学生服とナッパ服

竹氏

学生服とナッパ服

 日々、変わらない道を眺め続ける。それが自分の仕事であり役目。

 そう思うようになったのは、入社してから2、3年が経った頃だったように思う。

 賃金が良い訳ではないし、休みの自由が大いにあるという訳でもなく、かといって楽な仕事とも言い難い。

 ただ、自分という人間は、環境が変わることの方が余程苦手だったのだろう。

 故にこの仕事を始めてから5年が経とうかという今日もまた、自分は白手袋にノッチレバーを握り、下向きに垂れた腕木に小さく人差し指を立てる。


「場内進行」


 橙色に塗られた機関車は、甲高いスキール音を響かせながら転轍機てんてつきを越え、じわりと駅の中へと滑り込んでいく。

 示された停止位置にピタリと合わせれば、駅員が客車のドアを開けに走り、続けてホームの上に人の群れが流れ出した。

 周囲の山々も最初は驚いたことだろう。静かな山腹に見たこともないほど多くの男たちが押し寄せ、それらが皆揃って穴の中へ潜っていこうと言うのだから。

 とはいえ、こんな光景があるのは朝夕2回の通勤時間ばかり。汗と汚れに塗れた労働者の波が収まれば、このあまりに無骨で古臭い駅舎は閑古鳥。それこそ鉱山鉄道の職員くらいしか居なくなる。

 変わらない光景、今日も明日もその先もずっとそうだと思っていた。

 そんな時である。麓の駅へ折り返す列車の出発準備を行っていた時、見知らぬ人影が目に入ったのは。


 ――乗客……学生さん?


 錆びついた駅名標の前にぽつねんと、1人佇んでいるのはブレザーに身を包んだ、あどけない雰囲気の女子学生。

 短い黒髪をしたその少女は、駅務員が客車の扉を開ければ、どこか不安そうにキョロキョロと周りを見回しながらも乗り込んでくる。

 一瞬見間違いかと本気で思った。それくらい、この場所には似合わない雰囲気だったから。

 何がどうすれば、こんな鉱山労働者の為に作られた駅に、学生さんが訪れるのだろう。それも朝夕2往復しかない貨客混合列車に。

 不思議だ、不思議だと頭の中で繰り返しはしたが、それもジリジリと鳴り始めた古臭いベルによってかき消された。

 扉閉め確認よし。旗を持つ同期の駅務員の合図に、白い手袋に包まれた人差し指を突き立てる。


「出発進行」


 甲高い汽笛ホイッスルの吹鳴で返事をし、ジワリとノッチを入れてディーゼルエンジンを唸らせる。

 忘れてはならない。自分の仕事はただ、相棒である凸型をしたディーゼル機関車と一緒に、何事もなく同じ道を行き、また帰ること。特別なことなんてなくていい。

 鉄輪がレールを叩く音を聞きながら、3両の客車と無蓋貨車数量を牽引する下り便は、普段通り何事もなく山を下った。

 そうして訪れた昼休みの時間。


「珍しいお客さんだっただろう」


 弁当を開けた瞬間に声をかけてきたのは、大先輩に当たるベテランの機関士だった。


せきさんのお知り合いですか?」


「いや、そういう訳じゃないんだが、ちょっとした噂よ噂」


 ギィとパイプ椅子を鳴らして、関さんは自分の前へと腰を下ろす。黒く煤けた頬と日に焼けた浅黒い肌は、自分と違い蒸気機関車を担当している証だ。

 人懐こい雰囲気のある関さんは、くたびれたナッパ服の袖をまくりながら、アルミホイルに包まれたおにぎりをガサガサと開いて口に放り込む。


「洞からもういっちょ山を登った先に、昔は集落があったんだ。河本こうもとは知らんだろ」


「聞いたことがありません」


「無理もねぇさ。もう十何年も前になるが、土砂崩れの影響で人が居なくなっちまった場所なんよ」


 ここは金属鉱山の開発に当たって敷設された鉄路である。入社した時からそう聞かされて、人を運ぶと言っても鉱山で働く男たちばかり。

 表向きは地方鉄道でも、半ば専用鉄道だと思っていたし、実態はその通りでもあった。だから、まともな道路もないこの山の奥に集落があるなんて、考えもしなかったのだ。

 ポカンとする自分を前に、関さんはたくあんを齧りながら、ただまぁ、声を落とした。


「人ってのはそう簡単に故郷を忘れられるもんじゃない。年寄りともなりゃなおのこと。お前さんがヒヨコで入ってくる少し前に、1人のお婆さんが戻ってきたのさ。麓に降りてくることはまぁ無いが」


 そのお婆さんがどんな人なのかなど自分には知る由もないが、関さんのしみじみとした語り口調から、よっぽど恋しかったんだろうと想像が浮かぶ。

 加えて、誰かが住んでいるのなら、学生さんが現れたことにも線が繋がる。


「ではその方の?」


「孫か何かだろうって話だ。ついこの間、定期券を作りに来てたらしい。高校1年だとさ」


「なるほど」


 こうして、ふいに現れた不思議はいとも容易く溶けたのである。

 その日の夕方も、学生さんはきっちり麓の駅に現れ、上り列車で鉱山入口で下車していった。

 蓋を開けてみれば何のことはない。知らなかった情報が1つ増えただけの事。

 自分の日常は変わらない。ただ同じ線路の上を、人を運ぶか貨物を運ぶか、あるいは時々機関車だけで行ったり来たり。学生さんの方も毎日毎日同じように学校へ通い、また帰って来ることを繰り返す。

 同じ場所に居ても決して交わることのない線。乗客と機関士なのだから当たり前。

 そう思っていたある日、蝉が喧しく鳴いていた7月の頃である。


 ――おや?


 山から牽いてきた貨物の切り離しを終え、これから数時間は何にもないという昼の時間。

 駅の中に彼女の姿を見つけた。

 夕方の旅客便まではまだ数時間はある。にも関わらず、彼女はベンチに腰を下ろしてボーっとしていた。

 きっと学校が早終わりにでもなって暇なのだろう。部活動をするなり友達と遊びに行くなりすればいいのに、なんてお節介な考えが頭を巡る。

 そんな時、ふと彼女がこちらを見た。


「駅員さん? 私に何か?」


「……失礼、なんでも」


 無意識の内にしげしげと眺めてしまっていらしい。口下手な自分はカッと頬が熱くなり、咄嗟に制帽のつばを掴んで顔を隠す。

 高校生の女の子を見ている、なんて変態もいい所だろう。話がこじれる前にさっさと営業所に退散しよう、と思って踵を返したが。


「あ、待って待って。聞きたいことがあるんです」


 と、引き留められてしまった。

 お客様からそう言われて立ち去れるはずもなく、何かありましたか? なんてぎこちなく振り返る。

 すると、学生さんは困ったように眉を寄せていた。


「ここの列車って、いつもの夕方まで動かないんですか?」


「ええ。次の便は5時32分発です」


「あの子も?」


「あの子、というと――?」


「ほら、向こうで煙を出してる、えーと……キカンシャ?」


 奇妙な言い方をするものだと思いつつ、ピッと指さされた方を視線で追ってみれば、そこにはパシュンパシュンとコンプレッサーを動作させているタンク機関車の姿があった。


「あれも動かないんですか?」


「動きはしますが、すみません。あのカマが牽くのは貨物列車でして」


 今はまだ単機であるものの、まもなく本線から引き継いだ空の無蓋貨車をずらり引き連れ、山腹にあるヤードまで登っていこうかという所。

 むしろ貨物を牽く役割こそがこの鉄路本来の役目であり、客扱いをするのは半ばついでのようなものなのだ。


「でもなんとかなったりは――しない、ですよね」


 それでもなお、学生さんとしては諦められなかったらしい。端正な顔で眉をハの字に曲げていた。

 無論、自分になんとかできるものなら力になってあげたいが。


「申し訳ありません」


「あ、いえいえいえ、そんなそんな。私こそ無理を言ってごめんなさい。ありがとうございます」


 そうとしか言えない自分に対し、彼女は鏡合わせのようにスッと頭を下げる。

 何と言うか、随分と礼儀正しい子だ。それでは、と言って営業所へ逃げ帰る自分が見えなくなるまで、ベンチに座りなおそうとしなかったのだから。


「遅かったな。何かあったか?」


「いえ……」


 関さんは乗務を終えて営業所で涼んでいたらしい。ちょうど立ち上がったのは、煙草でも吸いに行くからだろう。

 相談してみようかとも思った。しかし、ただ1人の為に無理を通す訳に行かないことくらい自分もよく分かっている。

 そんな心理を読んでか、あるいは単なる偶然か。関さんは自分の机の前でふと立ち止まり。


「煙が足らんというのは俺の我儘だが、こりゃ暑そうだな。水気でもなきゃやってられん」


「スポドリでも買って来ましょうか」


「お前は気が利くのか利かんのかわからんなァ。こう暑いと炭酸が欲しくなるのが人情ってもんだろ」


「すみません。では、行ってきます」


「おう、悪いが頼むわ」


 癖のように制帽を被りなおし、関さんとはちょうど反対向きに営業所を出る。

 喫煙所の近くに自販機がないというのは、多くの先輩方が愚痴っていることだが、どうにも会社側には改善する気がないらしい。煙草を吸わない自分にとっては、どちらでもいい話でもあるのだが。

 大して珍しい物が売っているでもない自販機に札を流し込み、透明なサイダーを1本、ついでに自分の分も1本。

 最後に釣銭レバーを落とそうとして、ふと手が止まった。


 ――お節介、かもしれないが。


 シュワシュワとクマゼミが鳴いていた。昼間の太陽はむやみやたらに熱く、線路の上にまで陽炎を立ち上がらせている。

 本線との接続があるとはいえ、周りに大きな町もない閑散とした駅である。サービス設備の貧弱さは言うまでもない。

 柄じゃない、とは思うのだ。おかげで溜息も出るし、足だって間違いなく重くなる。

 けれど、自分の指は釣銭レバーから離れ、自販機のボタンをもう1度押していた。

 抱えたサイダーの内1本を関さんの机に置き、残り2本を手にホームへと戻る。自分の分も持っておいた方が遠慮しないで済むかという、あまりにも不器用極まる気遣いで。


「はー……あっついなぁ。早く学校が終わったら、逆に退屈だなんて思わなかった」


 そんな呟きが遠くから聞こえたのは、多分風向きのせいだろう。

 少し緊張しながらも、ならば多分間違いないとベンチの傍らに立った。


「どうぞ」


「……へっ!?」


 一瞬の間を置いて、少女はしゃっくりのような声を出す。

 驚くのも無理はない。いきなり見ず知らずのナッパ服男が、唐突にサイダーを差し出してくるのだから。


「えええ、わ、悪いですよそんな!」


「営業所の余りものです。気にしないでください」


 こんな下手糞な嘘を吐いてどうするのか。咄嗟に出た言葉に我ながら呆れかえる。

 ただ、学生さんは納得してくれたらしい。そういうことならと、恐る恐るといった感じでサイダーを受け取ってくれた。


「暑いでしょう。せめて待合室でもあればよかったんですが」


 わざとらしく、隣でサイダーを開ける。プシュウと小さな空気溜めがブローするような音が響いた。


「あはは、もしかして聞かれちゃいましたか? 恥ずかしいなぁ」


「自分も同じですよ。この所の夏は、日陰くらいではどうしようもありませんから」


「ですよね。けど、サイダーが冷たくて気持ちいいです」


 ナッパ服と比べれば、ずっと軽くて涼しそうな白いブラウス姿だったが、この暑さの前では最早大差がないらしい。

 自分が一口、ゴクリと喉を鳴らす隣で、彼女は汗をかくペットボトルを首に当てて、言葉通り気持ち良さげに、んー、なんて声を出す。

 少しでも気が紛れただろうか。一方的にそう考え、自分は制帽のつばをまた軽く押さえた。


「熱中症にお気を付けて。それでは」


「あっ、待って待って駅員さん!」


 そそくさと営業所へ戻ろうとした矢先、デジャヴのように引き止められる。

 これ以上、自分に出来ることなどないと思うが、と振り返れば、いつの間にか学生さんはベンチから立ち上がっていた。それも踵を揃えた綺麗な気をつけの姿勢で。


「私、柚月瑞穂ゆづきみずほって言います。お気遣い頂き、本当にありがとうございました。学校に行くのにこの駅を使っているので、えっと、また声をかけてくれたら嬉しいなって」


 どこかガラス越しのような声なのに、けれど明るく朗々と。

 学生という若さがそうさせるのか。眩しくすら見える礼儀正しさに、自分は少し唖然として、しかし覗き込むような彼女の視線に、慌てて背筋を伸ばした。


「第一鉱山鉄道、機関士の河本です」


「キカンシ? 駅員さんじゃないんですか?」


 馴染みの無い言葉だったらしい。キョトンとした顔が小さく傾く。


「運転士と言えば分かり良いかと。大体はあのカマを担当しています」


「あっ! あのオレンジの子! じゃあ、私が毎日乗ってる列車って、いつもあなたが運転を?」


 視線の先、留置線で静かに休んでいる古ぼけたディーゼル機関車を前に、柚月さんは目を丸くする。

 興味のない人間からすれば、機関車などどれも同じか、そもそも目に入らないだろうと思っていたので、少々意外な反応だった。


「全部ではありませんが、平日の旅客便は大概自分ですよ。といっても、お客様と関わることはほとんどありませんが」


「そうなんですか」


 柚月さんは余程退屈だったのか。離れた場所の機関車をまじまじと眺め、しかしふと、スカートを翻しながらくるりとこちらへ向き直る。

 少しだけ前屈みになったその顔には、何がおかしいのか、悪戯っぽい上目遣いな表情が浮かんでいた。


「なら、私は特別ですね? ふふふっ」


 特別とは何か。

 自分にはその言葉の意味が、イマイチ理解できなかった。

 しかし、ただ繰り返していた日常にほんの些細な変化が起こったのは、間違いなくこの時がきっかけだろう。

 それからというもの、彼女は毎日の朝夕、わざわざ自分に声をかけてくるようになったのだ。


「河本さん、おはようございます」


 人気の無くなった朝のホームで、彼女は必ず機関車が止まる位置に居て、自分が窓から顔を覗かせれば、小さく手を振ってくる。


「おはようございます」


「聞いてください、今日持久走なんです。苦手なんだよなぁ」


 あまりにも懐かしい響きと、心底嫌そうに眉を寄せる柚月さんの表情に苦笑が漏れた。


「自分も苦手でしたよ。まぁ体育は全般的にあまり好きでもありませんでしたが」


「えっ? 運動お得意そうなのに」


「ただ体がデカいだけですよ」


 意外だと目を丸くされるのも、自分としては珍しい話ではない。

 身体が大きかったのは子どもの頃からであり、故に柔道だのラグビーだの重量挙げだのに良く誘われた。しかし、どうにもこの身体はスポーツという奴に馴染まぬ木偶の坊であり、今では不器用でデカい奴以外の何物でもないのだが。

 そんなとりとめもない話をしていれば、同期である駅務員がピィと笛を吹く。いわばこれが、雑談終わりの合図でもあった。

 また日が過ぎて秋の頃。


「ただいま帰りました」


 麓の駅でホームを掃除していれば、いつもよりずっと早い時間に彼女は現れた。

 といっても、帰りました、なんて挨拶されるくらいだ。前と違ってその理由は大体把握している。


「お帰りなさい。試験はどうでしたか?」


「結構頑張れた感じです。あでも、英語は微妙かも……えへへ」


 柚月さんはそう言って照れ臭そうに笑う。

 高校の勉強など自分はとんと覚えていないが、それでも彼女なら心配することなどないだろう。

 別に学力を知っている訳ではない。ただ、何度も目にした光景がある。


「きっと大丈夫ですよ。随分熱心に暗記をされていたようですし」


 帽子を深く被りなおしながらそう言えば、ぱちくり、と大きな目が瞬く。

 それから程なく、もぉ、と頬がフグのように膨らんだ。


「見ていたんなら、声かけてくれてもいいじゃないですか」


「これでも仕事中ですから。では乗務があるので」


「あっ、ズルい! 今度から言ってくださいよ!」


 聞こえないふりをしつつ、すたこらと逃げるように営業所へ戻る。

 乗務があるのは嘘ではなかったものの、貨物列車の出発までにはまだまだ時間があった。

 こんな日々が当たり前となるのに、そう時間はかからなかった。何せ、大人になれば時の流れは比例的して早くなるもの。

 気が付けば辺りに雪が舞い、鼻先を真っ赤にしながらも、コートはお洒落の為に着たくないという不思議な感覚を教えられ、桜の舞う頃には今年から美術部でも後輩ができたとに励む様子を見、青葉の匂いが漂う時期にはまた英語ォと唸っている姿を見せられもした。

 青春とは、こうも毎日大きくうねる波のような物なのか。輝く日常を送る彼女の浮いたり沈んだりする話を、自分は変わらぬ鉄路の上で聞いていた。

 そうして訪れた夏休み直前のある日。

 天気予報は大気の状態が不安定だといい、実際朝から本降りの雨が降っていた。

 季節的には良くある話で、線路が濡れようと列車が止まるようなこともない。朝から柚月さんも普通に通学しており、ただただ足元が悪いことを気に留めておく程度のこと。

 だと思っていたのだが。


 ――吹き振りになってきたな。


 貨物を入れ替えながら、自分は窓に打ち付ける雨を睨む。

 ワイパーを全力で回してもなお、狭まった視界が開けない程の雨量と強まってきた風は、山間を進む鉄路にじわりと不安を募らせる。

 得てしてそういう不安は当たるものだ。夕方になっても、雨は止むどころか一層強くなり、パソコンで確認した天気レーダーの示す雲は黄赤紫と連なっている。

 線状降水帯という奴だろうか。災害にならねばいいがと思っていた矢先、受話器を置いた所長が深く深くため息を吐いた。


「今日は運転休止ウヤだ。鉱山側も洞に入ってる者は全員、宿泊対応とするらしい」


「山籠もりは一昨年以来ですか。鉱員の連中も可哀そうに」


 苦笑いする関さんと、後処理の手間を思ってげんなりする所長。

 そんな2人を横目に、隣のホームへ本線の旅客列車が滑り込んでくる。

 定刻より10分遅れの上り列車。洗うような雨に打たれる気動車がドアを開ければ、ホームに降りた僅かばかりの人影に、見慣れた学生服の少女を見つけた。


「少し外します」


「おう」


 関さんに短くそう言い残し、自分は大股に営業所を出た。

 ドアを潜れば、ザァとなる雨の音は一層強く激しくなる。バケツをひっくり返したような雨は屋根の下へも吹き込んで、ホームの半分以上は色を変えてしまっていた。

 そんな中、傘を手に跨線橋の階段を下りてくる人影が1つ。


「あっ、河本さん。ただいま帰りました。凄い雨ですね」


「お帰りなさい。その雨の事でなのですが」


「はい?」


「先ほど、本日の列車運行が全便において、運休となることが決まりました」


 制帽のつばを押さえつつ、事実だけを淡々と告げれば、柚月さんは理解が及ばなかったらしい。

 暫く目を点にしていたかと思えば、珍しく素っ頓狂な声を上げた。


「ウンキュウ――って、ええっ!? 列車、動かないんですか!?」


「申し訳ありません」


 最敬礼の角度で腰を折る。半ば癖のようなものだが、明らかに彼女は狼狽えていた。


「えっと、じゃあ、他の交通手段とか?」


東平あずまだいらまでなら道が通っているので、タクシーで上がれるかもしれませんが、その先は難しいかと」


 昔は未舗装の林道が、鉄道線を大きく迂回するような恰好で鉱山口駅まで続いていた。

 しかし、鉱石や資材輸送の全てを鉄道が担っていて必要性が薄いとなれば、必然的に整備状況は悪く落石や倒木があちこちにみられるため、こんな雨の中ではとても通れる道ではない。

 それは柚月さんとて理解していたらしく、困り顔のままスクールバッグの中をゴソゴソと漁った。


「ちょっとお婆ちゃ――祖母に電話してみます」


 少しだけ距離を取ってスマートフォンを耳に当てた彼女は、うんうんと頷きながら話し始める。


「うん、そう。雨のせいで汽車が運休だって。うん。えっ? そんな、簡単に言わないでよ。えっ、えー……」


 途切れ途切れに聞こえてくる会話内容には、なんだか嫌な予感が募った。

 否、最早山の上へ向かう手立ては残されていないので、良い方向に話が進むはずもないのだが。


「……すみません河本さん、歩いていける範囲に、安くで泊まれる場所ってありませんか?」


 通話を切った柚月さんは、何故だか酷く申し訳なさそうな様子で、小さく指を擦り合わせる。


「駅からとなると、旅館とビジネスホテルがそれぞれ1件ずつ、でしょうか」


「そこって、お昼ご飯代くらいで泊まれます?」


「流石に難しいかと」


「ですよね。カラオケも夜は学生入れないし……うーん」


 どうやらお金を持っていないことを気にして、小さくなっていたらしい。

 これがもっと都会の駅であれば、カプセルホテルやネットカフェと言った安宿を紹介できたのかもしれないが、如何せん山が背後に迫るようなド田舎である。

 とはいえ、困った学生さんを、お金がないならどうしようもありませんねサヨウナラ、なんて見捨てられるはずもなく、自分はガリガリと後ろ頭を掻いた。


「少し待っていてください」


 その場で回れ右をし営業所へ。

 本社ビルとは名ばかりのボロ小屋ではあるが、一応にも鉄道会社の社屋。子ども1人の寝床くらいなんとかできるのでは、という安易な考えだった。


「という事情なのですが、宿直室を使わせてはあげられないでしょうか」


 一切を説明し終えれば、所長はうーむと唸りながらバーコードのような頭をぺちぺちと叩く。


「人情としては応と言ってやりたいがね。宿直対応の連中と一緒の大部屋で、女子高生さんを寝かすってのは流石に不味いだろ」


 自分が営業所を離れている内に、保線班には豪雨による災害に備えた宿直が設定されたらしい。

 そもそもうちの会社には、ベテランの事務員さんを除いて女性は全く居らず、一晩とはいえ柚月さんの寝床とするにはあまりに不向きでもある。

 これは万策尽きたかと、自分は所長に深く腰を折った。


「そうですか。いえ、無理を言って申し訳ありません」


 どうすることもできそうにありません。柚月さんにそう伝えるため、再びの回れ右。


「何シケたことを言ってんだ」


「関さん?」


 振り向いた先に立っていたのは、心底呆れかえった様子の老機関士である。

 入社したての頃は、よくお前なァとこの顔で叱られたものだが、最近はとんと見ていなかった。少なくともそれくらい、自分も努力はしたし仕事も覚えたということだと思っていたのだが、今日は全く別の話。

 枯れ枝のような指に、とんと胸を指される。


「放っておけねえってんなら、お前が面倒見てやりゃあいいだろう。一晩の飯だの宿だのくらい、どうってこともあるまい」


「そちらの方が、問題にならんでしょうか」


「問題にならんようにやるのが大人だ。それに、あの子なら大丈夫だろう。お前さんにもよく懐いてるしな」


 それとも、何もなしで放り出す気か。細い関さんの目には、有無を言わさぬ迫力があった。

 否、きっと自分自身に負い目があったからだろう。できないという言葉は、あまりにも簡単すぎるから。


「……ご家族の方に伺ってみます」


 自分がそう告げれば、関さんは小さく頷きながら道を開けてくれた。

 さっきよりもなお大股で柚月さんの下へ戻り、再度ご家族へ繋いでもらう。


「柚月瑞穂さんのご家族の方でしょうか。自分は第一鉱山鉄道で機関士をしております、河本と申します。はい、ええ……」


 スマートフォンから聞こえてくる、しわがれた優しい声。

 最初、驚かれはしたものの、河本と名乗った途端に雰囲気が変わった気がした。

 通話時間は5分もかからなかったように思う。自分がスマートフォンを耳から離せば、興味深げに柚月さんが顔を覗き込んでくる。


「祖母は、なんて?」


「よろしくお願いします、と……」


 まさか二言返事とは思わなかった。他に身の安全を確保できる手段がないからかもしれないが、それにしても見ず知らずの男であろうに、孫娘を任せるなどと。

 しかし、信頼頂けた以上応えねばならない。気を引き締めようと、癖のように制帽を被りなおせば、隣で黒髪がぺこりと下がったのが見えた。


「すみません、ご迷惑をかけてしまって」


「お気になさらず。柚月さんのせいではありませんから」


「ありがとうございます。えと、じゃあとりあえず、私、お仕事が終わるまで待ってますね」


 ちらと駅構内の時計を見れば、終業まではまだ暫く時間がある。

 彼女も何となく、それを理解した上で待つと言ってくれたのだろう。では、と短く残して営業所に戻ろうとすれば。


「河本、お前もう上がれ」


「はい?」


 いつの間に近付いてきていたのか。気配なく現れた関さんに、ポンと肩を叩かれる。


「どうせこの雨じゃなんにもできん。所長には俺から言っといた」


「い、いえしかし――」


「これも仕事だ。お嬢ちゃんの面倒、しっかり見てやれよ」


 ニヤリとした笑みを残し、老機関士はくたびれたナッパ服を揺らしながら機関庫へと歩いていく。

 関さんにそう言われた以上、最早自分には選択の余地など残されてはいない。言葉に押されるまま制服を着替え、駐車場から駅前に車を回して、傘をさす少女のためにドアを開けた。


「どうぞ」


「よいしょ……っと、すみません。お世話になります」


 遠慮気味に乗り込んできた柚月さんが、シートベルトを締めたことを確認し、普段より優しめにアクセルを踏み込む。

 彼女は最初こそ少し緊張していた様子だったが、出発してしまえば何のことはない。いつもと変わらぬ様子で口を開いた。


「不謹慎かもしれませんが、なんだか嵐の日って、ちょっとだけわくわくしませんか?」


「子どもの頃は、自分もそう感じていました。不思議なものです」


「どうしてでしょうね?」


「危機感からかもしれませんよ」


「成程。それはあるかも?」


 晴れていれば夕暮れ時だろうか。バラバラと強く振る雨に遮られ、薄暗い世界は更に深い黒に染まり、代わりに街灯がぼんやりした光を放ち始める。


「けどそれ以上に、運転する河本さんの隣に座ってるの。ちょっと新鮮です」


 機関車と客車のことを指してか、いつもは離れているのが普通だから、と彼女はどこか楽しそうに微笑む。

 嵐の中で高揚しているというのも、嘘ではないらしい。


「自分も、誰かを乗せるのは久しぶりですね」


「お友達と一緒に遊んだりされないんですか?」


「最近はからっきしです。元々交友関係が広い方ではありませんし、今はこれと言った趣味もないので」


 仕事をするようになってから、古い付き合いの友人たちとは疎遠になっている。そもそもの話、この辺りが地元と言う訳でもないので、無理なからぬことではあるのだが。

 1人で居ることを苦とも思わぬ身としては、時たま送られてくるメッセージなどで会話ができればそれで十分。どこかの機会でまた会えれば万歳だ。

 そう思っての言葉を、柚月さんはどう受け止めたのか。ふぅんと興味深げに鼻を鳴らしたかと思えば、隣から流し目を向けてきた。


「じゃあ、恋人さんとかは?」


「ずっと独り身ですよ。今の生活では、女性と関わる機会さえほとんどありませんから」


「……もしかして私、女の子だって思われてなかったりします?」


 流し目がスッと細くなる。

 何が不服だったのかは分からないが、それにしても不思議なことを言うものだ。


「いえ、普通に女子高生さんでは?」


「どうせ子どもですよー」


「すみません。そんな風には思っていた訳ではないのですが」


 ぷぅと頬を膨らませた彼女に、自分はボリボリと後ろ頭を掻く。

 こういう時、何と言えばいいのだろう。元々が口下手な自分では、いい言葉が出てこなくて困る。

 が、何らかの解決策が浮かぶより先に、膨れた頬から小さく息が零れだした。


「ふふふっ、ごめんなさい。河本さん面白いから、つい意地悪したくなっちゃって」


「勘弁してください」


 赤信号に止まりながら、降参降参と小さく首を振れば、また彼女はクスクス笑っていた。

 面白い。そんな風に言われたことは、今までになかったかもしれない。むしろ自分を指す言葉と言えば、いつも不機嫌そうで何を考えているのかわからない、という感じだった。おかげで少し、腹の中に妙な気分が渦を巻いた気がした。


「でもそれだと、河本さんは独り暮らしなんですか?」


「ええ。社会人になってからはずっとですね」


「なら、わざわざお宿取らなくても、泊めてくれればよかったのに」


 ムッと唇に力が籠る。

 この娘さんは、一体何を言っているのか。


「それは……アウトでしょう。色々と」


「私は全然大丈夫ですけど」


「そういう問題じゃありません」


「じゃあ、もしかして私の事、お嫌いですか?」


 小さく前屈みになりながら、眉を曲げた上目遣いに射抜かれる。

 これが初めての雰囲気であれば、自分はまた大いに狼狽えねばならなかっただろう。だが、如何せんさっきの今である。


「……またからかってますね」


「バレましたか」


「当たり前でしょう。二度同じ手は食いません」


 基本的には真面目で優等生な雰囲気を持つ彼女だが、これまで重ねてきた日々の会話からも察せる通り、どうにも悪戯好きな面もあるらしい。

 それも愛嬌ではある。が、自分で遊ぶのは勘弁願いたい。心臓に悪い。


「……別に嘘は言ってないんだけどな」


 パワーウィンドウへ向けられた呟きが、エアコンの音に混じって小さく聞こえた気がした。

 きっと空耳だろう。

 見えてきたビジネスホテルの看板に、入口の前で車を止めた時には、雨は一旦小康状態に落ち着いていた。


「夕ご飯まで奢って頂いてありがとうございました。お金はまた今度、必ずお返ししますから」


「お気になさらず。天気予報を見る限り、明日の列車は動くと思いますので、朝の便に間に合うよう駅にお越しください」


「河本さんが運転?」


 彼女の癖なのか。前かがみになりながら、一歩こちらへ近付いて、上目遣いに顔を覗き込んでくる。

 そんなことをしなくとも、自分は身体がデカイので、否応なしに見上げることにはなるのだが。


「いえ、明日は非番ですので、次にお会いできるのは週明けかと」


「そっか……じゃあ、また来週ですね。おやすみなさい」


「はい、おやすみなさい」


 まるで名残惜しそうに言う柚月さんに、何故だが少し照れくさくなって、制帽のつばに手を伸ばし、今が私服であることを思い出す。

 変な癖があるのは、お互い様らしい。

 結局その日、自分が寝床にこもる頃に雨は上がり、翌朝には列車の運行も正常に再開した。

 しかし、この日を境にだろうか。柚月さんが今までより、尚更よく声をかけてくるようになったのは。


「河本さん、おはようございます」


「おはようございます。はて、まだ夏休みでは?」


「そうなんですけど、今日なら平日だから会えるかと思って。これ、よければどうぞ」


 そう言って差し出されたのは、手のひら程の大きさの透明な包み。


「これは……クッキー?」


「この間のお礼です。手作りですよ手作り。と言っても、あんまりお料理は得意じゃないので、ちょっと不格好かもしれませんけど」


 クッキー、焼き菓子、手作り。

 手作り、クッキー、焼き菓子、透明包装。


「あの、河本さん……? 何か気になることでも?」


「ハッ! い、いえいえ、とんでもない! わざわざありがとうございます。大事にいただきます」


 意識を遠い宇宙から引き戻す。

 生まれてこの方、親族を除く異性から手作りアイテムなど貰った記憶がない。

 おかげで石像のように固まってしまったのが、柚月さんはおかしかったのだろう。クスクスと笑われてしまった。


「はい。よければ味の感想、聞かせてくださいね。じゃあまた今度」


 ロングスカートを翻し改札の方へ去っていく背中を、自分があまりにぼんやりと眺めていたからだろう。同期の駅務員に背中を派手に叩かれた。

 この他にも。


「河本さん、これ文化祭の試作品なんですけど、如何でしょう?」


「如何と仰られましても……自分はコスプレなど疎いので」


 と、何故かメイド服を着た写真を見せてくれたり。


「良ければ、年越しの行事とかご一緒に――えっ!? 年の瀬もお仕事なんですか!?」


「毎年の事ですよ。とはいえ、いつもとはダイヤが違うので、お乗り遅れのないようお気を付けください」


 と、驚かれたり。

 極めつけには。


「昨日、クラスの男の子に告白されたんです」


「それはそれは、おめでとうございます」


 おお、と何故か少し感動する。いわゆるコイバナという奴を聞くのは、果たしていつぶりだろうか。そう考えると、我ながらなんと華のない暮らしをしているのかとも思うが。

 とはいえ、柚月さんは自分と違って人当たりは優しく礼儀正しく、それでいて愛嬌もある娘さんだ。それも絶賛青春真っ只中とくれば、浮いた話が1つ2つとあったところで何の不思議もない。

 しかし、当の本人は何処か恨めしそうな目をしながら、深い深いため息をホームに向かって投げつけた。


「おめでたくないですよー。あんまりお話したこともないので、別に嫌いとかじゃないんですが、その」


 嫌いでないのなら好き、とはならないのが人間の相性であることは、流石に自分とて理解はしている。少なくとも柚月さんに告白した見ず知らずの少年は、彼女のラブという範囲に含まれなかったのだろう。

 と、思った矢先。


「私、落ち着きのない人ってどうしても苦手で。それも押しが強いから、ついついお返事を保留にしてしまったんですが」


「おうふ」


 どうやら、ラブ云々以前の話だったらしい。恋とはそういう物かもしれないが。


「こういうの、やんわりお断りする方法ってないですか?」


「それを自分に聞きますか」


「他に相談できるような大人の人が居ないんですよぅ。ほらたとえば、私が同じクラスメイトだとして河本さんに告白したら……困りません?」


 不適材不適所な上、また珍妙な質問が傾げられた首から飛んでくる。

 7つか8つかは歳の離れた自分と柚月さんが、どうすれば同じクラスメイトだなんて思えるのか。

 馬鹿げた妄想であることは分かっている。にもかかわらず、胸の奥に奇妙な感覚が渦巻くのはどうしてだろう。


「困る……自分が……?」


 あり得ない話。起こりえない時間。あくまで仮定。

 なのに、自分は。


「河本さん?」


 下から覗き込んでくる不思議そうな顔に、ハッとして制帽のつばを掴む。


「失礼、時間ですので仕事に戻ります」


「あっ、逃げたー!」


 これほど的確な言葉はなかっただろう。運動した訳でもないのに、妙に呼吸が苦しくなったのだから。

 後日聞いた話では、結局素直にお断りしたらしい。スッキリした顔で報告をしてくれた。

 多少の波はあれども、結局日常は変わらない。自分は季節以外に変化のない駅構内で受け続け、同時に彼女を山の上から下へ、また下から上へと運び続ける日々。

 しかし、柚月さんの居る景色が、当たり前のものとなって久しい冬の日のこと。

 肩を回しながら運転席を降りれば、マフラーをグルグルに巻いた柚月さんが、いつも通りの綺麗な姿勢で待っていた。


「ご乗車ありがとうございました」


「河本さんも、お疲れ様です」


 短い挨拶で会話が途切れる。

 いつもなら、彼女が何かしらの話題を振ってくるものだが。

 しかし、急いで帰るのかと思いきや、柚月さんは動こうともせず、ただジッと機関車を眺めているのみ。


「何か?」


「……思えば、随分長い間、こうしてるんだなって」


 粉雪のちらつく中、静まり返った駅にはガラガラゴロゴロとエンジン音が大きく響く。


「今日はセンチメンタルな感じですかね」


「青春っぽいですか?」


「かもしれませんが、自分にはなんとも」


「でも、もうすぐ終わっちゃいます」


 短くそう言った彼女の横顔を眺める。

 日没の早い時期。古ぼけた駅舎では、早くも黄ばんだ蛍光灯がじわりと明かりを灯していた。


「進路、決まられたんですか?」


「はい、おかげさまで。流石にここからは通えそうにありませんけど」


 どこの大学かを、柚月さんは敢えて口にしなかった。通えそうにない、その一言だけで十分だったとも言える。


「おめでとうございます」


「ふふ、ありがとうございます。なんですが、どうしてでしょうね。嬉しいはずなのに、何だか駅に降りたら寂しくって」


「名残惜しいですか。高校生活は」


「そうですね。ただ、思っていた感じとはちょっと違ったかも」


 深く制帽を被りなおした自分に、彼女はまた遠い目を見せた。


「私って結構寂しがり屋だから、忙しい両親の代わりに祖母と暮らすってなった時、中学の友達に相談したんです。そうしたら、恋人とかいたら寂しくならないでしょ? って言われて、ああそうか、高校生だもんね、って思ってたんです」


 今日に至って初めて、自分は柚月さんが突然鉱山口駅に現れた理由を知った。

 1人で生まれ故郷に戻ってきたお婆さん。それが本人の我儘であれ、ご子息は放っておけなかったのだろう。快諾したのか、あるいは渋々か。どちらにせよ、彼女は祖母の下で高校生活を送ることを選んだ。

 それからの日々を振り返ってか、少女は少し大人びた顔で笑う。


「だけど結局、今日まで誰とも付き合ったりしなかったなー」


「気になるお相手くらい、いらっしゃったのでは?」


「うーん……居なくはない、かな。けど、ちょっと遠い感じで」


「自分には眩しい話ですが、とはいえ、ままならないものですね」


 玉砕した名も知らぬ少年然り、思いの丈を伝えるにも至らなかった彼女然り。

 恋模様というのは甘くも酸っぱくも、青春を彩るものなのだろう。


「河本さんは、寂しくないですか? 私が居なくなっちゃうの」


 直立不動を貫く自分の前へ回り込んだ柚月さんは、癖のように小さく前屈みの姿勢を取ると、じっとこちらを見つめてくる。

 何度見ただろうか。この姿を。


「私は、楽しかったですよ? 毎日ほんの短い時間、こうしてお話するの。とっても特別な、大好きな時間で」


「……自分、は」


 言葉が喉につっかえた。

 その続きは何だ。彼女に何を伝えようとしている。そも、伝えたいと思っている事柄なのか。

 分からない。あるいは分からないふりをしているのかも。


「ふふふっ、なーんて。ドキッとしました?」


 目の前で、悪戯っぽい笑顔がそこにあった。

 いわおのように黙り込んだ自分が、よほどおかしかったのだろう。口元に手を添えながら、柚月さんはクスクスと笑っている。


「からかわんで下さい」


「ごめんなさい。反応が面白くって、つい」


 トトン、とステップを踏むような足取りで、彼女は体を翻す。


「ではでは、また明日、です。寒いですから、風邪をひかないでくださいね」


 人気のない改札を抜けていくその背を、自分はどうしてか、ずっと目で追っていた。

 妖艶とは流石に違う。ともすれば、小悪魔的とはああいう雰囲気を指す言葉かもしれない。そんな感想を抱きながら。

 しかし、自分が何を考えたとて、時の流れが変わることはない。冬はあっという間に底を打ち、空気がゆっくりと暖かくなり始めれば、彼女は胸元に花を咲かせてやってきた。


「ご卒業、おめでとうございます」


「ありがとうございます。なんだか、あっという間の高校生活でした。女子高生もお終いかぁ」


 ホームの脇に立つ桜を見上げながら、彼女は感慨深そうに髪を撫でる。

 蕾はまだ固く、咲くにはあと半月以上かかるだろう。その代わりを務めるように、隣ではコブシが白い花弁を風に揺らしていた。


「泣かれましたか?」


「それがぜーんぜん。なんででしょう? 私ってもしかして、かなりドライなのかな?」


 馴染んだスクールバッグをくるりと回しながら、柚月さんはおどけたように笑う。周りの子たちは一杯泣いていたのに不思議だと。


「自分も泣くことはありませんでしたよ。多少の感傷は覚えましたが」


「あら。意外と似た者同士、なのかもですね」


 そんな馬鹿な、と肩を竦める。きっと冗談だったのだろう。

 わざとらしく、パチリと懐中時計を開く。


「そろそろ時間です。ご乗車を」


「はい。帰り道もお願いします」


 似合わない敬礼を残し、彼女は客車に乗り込んでいく。

 後は自分のやるべき仕事だ。白い手袋を嵌めなおし、エンジン音を響かせる機関車に乗り込んで、笛の音を待つ。

 それは程なく、ピィと卒業の空へ響き渡った。


「出発進行」


 ノッチを入れる。1段2段。

 自分より年上であろう機関車は、咆哮のような声を上げ、汽笛も高らかに麓の駅を離れていく。

 いつもと変わらぬ道。誰に見られることもなく、誰と話すでもない寡黙な鉄路。

 緩やかな勾配を駆け上がり、3つ4つと橋梁を越えて、誰も乗らない小さな無人駅に1つずつ止まりながら。


「制限20、場内進行」


 川沿いに掘られたトンネルを抜け、列車は転轍機てんてつきにスキール音を響かせる。

 近付いてくる停止位置目標。合わせてじわりとブレーキを操作し、重々しい鉄の箱はじわりとその歩みを止めた。

 静かに息を吐く。鉄路は今日も何事もなし。

 ではあるが、と運転席の後ろへ視線を回す。


「ご乗車ありがとうございました」


「ありがとうございました。あーあ、終わっちゃったなぁ」


 大きく伸びをする彼女に、自分はいつもの運転鞄を持たず1歩前へ。


「柚月さん。これを」


 手の中で花の香が舞った。

 花屋の店員さんに曰く、スプレーバラだとかスイートピーだとか。自分にはよくわからないが、ともかく綺麗なものをと選んだ些細な花束。

 大きな自分の手に似合わないそれを、静かに柚月さんへと差し出した。


「改めて、ご卒業おめでとうございます。高校生としての3年間に渡り、第一鉱山鉄道をご利用頂き、ありがとうございました」


 営業的かもしれないとは思った。けれど、これ程飾らない自分らしい言葉もない。

 細い手指がおそるおそると花束を掴む。きっと笑ってくれるだろうと。

 なのにどうしてか、花束を包むラッピングに、ぽたりと大きな水滴が落ちた。


「あれ……お、おかしいな。なんでだろ。卒業式じゃ全然だったのに、私……」


「ゆ、柚月さん?」


 ぽろぽろと頬を伝っていく涙。どれだけ彼女が袖で拭っても、まるで堤防が切れたかのように、ひたすら流れて止まらない。


「ごめん、なさい……ホントに終わっちゃったんだって……終わってほしくないのが、こんなにも寂しいんだって……ッ!」


 いつの間にか、柚月さんは泣きじゃくっていた。顔もくしゃくしゃになりながら、小さな花束を握りしめて。

 寂しがり屋だと言っていた冬の事を思い出す。それが溢れてきたのだろうか。誰に、何に対してか。

 なんと声をかけていいかも分からない自分は、ただ立ちすくむばかり。ただ、徐々に彼女は落ち着いてきたのだろう。小さく鼻をすすり、赤らんだ目じりを拭って、ふぅと息を吐いた。


「私、河本さんのことが好きでした。いつもここに居てくれる、河本さんが」


 あまりにも突然すぎる真っすぐな告白に、ぐっと喉が詰まる。

 好きでした? とは何か。河本さん、とは誰か。

 疑う余地など残されていない。何の飾り気もない、だからこそ透き通ったような言葉。


「それは――」


「ごめんなさい。急にこんなこと言われても困りますよね……けど、今しか直接伝えられないって思ったら、堪えられなくて、言っちゃいました」


 自嘲するように彼女は眉を曲げて笑う。

 違う、そうじゃない。困るなんてことは。だが。

 どう答えていいか分からなかった。自分の中で整理のつかない想いが、長年動かないまま錆びついていた感情が、無理な力にギギギと軋みを上げるように。


「自分は、その……」


「河本、そろそろ」


 同期の駅員にポンと肩を叩かれる。

 気のいいこいつのことだ。ギリギリまで無視していてくれたのだろう。

 だが、鉄道は時間通りに動かねばならず、その準備を整えるのも自分の役目。


「――分かった。すみません柚月さん、自分は仕事に戻らないと」


「河本さん」


 深く制帽を被りなおし、相棒であるディーゼル機関車へ向き直った背に、鼻声が投げかけられる。

 振り返るべきか。振り返っていいのだろうか。

 手摺を掴んだまま固まった自分に、彼女は優しい声で告げた。


「お返事、待っています、ね」


 トン、と軽い足音を残し、柚月さんの気配は春風のように消えていく。

 自分は何も言えなかった。それが正しいことなのかもわからないまま、座り慣れた運転席に腰を下ろす。

 高校生の恋なんて、気の迷いみたいなもの。若い頃には背伸びをして、大人な相手に憧れるもの。

 月並みな話だ。真っ当な大人ならば、彼女の幸福を願いきちんと断って然るべき。


 ――だが、自分は。


 甲高い汽笛が山の中へこだました。



 ■



 桜が咲いていた。卒業式の時には、まだまだ蕾も固そうだったのに。

 お婆ちゃんに見送られて家を出る。お父さんやお母さんが思っているよりも、お婆ちゃんはずっと健康で元気だったけれど、やっぱりこの不便な山の中に1人で暮らすのは心配だから、もう少ししたら両親が交代で様子を見に来ると言っていた。

 明日から、私はこの家に居ない。大学へ通うのに、この場所は遠すぎるから、今度は初めての一人暮らし。

 きっと寂しいんだろうな、なんて思いながら、落ち葉に覆われたボロボロの道を歩いて暫く。安全第一と大きく書かれたコンクリートの大きな建物と、ゴロゴロと音を立てるベルトコンベアの塔が見えてくる。

 今思えば、これもきっと特別な景色。大学の回りではきっと見られないし、知ってる人も少ないかも。

 関わることなんてなかったけれど、何となくそれを目に焼き付けながら歩けば、今度は何度も足を運んだ建物が前に現れた。

 古ぼけた木造の駅舎に、1本しかない大きなホーム。それなのに前に沢山の線路が並んでいて、奥では小さな蒸気機関車が貨車をどこかへ押し込んでいる。

 人なんてほとんどいないのに、不思議と活気のある変な駅。


 ――最後のはずなのに、なんだか久しぶりだなぁ。


 卒業式の日から今日まで、何度か列車は利用したけれど、河本さんには会えていない。というのも、休日にしか出かける機会がなかったから。

 そういう建前で、本当は少し怖かったのかもしれない。それも今日は別だ。

 久しぶりに切符を買って改札を抜ける。すると間もなく、紺色の制服に身を包んだ人影を見つけた。


「おはようございます、あれ?」


「はい、おはようございます」


 少しお酒に焼けた声で頭を下げてくれたのは、細身で小柄な老機関士。


「関さん? 珍しいですね、河本さんは?」


 前に聞いた話だと、いつもは蒸気機関車で貨物列車を牽いているはず。実際、鉱山口駅の中に居るのを見ることは滅多になかった。

 少し失礼な言い方になってしまった気もしたが、関さんは気にした様子もなく、やれやれと言った具合に肩を竦めた。


「有休って奴さ。野郎にしちゃ珍しい」


「そう、ですか」


 ガッカリしたような、一方でホッとしたような。

 約束していた訳じゃない。ただ一方的に、平日ならいつもそこに居ると思っていただけ。

 私の恋、高校生としての3年間で、ただ1人好きになった人とのお話は。


「……これが最後かぁ」


 ホームに止まった列車を見上げる。

 3年間ずっと眺めてきた、運転席だけが少し上に出っ張っている橙色の機関車。

 カラコロと鳴るエンジンの音を聞きながら、開け放たれた客車のドアを潜り、相変わらず全く人気のないボックスシートに腰を下ろした。


 ――子どもの叶わない恋だったとしても、せめて最後は河本さんの列車に乗りたかったな、なんて。


 我ながら、なんと勝手なことだろうと笑いが零れる。

 堪えきれなくて告白しておきながら、答えを聞くのが怖くて今日まで逃げて、その癖最後に会いたいだなんて我儘。

 もう忘れてしまおう。忘れないとダメなんだ。そう言い聞かせながら、直角の座席に体重を預けて目を閉じ。


「ご入学、おめでとうございます」


 低い声が鼓膜を揺らした気がした。

 空耳、あるいはもう夢の中、だったりして。


「へっ!?」


 弾かれたように立ち上がる。おかげで膝の上に乗せていた鞄が、ゴトンと音を立てて床に落ちてしまった。

 しかし、そんなこと今はどうだっていい。

 ボックスシートを覗き込むように立っていたのは、ナッパ服を着て制帽を目深に被った大柄な男性。特徴的な細い目と角張った顔に、どうしてか優し気な笑みを貼り付けて。


「こ、河本さん!? あれ!? さっき関さんが有休だ、って……?」


「それですか。わざわざ添乗してくるから何事かと思えば」


 私がぱちくりと目を瞬かせれば、彼は深くため息を吐く。

 意外や意外、関さんもまた結構悪戯好きらしい。あの人は、と河本さんは毒づいていたが、それも束の間。コホンと小さく咳ばらいをして、私の方へと向き直った。


「正直、最初は悩みました。柚月さんと落ち着いて話をするなら、休みを取ってご自宅に伺うなりしたほうがいいのではと。しかし、仕事が詰まっていたおかげでそれも叶わず、かといって電話というのも違う気がしてですね。あー、失礼。つまり、その、言いにくいのですが」


 大きな手が、制帽のつばにかかる。照れた時や言葉に困った時にする、河本さんの癖。

 ただ、今日は少し違っていたらしい。彼はそのまま帽子を取ると、頬を掻きながら少年のように笑った。


「恥ずかしながら自分も、柚月さんとの短い時間が楽しかった。好きだったんです。誰かに告白されて断った、と聞いた時に、内心ホッとしてしまうくらいには」


「断った……? あっ! あの時の! えっ、ええ!?」


 一気に顔が熱くなる。

 今年の冬だ。あの時には少しだけでも意識してくれていたということなのかと。

 正直、私は高校生だし未成年だし、そういうのは大人としても色々あるだろうか、全然相手にされてないと思っていたのに。逆にだからこそ悪戯をしている風に、ちょっと困らせるような意地悪なことも言えたのに。

 頭がふわふわする。それなのに真っすぐな彼の視線から目を逸らせないでいると、河本さんは白い手袋に包まれた手を胸に当て、まるでお客さんにするような恰好で軽く腰を折った。


「改めて、こんな自分で良いのならば、今日まで返事を待たせた分、今度は自分も柚月さんのお帰りを待たせてください。自分は、いつもと同じ時間に、いつもと同じ場所に居りますから」


 決して上手ではない言葉。けれどそこから溢れる、嬉しいとか、暖かいとか、そういうポジティブな感情がごちゃ混ぜで、波のように押し寄せてきた感じ。

 その癖、目尻が燃えるように熱く、鼻の奥がツンと詰まるのだから、色々言いたいのに何も言えなくて。


「はい……はい……っ!」


 と、鼻の詰まった返事をしながら、また目を拭うしかできない自分が悔しい。


「おぅい、そろそろ準備しろよ」


「了解しました。すみませんが時間で――っとぉ!?」


 関さんの声に、彼はすぐさま制帽を被りなおし、いつもの顔に戻る。

 それがなんだかズルく思えて、もうなんだっていいやと、私は勢いよく彼の胸に飛び込んだ。


「お休みには必ず帰ってきます。電話もします。だから、今度からは、瑞穂って呼んでくださいね」


 大きく胸が動いたのがわかる。河本さんの鼓動が聞こえる。


「……はい。お待ちしています、瑞穂さん」


 背中に添えられた大きな手。それが暖かくて、優しくて。

 出発のベルが鳴る。


「戸閉めヨーシ!」


 唸るようなエンジンの音。山に木霊する甲高い汽笛の声。

 3年通い続けた特別な通学路に、私はちゃんと帰って来よう。一人暮らしをするんだから、呼び出したっていいかもしれないけれど、それはそれ。

 ここは私の大切な場所になったから。


「出発進行」


 聞こえない彼の声。けれど、きっと信号を指さしているに違いない。

 そんな不思議な距離感が、私と彼を繋いでくれている。

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学生服とナッパ服 竹氏 @mr_take

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