだが、何を考えているのかがわからないという理由で、声をかける男子は多くない。

 まあ教室ではほとんど寝ているから声をかけたくてもかけられないのかもしれない。

 僕に言わせれば、見ているだけで癒やされる存在なので気持ちはわかる。

 とはいえ今は取り敢えず、目を覚ましてくれて助かった。


 僕は彼女への頼み事を説明しようと口を開く。


「実は今――」

「いいよ」

「――早ッ! まだほとんど何も言ってないんだけど!?」


 光の速さで承諾されて、逆に困る。


「三上くんには一つ借りがある」


 彼女は言葉少なにそんなことを言う。

 そう思ってくれるのは嬉しいが、あまり自分を安売りしないで欲しいものだ。

 そして、ひと月も前の事なんてもう忘れていい。


 だから僕は言った。


「そうは言っても内容も聞かずに頷くのは早計が過ぎる。話はしっかりさせてくれ。そして無理なら断わってくれて構わない。僕だって、無茶なお願いならしたくないし」

「そこまで言うなら、聞くだけ聞いてやろう」

「あ、ありがとうございます……」


 大して興味も無さそうな様子の皆瀬だが、その台詞、使う立場間違ってるよね?

 早速彼女に振り回され始めている自分を自覚しながら、咳払いする。


「ごほん……。垰止踊梨っていう女子を知ってるか? そいつが五月の試験対策で――」

「やっぱり拒否する」

「どうしてッ!?」


 光のような速さで手の平を返された。


 突然の事に頭が混乱する。

 えっ、なに? 何が起きたの?

 僕は慌てて問い詰めた。


「拒否するって、頼み事をか? さっき即断してくれたのに?」

「さっきは三上くん自身が困ってると思ったから了承した。他の女子の話だとは聞いてない。話が違う」

「そりゃあ言う前に首を縦に振っちゃったからな……」

「私はご機嫌俯角三十度」

「そんな独特な感情表現をされても……」


 恐らくご機嫌斜めみたいなことを言いたいのだろうけれどわかりづらい。

 とはいえ彼女の感情表現が少し独特なのは今に始まったわけではなく、もうこのクラスの生徒には周知の事実だ。当然僕も心得ている。


 そしてそれ故に、彼女へのみんなからの認識は変わり者で固まっていた。

 実際、彼女は様々なタイプの女子が集まるこの高緑高校においてトップレベルの変人であるあの垰止踊梨に匹敵するほどの異質性を秘めている。


 そして、それだけではない。

 彼女は高遠璃咲にも匹敵するかもしれない高度な能力をも有していた。


 ――高度な能力。


 僕が彼女に協力を求めた所以である。


「聞くだけ聞いてくれたら嬉しい――実は、君に新しいTDを作ってもらいたいんだ」


 そんな僕の要望に、彼女は眉をピクリと動かした。


「新しいTD? ……どんな?」


 少し興味を持ってくれたようで、傾げた首がふわりと揺れる。


「女子力が低くても使えるような、超省エネの護身用デバイスだ。出力は最小限でいい。十ポイント程度のTPで動作するようなやつがいいんだけど……」

「省エネのTD……。簡単に、難しいことを言う」


 彼女は小さく呟き、目を細めた。

 その反応に僕の声音が自然と落ちる。


「……やっぱり難しいか?」

「そもそもTDの強みは、動力であるトキメキエネルギーが、TCシステムで理論上無限に生成できるところ。だからコストや回生効率を無視した無茶な設計ができる。省エネをコンセプトにしたTDなんて、設計思想が根本からズレてる」


 いつもに比べて些か早口で言葉多めに、彼女は述べた。

 普段は何事にも興味を示さない彼女だが、ことTCシステムに関しては話が別だ。

 彼女は趣味と称して自らTDの研究開発を行う技術者なのである。


 そもそもTCシステム関連の技術というものは国家基幹技術に指定されてこそいるものの、未だ発展途上。

 TDの開発も同様で、実用レベルの製品を生み出している民間企業は国内には数社ほどしかない。

 つまりまだまだ未知の技術。


 彼女はそんなTDの開発を、高校生という身でありながら個人で行っているのだった。

 そんな彼女の有名は知る人には知られていて、大手TDメーカーとも協力関係を結んでいる。

 まさしくその道の天才であった。


 本人はTD作りは趣味であると言い張っているが、その趣味に対する執念には異様なものがある。

 何しろ、この高校に進学したのも自分の女子力を上げる為ではなく、新しいデバイスを実験する機会を得る為という徹底ぶりだ。

 僕の知り合いの中で最もTDに関する知識と技術に長けた少女。

 それが彼女、皆瀬清花だった。

 そしてそんな彼女が無理だと言うなら、望みは断たれたに等しい。


「……やっぱり無茶だったか。ごめん、ありがとう。居眠りを邪魔して悪かったね」


 これは根本から作戦を練り直す必要があるかもしれないな、と考えながら席に戻ろうとしたそんな僕の手を、けれど彼女の小さな手が素早く掴んだ。


「待って。無茶ではあるけれど、不可能とは言ってない。むしろ私好みではある」

「そうなのか?」


 それは願ってもない話であり、自然と口角が上がる。

 喜色を露わにする僕に、


「ただ、垰止踊梨の為というなら条件がある。私も慈善事業でTDを作ってるわけじゃない」


 彼女のそんな台詞に僕は頷く。


「当然だな。それで、何が望みなんだ?」


 材料費やら手間賃みたいなものは当然こちらが負担するとして、協力してもらうならそれ以外にも何かお礼はするつもりだった。

 女性相手に礼を失すれば僕は後から自分で自分を許せなくなるだろうしな。


 ただ、その点では彼女がどういうものを喜ぶかどうかが今一つわからなかったので、ちょうど困っていたところだった。

 何か要望があるというのなら聞かせてもらえるほうがありがたい。


 しかし彼女もまた僕とは住んでいる世界が異なっているタイプの人物であり、そういった相手と相応に付き合おうとすると凡人側にはかなりの無茶が要求されるということは高遠先輩との一件で何となく学んだところなのだ。

 訓練された大人の男と取っ組み合いを演じさせられたり数ヶ月分のバイト代に匹敵しそうなディナーを奢らされそうになったりというような経験は、できればしばらく御免被りたい。

 それを思い出して、彼女が出す条件とは果たしてどんなものかと気を引き締める僕。


 そんな僕に、彼女は淡々とこう要求した。


「三上くん、私とデートして」

「――喜んで。……えっ、そんなんでいいの?」


 女の子とデートとか普通に僕に対するご褒美なんだけど。

 頼まれなくともやる。

 むしろこちらから頼むまである。

 盛大な肩すかしを喰らった気分だった。


 そんな僕の反応に、彼女は何故か顔を納得いかないと言わんばかりに歪めている。


「そんな簡単にオーケーされるとは思わなかった……。試算によると、私が男の人をデートに誘った場合の成功率は三十パーセントにも満たないはず……」

「どんな計算か知らないけれど、そんなことないと思うぞ。僕だったら、君に誘われた場合の承諾率はざっと二百四十二パーセントに及ぶ」

「円グラフを二周して余りある……!?」

「そうだ。だがおかしいことじゃない。人の心を数値で測ろうなんて、無粋だぜ」


 男・三上伊吹、舐められたものだ。

 バーター取引の材料にされずともデートなんていくらでも付き合う。


「とにかく、デートだったらこっちからお願いするから、条件があるなら他のにしてくれ」


 このまま協力してもらった上にデートまでしてもらったのでは、明らかに彼女にとって不利トレードである。

 そんな僕の要求に、彼女はどこか釈然としないのか首を傾げていた。


「……? えっと、それじゃあ変更する。……私のこと、君とか皆瀬とかじゃなくて、下の名前で呼んで。……私もそうする」

「あ、いいの? ありがとう、わかったよ清花。でもこんなことでいいってマジ? もうちょっと他に考えた方がいいんじゃ……」

「…………」


 清花の要求に僕がそう返すと、彼女は長年の苦労と全く関係無い要因で研究が成果を上げた科学者みたいな複雑な顔をした。

 一体どういう感情なのだろう。


 そんな疑問を抱きながら、僕は女子を公然と呼び捨てにする権利を与えられたことに、心が躍っていた。


「前から思ってたけど、清花って良い名前だよな。響きが綺麗だ」

「……不可解……」


 ぽつりと小さく溢す清花。

 その彼女に、どこかからか笑い声があった。


「ははは、三上を落とすのにあれこれ策略練ってたって無駄だぜ、皆瀬。そんな必要も無いほどこいつはチョロいんだからな。勢いで行っちまった方がいいのさ」


 声がした方に顔を向けると、いつもの彼がにやにやと笑みを浮かべていた。


「なんだよ。清花は今、僕と話をしているんだ。邪魔をするな」

「そう言うなって。クラスメイトだろ? な?」


 クラスメイトだからどうした、お前は男じゃないか。

 話す理由は特に無いし邪魔を許す理由はもっと無い。


「俺は別に邪魔をしにきたわけじゃあないぜ。ちょっくら人の恋路に口を出しに来たのさ」

「滅茶苦茶お節介じゃないか、失せろ」


 なんなんこいつ、何様のつもりなん?


 僕があからさまに不愉快そうな表情を向ける彼に、清花も似たような顔を向けていた。


「……何か用?」

「言っただろ、無責任なアドバイスさ」


 そして彼はその軽薄な笑みを収めて、澄まし顔で続けた。


「皆瀬。お前がまだこいつのことを本気で落とすつもりがあるんなら、そろそろ手をこまねいている暇は無いぜ」


 まったくこいつは……。

 僕は彼の宣言通り無責任な言葉に、後で然るべき制裁を加えることを決意した。

 こいつは、僕と清花の事情を知っているから尚の事タチが悪いのだ。


「何しろ垰止踊梨と同棲するだけじゃ飽き足らず、高遠璃咲の側付きになるぐらいだからな。この短期間に、どれだけ噂を増やすつもりなんだ?」

「ほっとけ……」


 その件に関しては僕も頭を悩ませているのだ。

 これまで色んな女の子達と関わってきて、それでも特に仲の良い子は作らずのらりくらりとやってきた僕の生活が、ここに来て乱れている。


 とはいえ踊梨の師匠として一緒に生活をすることになったのにも、先輩のボディーガードという名目で親しくなったのにも、それぞれ止むに止まれぬ事情と理由があるのだ。

 だからこいつを「うるさい黙れ」と一蹴することも僕にはできたが、彼女達の事情や僕の思いを事細かに語ってやる気も筋合いも無かったので、適当に聞き流す。


 だがそんな僕とは違って、彼女は聞き流してくれないらしかった。


「え? 垰止踊梨と同棲? え? 高遠璃咲の側付き? え? え?」


 彼の話に、清花が物凄い食いついていた。


「いつの間にそんな話に?」

「最近だが、かなり有名な話だぜ。ま、学校を仮眠室代わりに使ってるお前は知らないかもと思っていたが、案の定だったらしいな」

「今日ほどノンレム睡眠を恨んだことはない。二十万アンペアの電流に打たれた気分」


 憮然とした表情でそう呟く清花に、僕は肩を落としたい気分だった。

 代わりに彼へ非難の目を向ける。


「おい、わざわざ今言うことか? 僕達が特に問題のあるような関係にはなってないって、お前は知ってるだろ」

「だが、今がそうでもこれからどうなるかはわからんし。それにお前の状況をこいつだけ知らないのはフェアじゃないだろ?」


 そんなことを一切悪びれずに言う。


「三上。お前も、声かけてくる女子とデートするだけして誰とも付き合わないなんて、そんな真似をいつまで続けるつもりなんだ?」

「うるさいほっとけ。それが僕の生き方なんだ」


 それに、その生き方を非難されるのは受け入れるにしても、お前から非難される謂われは無い。

 僕を非難していいのは女の子達だけだ。


「つーか高遠璃咲とまで知り合うなんて、羨ましすぎる。五回ぐらい死んでろ」

「お前、ただの私怨で話を引っ掻き回そうとしてるんじゃないだろうな?」


 仮に僕が五回死んで侘びなければならなくなった場合、その前にこいつは五十回殺すと心に決めた。冗談では無い。


 僕を陥れて清花を焚き付けて遊ぼうとしているんじゃないかとしか思えなくなってきた彼に、僕は言う。


「僕が誰とも付き合わないと決めているのは、色んな女の子と遊びたいからじゃない」


 そういう側面があるのは事実だけれども。

 けれどもそこだけははっきりさせておかねばならないと僕は思った。

 すると彼は僕の予想に反して、真面目な顔をして言った。


「わかってるよ……。だからそろそろ改めたらどうだって言ってんだ」

「……余計なお世話だ」


 まったく。

 僕は、彼が苦手かもしれない。

 男だからとか軽薄な笑みが癪に障るとか一々声をかけてきて鬱陶しいとか、そういう理由からではなく。


 事情を知っている人間というのは、中々どうして僕を自由にしてくれない。


「皆瀬も、そろそろ作戦練る時間は終わりじゃないか?」

「……余計なお世話よ」


 清花は彼の台詞を一蹴し、


「でも、参考にはさせてもらうわ」


 面白く無さそうな顔でそう言った。


 そんな彼女を見届けて、彼は満足げに笑いながら去っていった。

 好きなだけ場を荒らすだけ荒らして去っていった。

 彼の最も度し難い部分は、そこに悪気が無いというところなのだった。

 再び二人きりになり、僕は取り敢えずわざとらしい咳払いをしてみる。


「それで、えっと……。なんか途中色々あったけど、結局TDを作って欲しいってお願い、聞いてくれる?」

「……そういえばそんな話だったけれど、今となってはもうそんな話はどうでもいい」


 どうやら彼女のご機嫌俯角は、先程までより更に鋭い角度になったらしかった。


「作る作らないに関わらず、一度垰止踊梨に会う必要があるみたい。……協力条件は一度ペンディング。今日の放課後、彼女に会わせて」


 会ってどんな話をするつもりなのだろうという疑問と心配は無論僕の胸中にあったが、とてもイエス以外の返事をできないような雰囲気だった。

 それほどに、清花の纏っている空気には並々ならぬ威圧感があった。


 感情表現がわかりづらく大抵のことは素知らぬ顔で受け流すけれど、たまに地雷や逆鱗に触れられれば明確に怒りを露わにするし、憤る。


 それがひと月前に僕に告白してくれた、皆瀬清花という少女だった。


     ◇◇◇


 そして放課後。

 帰りのホームルームが終わり、僕は寮までの帰り道を清花と二人で歩いていた。

 踊梨は先にホームルームが終わり、さっさと帰ってしまったらしい。

 まあ彼女が僕を待たずに先に帰るというのはよくあることだ。

 別に一緒に帰ろうと示し合わせているわけでもない。

 ただ清花とこうやって帰路を共にするというのは滅多に無いことだった。


 同じく帰宅部で同じクラスで同じ学生寮に住んでいる以上、これまでもう少し帰るタイミングが重なることがありそうなものだったけれど。

 どうもひと月前の出来事以来、彼女は意図的に僕と一定の距離を保っていたらしかった。


 ただ、僕の立場でこんなことを言えた義理では無いかもしれないけれど、こうして彼女と肩を並べて歩くことができるのは、素直に嬉しかった。


「――というわけで、次の試験に向けて特殊なTDが必要なんだ。それで清花ならひょっとしたらなんとかできるんじゃないかと思って、朝のお願いをした次第なんだよ」


 道中、僕は彼女に、踊梨に関するこれまでの事のあらましを説明した。

 事細かにというには時間が無かったからざっくりと、踊梨には壊滅的に女子力が無くて落第寸前だから協力を募って次の試験に備えているんだ、という程度の説明だったけれど。

 それを受けて、彼女は小さく平坦な声で言う。


「大凡は理解した。……私が先に唾を付けておいた三上くんを横から攫っていったのは到底許しがたいけれど、彼女のおかげであなたと話す切っ掛けができたのならそこは感謝するべきかもしれない」

「いやいや……。朝も言ったけど、別に僕と踊梨は付き合ったりしてるわけじゃないよ。ただ同じ部屋で生活してるだけで……」

「それは一般の倫理観と公序良俗に照らし合わせれば大問題だと思うけれど」


 参ったな、ぐうの根も出ない正論だ。

 この高校の敷地内ではいかなる青少年健全育成条例や公序良俗に関する民法の規定は有名無実と化すとはいえ、僕達は大人の庇護下にある子供である。


 自分で責任の取れない行為には手を出すべきではない。


「まあ、あいつに関しては間違っても間違いは起こらないから、その点は安心してくれ」

「……垰止踊梨。前に噂を聞いただけだけれど、そんなに女子力が無いの?」

「ああ、それはもう」


 毎日の指導がちっとも身にならず泣きたい気分だ。


「でも、そんな垰止踊梨としれっと同棲を始めたのね。私が告白した時は誰とも付き合う気がないからって断わったのに。どうして? 一モルも理解できない」

「いや、それはあいつの女子力を鍛える為に、仕方無く、成り行きで……」


 真横からぶつけられる剣呑なオーラにしどろもどろになる。


「じゃあ、私がせがんだら私とも同棲してくれるの?」

「それは……」


 僕が答えに窮していると、彼女は諦めたように小さく息を吐いた。


「……ごめんなさい。別に困らせたかったわけではないの」

「いや、謝るのは僕だよ」


 そして僕などに謝られたところで溜飲は下がらないだろうけれど。

 なんとなく落ち込んでしまった空気を変えようと思ってくれたのか、彼女が話題を変えて訊ねてくる。


「ところで、その垰止にはもう私の話はしたの?」

「うん、協力してくれるかもしれないから、取り敢えず連れて行くって連絡はしてる」

「そう」

「……ついでと言ってはなんなんだけど、高遠先輩も早めに仕事が終わったみたいで君と話をしてみたいって言ってるんだけど、大丈夫?」


 僕がこんな確認をしたのは、真面目な話の場に先輩がいたら緊張するんじゃないかと思ったからだ。

 誰もが知るトップアイドルの名前は、ゴシップに興味を示さない彼女だって当然知っている。

 そしてその名を知る者なら大体は面と向かうことに萎縮してしまうだろう。


 けれどそれは僕の杞憂だったらしい。


「問題無い。高遠璃咲もライバルだというなら、しなければならない話がある」


 そんな強気なことを言っている。

 因みにライバルではない。


「……そういうことなら良かったけど。……一応言っとくけど、喧嘩とかしないでね」

「それは相手の出方による」

「出方って何さ……」


 僕は今から憂鬱だった。


     ◇◇◇


 そんなこんなで今、僕の部屋には三人の女子が集まっていた。

 いつもの僕なら身の丈に余る幸甚に悶え感涙に咽び泣くようなシチュエーションなのだけれど、生憎ととてもそんな空気ではなかった。


 向かいの踊梨と先輩はおおむねいつも通りの様子なのだけれど、僕の隣に座る清花があからさまな仏頂面で二人の女子に険悪なムードを向けていた。

 踊梨は空気が読めないのでけろっと意に介していない様子だが、先輩は人の感情に敏感なので、流石にちょっと困り顔だった。


「えっと、高遠璃咲です。よろしくね?」

「私が垰止踊梨よ。あんたが私のTDを用意してくれるの?」

「……それはこの後の話次第。私は皆瀬清花。よろしく」


 三人寄らば文殊の知恵という言葉があるが、女子が三人いれば纏っている空気も三者三葉でこの部屋には今それが渦を巻いているようだった。

 これは決して、僕の敏感な嗅覚が彼女達毎のトリートメントの香りを嗅ぎ分けたことを表わす比喩ではない。

 なんというか、妙に緊張感のある一触即発の空気がここにはあった。


 そんな空気をなんとか払拭したくて僕が口を開く。


「清花は昔から趣味でTDを作ってる女の子なんです。今回の無茶なお願いを聞いてくれるのは彼女しかいないと思って頼み込みました。その結果、詳しい話がしたいということで、こういう場を設けさせてもらった次第です」


 踊梨には既にメールで軽く説明していたので、主に先輩に向けて解説する。


「へえ、TDを趣味で? すごいね清花ちゃん! よかったら、今度私の護身用デバイスも診てみて欲しいな。なんだか最近調子悪いみたいでさぁ」


 そして流石は先輩。

 僕が期待した通り、この沼に沈殿した泥みたいに重い空気をなんとかしようと普段より二割増しで明るく振る舞ってくれている。


「……気が向いたら」


 けれどファンならそのまま天に昇る先輩の微笑みも、清花には通用しないようだった。

 聞いたこと無いくらい冷たい声で短く返している。

 一体どうしたのだろう。

 そんな取り付く島の無い彼女の態度に先輩も打つ手を見失ったのか、「そ、そっかぁ」と残念そうに溢して引き下がってしまった。

 そして次に踊梨が口を開く。


「でも、高校生でTD作るなんてすごくない?」

「そりゃあすごいよ。TCシステムに関する彼女の知識や技術は大人顔負けだ」


 けれど彼女がそういう一種の天才であるということを知る生徒は、実は決して多くはない。

 彼女が自分について多くを語るタイプではないからだ。


「そんなすごい人に協力してもらえるなんてねー。先輩の時といい、ラッキー」

「……まだ協力するとは言ってない。あなた、私の話聞いてる?」


 清花の声色に苛立ちが混じる。


「まず、何よりもはっきりさせなければいけないことが一つある」


 そんな一言で彼女は口火を切った。


「垰止踊梨。あなたは三上くんと、この部屋で一緒に生活しているそうね」

「そうだけど?」


 ぽけーっとした顔で答えた踊梨に、彼女は問いを続ける。


「あなたは、三上くんのことをどう思ってるの?」


 その単刀直入過ぎる問いは、僕は半ば予想していた。

 けれどそれでも頭を抱えたい気分だった。

 高遠先輩も、先程から並々ならぬ様子の清花から発せられたこの質問に何かを敏感に感じ取ったようで、まさしく人の思いがけないコイバナを聞いてる時の女子のような、至って普通の女の子っぽい表情を僕に向けてくる。

 僕は恥ずかしくて顔を背けた。


「え? 伊吹のこと?」


 けれど当の踊梨はなんでそんなことを聞かれているのかわからないという感情が顔に出ている。鈍感な奴め。


「どう思ってるかって、なんて言ったらいいのかよくわからないけど……。いつまで経っても私にトキメかない、口うるさい、いけ好かない奴かしらね」


 ふうん、そんな風に思ってたんだ。

 なんて言ったらいいかわからないとか言っておきながら随分明確に悪口が出てくるじゃない。


「ていうか、なんでそんなこと聞くの? なんか関係ある?」


 首を傾げながら眉を顰める踊梨。

 そんな反応に業を煮やしたのか、清花は確定的な爆弾を投下した。


「私は、ひと月前、彼に告白した。あなた達と会うより先に、私は想いを伝えている。あなたが三上くんのことを好きだと思っていないというのなら、彼と一緒に生活するのはやめて欲しい」


 先輩が再度こちらに興味津々の顔を向け、踊梨も流石に目を丸くして僕を見る。

 僕は知らん振りをした。


 そんな僕への踊梨の興味はすぐに清花へと向き、言外に信じられないと言いたげな声色でまくしたてた。


「え? 告白したの? 伊吹に? 伊吹なんかに? どうして? 罰ゲーム?」


 おいてめえこら、あんまりだろその言い草は。

 そんな僕の心がリンクしたのか、清花もムッとした様子で言葉を返す。


「失礼なことを言わないで。三上くんには三上くんの良さがある。私は彼に助けられた。……というか、少し前に彼と知り合ったばかりのあなたが、彼を気安く呼ばないで。私だって下の名前で呼ぶタイミングをずっと伺っていたのに――」


 えっ、清花そんなこと思ってたの? 照れる。やっぱ可愛い奴だなぁ。こんなのTP吐き出しちゃうよぉ。


「タイミング? 何それ普通に呼べばいいじゃない。気兼ねするほど大した男じゃないわよ」


 取り敢えずこいつとは後で個別に話し合う必要があるらしい。

 失礼な事ばかり言う踊梨の横で、高遠先輩は顔を覆って肩を震わしている。爆笑を堪えている時のやつだ。

 彼女からしてみればこの場は愉快な修羅場みたいに見えるらしく、それが面白くて仕方無いらしい。

 けれど当事者の僕にとっては笑い事ではない。

 断じてない。


「踊梨、僕だけを馬鹿にするならまあ構わないけれど、この状況では僕に告白してくれた彼女も馬鹿にしているようなものだ。止めてくれ」


 彼女の名前まで傷付くのは、本意ではない。

 僕の言葉に踊梨は口を尖らせる。


「なによ格好つけちゃって。……で、あんた、この子と付き合ってんの?」

「……付き合ってはいない」

「じゃあ振ったの!? なんで!? こんな子に告られておきながら!?」


 理解できないと彼女は喚く。


「あんた、この子のこと嫌いなの!?」

「んなわけないだろ! 好きだよ!」

「じゃあどうして? こんなに慕ってくれてる子を放っておくなんて、随分なことね」

「いやまあ、それはほら、事情があるというか?」


 踊梨から問い詰められて、苦し紛れの言い訳をしている気分だった。

 清花に横から向けられる視線が痛い。


「……本当? 本当に三上くんは私のこと好きなの?」

「好きさ! そりゃ好きさ! 今も昔もその気持ちに偽りは無い!」


 触れば折れてしまいそうなぐらい華奢で、儚げな少女。

 けれど誰にも負けない芯の強さを持ち、尚且つこんな僕を好きだと表明してくれる彼女。

 嫌いなわけがない。


「けれど僕は、誰とも付き合う気は無いんだ!」


 そう高らかに宣言した僕に、踊梨は途端に冷めた目を向けた。


「ああ……。そう言えば前にそんなようなことを言ってたわね……」


 それは呆れと軽蔑が混じったような声色だった。

 ゴミを見るような目で僕を見やがる。

 開こうとでもいうのか? 僕の、新たな扉を。


「あんたの信条って、ほんと気持ち悪いわよね……」


 ドン引きった表情の踊梨。

 悪口は傷付くけれどその辺の自覚はあるので、僕は適当に受け流した。

 へん、なんだい、いいやい、いいやい。

 僕には僕の生き方があるのだ。


 けれど、僕が受け流した彼女の言葉に、敏感に反応してしまった者がいた。

 僕の隣に鎮座していた少女が、不意に勢いよく立ち上がる。


「垰止踊梨、今の言葉は聞き捨てならない。あなた、三上くんの事情を知っているの?」


 清花はそんな言葉で、はっきりと踊梨を非難した。


「事情って、そんなの知らないけど……。なによ、折角あんたの肩持ってあげようと思ったのに、不満なわけ?」


 そんなふて腐れた様子の踊梨に、清花が続ける。


「何も知らない奴に、彼を非難する権利は無い!」


 烈火の如くという形容が相応しいほどに声を荒げた清花に、僕はかなり驚いた。

 そして踊梨にしても彼女がここまで怒りを露わにすることは意外だったらしく、たじろいでいる。

 先輩もその横で目を見張っていた。


「な、なによ偉そうに――」

「わーっ、ストップストップ。落ち着け、落ち着いてくれ」


 即座に口論にまでヒートアップしそうな気配を感じ、慌てて間に割って入る。


「清花、僕の為に怒ってくれるのは嬉しいけど、君に似合わないよ。僕は気にしてないし」

「……あなたが気にしなくても、私は気にする――あなたの家族のことだって、私は……」


 そこまで言って、彼女は思い直したように言葉を切った。

 そして踊梨に鋭い視線を投げかけ、


「とにかく、私はあなたに協力するつもりはない。話は終わり。さようなら」


 背を向けて部屋から出て行ってしまった。


「あっ、清花……」


 咄嗟に引き留めようとした僕だったが、何を言えばいいのかわからず伸ばした手が空を切る。


 後に残された僕達三人は、しばらく誰も何も言わなかった。


 耳が痛くなるような静寂が訪れる。


「……なんだか、怒らせちゃったみたいだね。悪いことしたな」

「いえ……。先輩が気にすることじゃありません。……元を正せば僕に原因がありますから」


 この件に関しては、踊梨を責めることもできないだろう。

 僕はそう思った。


「彼女には後で僕から謝っておきます。……むしろ、巻き込んじゃったみたいですいません」

「それは私もお互い様だしいいんだけど……。ちょっと困ったことになっちゃったね。彼女が協力してくれないんじゃあ、踊梨ちゃんのデバイスは難しいんじゃない?」

「その通りですね……」


 先輩の台詞で、僕は踊梨の様子を伺うべく視線を向ける。

 彼女は眉根を寄せて、難しい顔で俯いていた。

 そして目線だけこちらを見上げて、ぽつりと言う。


「……彼女、怒ってたわよね?」

「まあな」

「私、怒らせちゃった?」

「……ほとんど僕の責任だよ」


 とはいえ踊梨に非が無いとも言えない感じなので、僕は正直にそう言った。

 すると彼女は深い溜息と共に脱力した身体を後ろに投げ出す。


「はぁ~、そっかぁ~」


 そう言って目を閉じる彼女は、珍しく自分の行いを悔いているように見えた。


「私、今までほとんど同年代の子と接してこなかったから、そういうのよくわからないのよね~……。あーあ、気を付けてるつもりだったのに」

「そういえば、そうだったな」


 彼女、垰止踊梨は一般的な家庭環境で育ったとは言い難い。

 代々受け継がれる垰止流の技を継承する為に、様々なものを犠牲にして鍛錬を続けてきたと聞く。

 普段の彼女からは想像できないが、案外その厳しい環境の反動の結果が今の彼女なのかもしれない。


 そういう特殊な事情で友達という友達がいなかった彼女は、人の気持ちというものが今一つ理解できないのだろう。

 男心は元より、他者の感情そのものに疎い。

 僕達が社会生活の上で少しずつ身に付けていく通念や常識といったものが、彼女にはしばしば欠けている。


 そしてその欠落をどうにかしたいと彼女自身が思っていることを知っているから、僕は彼女に協力しているのだ。


「決めた。私、あの子に謝りに行くわ」

「いや、それは僕が――」

「なんで? 私が怒らせちゃったんだから、私が謝るべきじゃない」


 そして色々とおかしなところのある彼女だけれど、こんな風に少しずつまともになっていっている。

 少し前の彼女なら、わざわざ誰かに謝罪するなんて面倒臭がってしなかっただろう。


 なんとなく、子の成長を実感する親の気持ちを知った気分だった。


「なにニヤニヤしてるのよ、気持ち悪いわね……」

「お前っ! そういう心無い罵倒がっ! 人々を傷付けるんだっ! ……自分から謝りに行くと言い出すなんて、せっかく少しはまともになったと思っていたのに」

「勘違いしないでよね! あの子に嫌われたままじゃあTD作ってもらえなくて、私が困るから謝りに行くだけなんだから!」

「あー、はいはい」


 前から思ってたけれど、彼女はちょっとツンデレの気質がある。


 だが僕はツンデレ原理主義者なので、彼女のような世俗的ツンデレより、ずっとツンツンしていて最後にデレてくれる方が好きだ。

 無論そうじゃないのも好きだ。

 結局全部好きだ。


 そん愚にも付かないことに頭を巡らせていた僕に、踊梨が言う。


「だから聞かせなさいよ。あの子がさっき言ってた、あんたの事情ってやつ」

「……どうして?」

「だって、何も知らないままじゃ話を聞いてもらえないなら、聞くしかないでしょ? ちゃんと知って話をしなきゃ」


 なるほどね。

 まあ、その考えは正しいと思う。

 ただ問題は、僕がその話をしたくないということなのだけれど。


「……仕方が無いか」


 ここにいるのは踊梨と高遠先輩だけ。

 短い付き合いだけれどすっかり酸いも甘いも噛み分けた感じで、そんな二人に隠し事を続けるのも気が引ける。


 それにそんなに大した話でもない。

 大した話ではない上に――


「別に、面白い話じゃあ無いよ」


 そんな前置きをして、僕は口を開いた。


 その口はもう少し重たいかと思っていたけれど、いざとなってみれば存外軽かった。


     ◇◇◇


「僕には今、父親がいない。家族は母と、妹が二人いるだけだ。両親は、僕が七歳の時に離婚した」


 まず初めに僕はそう切り出した。

 別にそういう話は珍しいわけじゃない。

 悲しいことに、親の離婚はありふれている。

 道を歩けば石ころが転がっているように、各家庭を見渡せば歪みや綻びがあるものだ。

 けれどそんなありふれた現象には個々の理由があり、そこから子供が何を感じるかは、人それぞれである。

 そしてこれは、僕が何を感じ何を学んだかという話。


「当時はTCシステムの黎明期で、TTやTRなんてものは今よりもっと普及していなかったけれど、データ収集用の実験機が抽選で一般家庭にも提供されていたんだ。僕の家はそれに当たってね。父と母は、それぞれその実験デバイスを身に付けていた」


 その抽選倍率は凄まじいものだったので、もしかしたらこの学校の受験をくぐり抜けた僕の豪運は父親譲りだったのかもしれない。


「旦那が奥さんにトキメくだけでポイントが溜まって色々なものに交換できるって触れ込みだったから、僕達はみんなわくわくしてた。普通に生活してるだけでポイントが振り込まれるわけで、その溜まったポイントで何しようかってね。……でも、一つ問題があったんだ」


 今思えば、あの時の僕達は幻想に騙されていたのかもしれない。


 家族は家族の絆で結ばれているという、幻想に。

 語りながら僕は苦笑いを浮かべた。

 それは恐らく自虐的なものだったと思う。

 これは言わば身内の恥みたいなもので、僕としては恥じ入るしかなかった。


「父は、母さんに対してトキメかなかった。全くね」


 肩を竦めて、僕は言った。

 あの時の空気は今思い出しても吐きそうになる。

 これまで信じ切っていた前提が脆く崩れ去っていった、足下を掬われたような感覚。

 あの時の両親や妹達の顔を、一生忘れることはないだろう。


「何かの間違いかと思ったけれど、一週間経っても二週間経っても、何も変わらなかった。初めはそういうこともあると強がっていた母さんも、一ヶ月の間何をしても父がトキメかなかったという結果を受けて、これ以上こんな生活は続けられないと訴えた。父は父で、後ろめたさがあったんだろうね。母さんにトキメけない理由を正当化しようとして、十年も一緒にいるんだから一々トキメいていられるかと反論した」


 そして、その時点でもう全ては終わっていたのだろう。


「母さんからしてみれば、飽きたって言われてるようなものだからね。もう付き合っていられないと、二人は同時に離婚を決意した……。僕や妹達はどちらについていくか決めていいと言われたんだけど、僕としては母さんに酷いことを言った父より、泣いてた母さんが可哀想に思えた。妹達も似たような思いだったんだろう。結局、父だけが出ていった……。とまあ、そういうことがあって、僕はその時思ったんだ」


 言わば、あの日が今の僕の原点。

 三上伊吹という人間を形作った出来事だった。


「僕は、母さんを泣かせた父のような男にはなりたくないと思った。ちゃんと相手の女性を好きだと思える男になろうと思った。そして、心の底から好きだと胸を張って言える人としか、結婚はしないと心に決めた」


 元から女性好きな僕ではあったけれど。

 女性に対して信条を決めたのはその日だった。


「だから僕はその場の勢いや一時の感情で誰かと付き合ったりすることができない。――ただそんな僕にも好意を向けてくれる人はいて、そういう人達を僕の身勝手な想いが傷付けていることは、承知しているつもりだ」


 未だ僕を見限らず、僕の為に怒ってくれる清花のように。


「けれど僕は怖いんだよ。相手のことを今、ちゃんと好きでも、いつかその気持ちが移ろいでしまうんじゃないかって。僕の父親のように、かつては愛した女性をその内に酷く傷付けてしまうんじゃないかって。そう考えると、誰かと付き合おうとはとてもじゃないけど思えない」


 女性を好きだと公言しながら誰とも付き合わないと宣言するダブルスタンダード。

 曖昧で歪な僕は糾弾されても仕方が無い。

 けれど責められたところで、この考えは今更、覆すことができなかった。


 今も昔も変わらず好きでも、いつまでも好きでいられる保障は無い。

 恐らく、あらゆる感情は時と共に薄らいでいくものなのだ。

 喜びも怒りも哀しみも楽しみも、そして愛でさえも。


 それは誰にでも起こり得ることで、故に逃れがたい。

 だから僕は恐れている。

 どこかの相手に恋に落ちて、愛を育んでいくことを。

 いつかまた、今度は自分があの光景を生み出すのではないかと、恐怖している。

 それが、僕が誰とも付き合えない理由だった。


     ◇◇◇


 僕が話を終えてしばらく、踊梨と先輩は何も言わなかった。

 やがてそんな沈黙にも耐えられなくなったのか、踊梨がこう口を開いた。


「……なんていうか、重いんですけど」

「だから最初に言ったじゃん。面白い話じゃないって」

「重い話じゃないって言ったんだと思ってた……」

「盛大な空耳だな」


 思わず口元が緩む。

 僕が笑うと、踊梨が緊張が解けたように大きな息を吐いた。


「なるほどねー、今のがあんたの事情ってわけね。……まあ色々思うところはあるけれど、おいそれと口を出せる感じじゃなくて腹立たしいわ」

「いや、変に気を遣ってくれる必要は無いぞ。僕だって自分が歪んでることは認識してる」

「まあ、誰とも付き合わないことに理由をずらずらと並べてる姿勢が、自分には告白してくれる女子はいるけど敢えて付き合わないだけで決して魅力が無くて付き合えないわけじゃないんだよってマウント取ってる感じでキモいってこと以外は概ね理解を示してあげなくもないわ」

「あ、そうですか、ありがとうございます……」


 理解を示されなかった部分に対する糾弾が、もの凄い角度で僕の心を抉ったけれどもだ。

 咳払いでその精神的ダメージを誤魔化す僕に、彼女は続けた。


「……でも、悪かったわね。何も知らずに適当なこと言って」


 そんな風な謝罪が飛んでくるとは思っていなかった僕は、目を白黒させていたことだろう。


「いや、まあ、僕が何も言わなかったんだし」


 そんな風に謝られると気恥ずかしい。

 頭を掻く僕に、今度は高遠先輩がこう言った。


「けどまあ、今の話を聞いてたら、伊吹クンの肩を持ちたくなる気持ちはわかるなぁ。だから、清花ちゃんはあんなに怒ってたんだね」


 踊梨からの非難で負ったダメージを回復できていなかった僕だけど、優しい先輩の声は天からの福音のようで、その声音だけで僕は復活することができた。


「けど、それにしたってあそこまでムキになるもんですか? いくらこいつに好意を抱いてるからって、ちょっと過剰な気がするんですけど」


 高遠先輩にそう意見する踊梨。


「……僕に僕の事情があるように彼女には彼女の事情があって、彼女なりの考えがあるんだよ」


 僕は過去に、そんな考えは持たなくていいと言ったけれど、あの様子では彼女の考えは変わっていないらしい。頑固なことだ。


「ふーん、あっそ。まあ結局、もう一度話してみないことにはね」


 そう言って踊梨がやおら立ち上がる。


「……行くのか? また怒られるかもしれないぞ」

「でも私は彼女にTDを作って欲しいんだもの。……私が諦め悪いの、知ってるでしょ?」


 ふふんと笑った彼女の台詞に、僕と先輩が顔を見合わせて笑う。

 そして彼女に続いて腰を上げた。


 清花に一番言わなければいけないことがあるのは、他でも無いこの僕なのだから。


     ◇◇◇


 急に部屋に押しかけた僕達に、清花は初め眉を顰めたけれど、取り敢えず中に入れてくれた。

 同じ学生寮、同じ間取り。

 けれどもそこは僕達や先輩の部屋とは全く違った雰囲気を醸し出していた。

 一台で目が飛び出るような値段がしそうな、冷蔵庫みたいな大きさのゴツい機材や、作業机に並べられた工具用品。

 見るからに高スペックなパソコンと数台のディスプレイ。

 男心が駆り立てられる設備に内心をわくわくさせながら「すごい部屋だな……」と率直な感想。


「三上くんが来るとわかっていたら、改装したのに」


 健気な台詞で大変男冥利に尽きるけど、大がかりすぎない?


「それで、何の用? 三上くんはともかく、後ろの人達と話すことは無いけれど」


 そんな冷たい言葉に僕は苦笑いを浮かべる。

 随分と反感を買ってしまったものだ。


「謝りに来たんだよ、さっきのことで」


 僕の言葉に二人も頷く。

 そんな僕達を細めた視線で軽く見やって、彼女は踊梨に視線を固定して言った。


「何を謝るというの? あなたが謝るべきは私じゃなくて、三上くんじゃないの?」

「こいつにはもう謝ったわよ。だからあんたに会いに来たの」

「謝ったって……。あなた、三上くんの話を聞いたの?」

「ええ。じゃないとあんたが何に怒ったのかわからないと思ったから。聞かせてもらったわ」


 踊梨の回答に、清花が驚いたような顔で僕を見る。

 僕は黙って頷いた。


「伊吹にもちゃんと理由があることがわかって、あんたが怒る気持ちもある程度は理解したつもりよ。……私も好きな人が不当な悪口を言われていたら、良い気持ちはしないと思うもの。だから、ごめんなさい。私はあんたの言う通り、何も知らない癖に偉そうなことを言ってるだけだったわ。反省しました。この通りよ」


 そう言って、踊梨は頭を下げた。

 そんな彼女の行動に清花は更に驚いたようだったが、それは僕も同じ気持ちだ。

 こんなに素直な踊梨を見るなんて、明日は槍でも降ることを覚悟しなければならない。


 けれど、これは案外、意外なことでもないのかもしれない。

 女子力や常識の欠落した言動が目に付きがちだが、彼女の性根は元来このように真っ直ぐなものなのかもしれない。


「そしてその上で、もう一度頼むわ。あんたに、私でも使えるようなTDを作って欲しいの」


 踊梨の真っ直ぐな眼差しに、清花はたじろいだようだった。

 そんな彼女に、僕も続ける。


「清花、僕からもお願いだ。こいつがこの学校に残れるかどうかは君に懸かってるんだ」


 そんな僕達の言葉に、彼女はしばらく何も言わなかった。

 ただ普段感情が浮かんでこないその顔は今、決して無表情ではなかった。

 僕達の嘆願を、彼女がしっかり正面から受け止めてくれている証拠だった。

 そして彼女はやがて、訥々と囁くように言った。


「……三上くんがわざわざあの話をしたという時点で、あなた達がどれくらい本気なのかということはわかった。そして私も、三上くんが気にしていないということを怒る筋合いは無い。……垰止さん、あの時は私の方こそごめんなさい」


 そんな言葉に、僕はほっと胸を撫で下ろした。

 彼女なら許してくれるとは思っていたけれど、やはり安心する。

 踊梨と先輩も同じ気持ちだったようで、顔を綻ばせていた。


 そんな僕達に真っ直ぐな視線を向け、清花はこう続けた。


「けれど、あなた達に協力するのには一つ条件がある」

「当然だな。それで、何が望みなんだ?」


 本日二度目になる僕の台詞に、彼女はそのまま表情一つ変えずに言った。


「三上くん、私と付き合って」

「えっ」


 その驚きの吐息は、一体誰のものだっただろう。

 清花の唐突な要求に目を丸くしたのは僕だけではなかった。

 踊梨も高遠先輩も、僕達はみんな同じような表情で口を開けていた。


「――ふ、ふーん? あんたってほんとにこいつのこと好きなのね! でも、一応私がメインのお願いなんだから、こいつにだけ負担があるような要求はちょっとどうかなって思うわ」

「そ、そうそう、一応私からのお願いでもあるから私にも応えられるような条件がいいな!」


 僕が二の句を継げない間に、二人が口々にそんなことを言っている。

 清花はそんな僕達を順々に見やって、それから面白くなさそうな顔で溜息をついた。


「――冗談よ、三上くんを困らせるのは私の本意ではないもの。けれどこの感じだと、迂闊な協力は敵に塩を送るような真似になりかねないわね。……まったく、いつの間にやら敵が増えて、良い迷惑だわ」


 そして、清花は少しだけ笑った。

 それはどこか諦念の混じった、そして妙に晴れ晴れとした笑顔として僕の目には映った。

 先輩が少し赤らんだ笑顔で頭を掻く。


「い、いやー? たはは、敵だなんてそんなぁ。考えすぎだよ清花ちゃん。杞人が天を憂うようなもんだって。ね?」

「え? え? 先輩、どういうことですか?」


 踊梨は首を傾げてそんな質問をしていた。

 清花の言った言葉の意味がわからなかったのか、それとも先輩の言葉が難しかったのか。


「……本当の条件を言ってもいいかしら」


 そんな踊梨に呆れたような目を向けながら、清花が言った。

 自然と僕達全員の意識が彼女に集まる。

 そんな中で彼女は、


「垰止さん。あなたの女子力修行に、私も参加させて。……あなたの結果を、私に見届けさせて欲しい」


 決して大きくはない、けれど強い芯を持った声でそう条件を提示した。

 その彼女の要求に、踊梨が訝しげな声を返した。


「そんなことでいいの? ……むしろ、私は助かるけど」


 清花はこくんと頷き、言ってのける。


「そうすることで私も三上くんと関わりを持ちたいという思惑も勿論ある。……けれど、ほとんど別の理由が主」

「別の理由?」


 今度は先輩が首を傾げ、清花が答えた。


「私はいくつかの目的があってこの高校にいる。その中で一番重要な目的が、TCシステムの価値を見極めること。……垰止さんの修行を見届けることは、その目的の為になると思う」


 そして、淡々とした調子で続けた。


「私の親はTC理論の提唱者である皆瀬清一せいいちと、TD開発の第一人者だった皆瀬微花かすか。世の中の人達から天才と呼ばれる両親の下に、私は生まれた」


 僕は、ただ驚いていた。

 彼女が自分からその話を打ち明けたことに。

 以前あれだけ人に知られたくないと言っていたのに。


 踊梨や先輩に打ち明けることに、彼女はかなりの覚悟を要したことだろう。

 彼女がTDの開発を行っていることを知る者よりも、彼女の家庭事情を知る者は更に少ない。

 一時期噂として囁かれたことはあったけど、ひと月前に彼女に請われて、僕が情報を操作したからだ。

 今では彼女はごく普通の家庭に生まれた一般的なちょっと不思議な少女だということになっている。

 けれど本当は正真正銘の天才の血筋で、幼い頃から最先端の技術と機械に囲まれてきた生粋の技術者なのだ。

 そんな彼女のカミングアウトに、まず先輩が口を開いて、声を落とす。


「TC理論の生みの親……。それじゃあ、清花ちゃんのご両親は……」


 彼女が眉尻を下げるのには理由がある。

 大体の人は有名な話として、聞き及んでいるからだ。


 TC理論を提唱した夫妻は日本人で、その二人は理論の浸透後ほどなくして、唐突に失踪してしまったという話を。


 巷では別の国のお抱え技術者になったとか、大陸側諸国に拉致されたとか、それを恐れた日本政府が匿っているとか、様々な憶測が流れている。

 そのどれかが真実なのか、はたまた全く別の真相があるのかは家族である清花も知らないということだったが、失踪の理由にTCシステムが絡んでいることは誰の目にも明らかだった。


 気遣うように言葉を探す高遠先輩に、清花は無表情のまま頷く。


「両親は私が六歳の時に、私の前から姿を消した。TCシステムについて、誰よりも深く知っていたから、いなくなってしまった。……だから私にとってTCシステムは長い間、両親を奪った恨むべき対象だった」


 六歳という幼さで突然両親を失い、彼女が何を思い何を感じたのか。

 それは僕達余人が推し量るには余りあるけれど、TCシステムが憎いと語るその言葉が偽りや誇張などでは決してないことはなんとなく感じ取れた。


「私には、TCシステムが関わる人の人生を壊すものに思えて仕方がない。……三上くんと出会い、彼の家族の話を聞いてより強くそう思った。彼の家庭の不和は、私の両親が作ったTCシステムが原因。それがなければ、彼の人生は変わっていた。私は、人の人生をねじ曲げるTCシステムに、良い印象を抱けない」


 ひと月前も、彼女は同じことを言っていた。

 彼女はTCシステムに対して懐疑的であるのと同時に、責任を感じているのだ。

 両親が作ったシステムが誰かの人生を左右しているという事実に、責任を感じている。


「――でも、あんたは趣味でTDを開発してるんでしょう?」


 そう問いかけたのは踊梨だった。

 部屋の中の機材に視線を向けながら彼女は訊ねた。


 TCシステムに良い印象を抱いていないのなら、どうしてそのデバイスを開発しているのだと。

 僕も以前、同じ質問をした。

 その時と同じ答えを、その時と同じように自罰的な響きを伴って彼女は答えた。


「……捨てられないの。TCシステムやデバイスは私にとって両親を奪った忌むべき対象で、人の人生を曲げる碌でもないもの。――けれどそうであるのと同時に、両親の形見でもあるもの。それを手放す強さが、私に無いだけ」


 彼女にとってTCシステムは、いなくなった両親との間に唯一残った繋がりなのだろう。

 だからどれだけ悪感情を抱いていても、それを手放すことができないでいる。

 けれどそれは、彼女がまだTCシステムの可能性を捨てきっていないことの表れでもあると僕は思っている。

 これは僕の「そうであって欲しい」という願望が混じった推察だけれど。

 彼女は自らの手で、両親の忘れ形見であるTCシステムの価値を証明しようとしているのだと思う。

 だから、とても趣味とは思えない熱量で、TDの研究開発に打ち込んでいる。


「私はTCシステムの価値にずっと疑問を抱いてきた。負の側面を散々見てきて、そこに世間が期待しもて囃すほどの価値があるようには思えなかったから。だから私はその価値を見極める為にこの学校に入学した」


 両親を奪ったTCシステムが憎くて、でもどうしても憎みきれなくて。

 価値を見極めるという行為は、彼女なりの感情の整理なのだろう。

 そしてその整理がついた時、彼女は初めて前を向くことができるのかもしれない。

 余りにも重すぎる過去が足枷になっている彼女が、初めて。


「だから、あなたの女子力修行を最後まで見届けさせて欲しい。その過程と結果で、私はTCシステムに対する一つの評価を下すことができる気がする」


 だとすれば、せめて前向きに前を向かせてやりたいものだと僕は思う。

 両親が残したTCシステムがやっぱり碌でもないものだったなんて結果ではなく。

 彼女が心底から両親を誇れるような結果を出して、背中を押してあげたいものだ。


 その為には、僕だけでは力が足りない。

 僕なんかでは到底足りない。


 けれどその点に関しては心配要らないことを、僕は知っていた。


「……確かに私も、TCシステムのせいで人生が変わったわ。それまでの生き方とは全く違う生き方を余儀なくされた」


 不意に声を発したのは踊梨だ。


「こんな高校に入れさせられて、得意でもないことに精を出す羽目になってる。TCシステムが無ければ、こんな苦労はしなかったでしょう――けれど、私は後悔していない。この学校に来てこんな生活をしていることを、むしろ良かったと思っているわ」


 彼女の言葉に、清花が僅かに目を見開く。

 そんな彼女に、今度は高遠先輩がゆっくりとした口調で踊梨の後を引き継いだ。


「私もアイドルを始めた切っ掛けはTCシステムで、色々苦労することもあったよ。人からの期待に疲れたり、変な人に追いかけ回されたり……。けど、今では差し引きでプラスだと思ってる。だってTCシステムがあったおかげで、良い後輩達に巡り会えたからね」


 そう言って、先輩は溌剌とした笑顔を浮かべた。

 やれやれ、嬉しいことを言ってくれる。

 そして、全く同意だ。


 別にTCシステムに限った話ではなく、何かの一面だけを見てその価値を論じることには意味が無いと僕は思っている。

 物事にはいくつもの側面があるものだということを、歴史が教えてくれている。

 そして清花もそれをわかっているから、見極めようとしている。

 けれど見極めるというのなら、しっかりと良い側面にも目を向けてやらねばなるまい。


「清花……。以前にも言った通り、僕はTCシステムのせいで人生がねじ曲がったなんて思っていない。というか、むしろ感謝しているんだ。TPという仕組みが無ければ、僕はただの害悪な女好きだからね。女の子達が僕を見限らないでくれるのは、僕がTPをほいほい吐き出せるからであって、僕はそんな今の生活に満足している」


 だから人生が変わったのは確かだけれど、ねじ曲がったなんて思っていない。いや見方によってはねじ曲がってるかもしれないけどね?

 しかしそういう話ではない。


 確かに僕は過去、TCシステムが切っ掛けで味あわなくても良い苦労や不幸に苦しめられたかもしれない。

 けれども僕は今、幸せだ。

 そしてその幸福は、過去の苦渋があったから掴み取ることができたものなのだ。


 だから僕は言い切ることができる。


「それに、素敵じゃないか。人が誰かを想う気持ちが力になるなんてさ」


 単にトキメキがエネルギーになるだけではない。

 例えば、両親を想う気持ちが彼女の原動力になっているように。

 TCシステムは、関わる者に力を与えてくれるものではないだろうか。


 僕達の言葉に、清花はただぼんやりと耳を傾けていた。

 ただ、その目尻には涙が滲んでいるようだった。

 そんな彼女に、踊梨が宣言する。


「私の修行を見届けてくれるって言うんなら、是非見届けるといいわ! 私の人生はTCシステムなんかじゃ打ちのめせないってことを、教えてあげるんだから!」


 恐らくこの世界には色々な不幸や悲しみがある。

 中には一人では乗り越えられないようなものもあるだろう。

 けれど、その不幸や悲しみを一人だけで乗り越えなければいけないという決まりがあるわけでもない。

 一人で無理なら、誰かの力を借りて進めばいいじゃないか。


 ほら、こんな風に。


     ◇◇◇


「でも結局、あの子はどうして私の修行を見届けることでTCシステムの価値を計れると思ったのかしら」


 清花との協力関係を樹立し戻って来た自室で、踊梨が思い出したように言った。


「まあ。君みたいに女子力皆無な人間でも努力次第でそこそこのTPを得られるようになるなら、事実上全ての女性に女子力が存在するということを意味しているからね」

「それ、どういう意味よ」


 僕は嘯きながら、彼女の怒りを受け流す。

 決して口には出さないけれど、僕は清花の想いを察していた。


 彼女はきっと、ひたむきに女子力向上に励む踊梨の姿にこそ可能性を見出していたのだ。

 諦めなければ人はどんな理不尽にでも打ち勝てるのかもしれないと、思わせてくれる。

 そんな底知れない前向きさは僕や清花、高遠先輩にすら無いもので、僕達は皆少なからず、彼女のそういう部分に影響されているのではないかと、最近思っている。

 単に馬鹿なだけかもしれないけれど。

 馬鹿みたいに真っ直ぐだから、協力したいと思わされてしまうのかもしれない。


 ともあれ、問題の五月末試験まであと少し。

 僕は馬鹿ではないと自負しているので、中々修行の成果が表れないこの状況に、少しずつ焦りを感じていた。


 それに悟られないように、僕は彼女との他愛の無いやり取りを続けた。

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