第2話 終転の魔女と薔薇色の客2



 女性はちりちりと痺れる指先を動かし、まだ何の変化もない腹部に触れる。そしてわずかな沈黙の後、スッと一筋の涙を右目からこぼした。続いてあえぐように震えた唇から声を発する。


「なぜ、今更なのかと、やっと、自分の幸せだけを考えて生きていけるのに、と少しでも思ってしまった私は、きっと母親失格なのでしょうね」


 口元を引きつらせて奇妙な笑みを浮かべる女性の隣で、男性が何度も首を左右に振る。だがこの部屋に入って来て初めて、彼女は彼へと目もくれずに魔女をまっすぐに見続けた。


「あなたの力は、この子に影響がありますか?」


 その問いに、魔女は遠い目であらぬ場所を見つめる。そして視線を女性に戻して静かに答えた。


「いいえ。すでに二つに分かれた生が見えている時点で、あなたとその子は別の生を生きている。これがもっと前だったら違うかもしれないけど、それは関係ないわね」


 コクリと頷いて女性が指先で涙のあとを拭い、そして顔を下に向ける。

 目に映るのは、素朴な木綿のブラウス。金も地位も捨てた自分たちに見合うものをと、二人で下町で買い求めた。慣れない店での買い物に戸惑う女性に、彼は彼女が恥ずかしがっていると勘違いしてどんな服でも似合うと言った。

 手のひらを祈るようにお腹に当て、しばらく目をつむってから女性は顔を上げる。そして両の目に涙を浮かべて、隣で不安そうに見守る男性へとほほ笑みかけた。


「約束を、守れそうにないわ」


 女性の色を失った唇が告げる。

 男性は彼女の言葉に痛みをこらえるかのように喉を震わせた。


「最後の生、あなただけを愛して生きると言う言葉。あなただけに愛を向けることはできそうにないの」


 続けられた告解に、男性は呆然と女性を見つめる。ハの字に寄った彼の眉を見て、女性は吐息のような微かな笑い声を上げる。


「貴方も、私だけじゃなくて、この子も、愛してくれる?」


 その声に、男性は言葉もなく何度も何度も首を上下に振る。


「ああ、ああ。もちろん、もちろんだとも」


 そうしてやっと絞り出した言葉も、普段の自信に溢れた男性の姿とはかけ離れた単純なもの。

 それから安堵したかのようにぐたりとだらしなくソファーの上で力を抜いた彼に、女性は声を立てて笑った。



 モゾッと居心地悪そうに魔女のお尻が揺れる。それをとがめるように侍従はゆっくりと、時計の振り子よりも遅いスピードで首を左右に振った。

 犬でもないのに“待て”を守る猫ように、時折モゾリとお尻を動かしつつ、魔女は僅か十数センチ先で展開するドラマの終演を大人しくテーブルに座って待ち続けた。






「それで、終転を施しても良いのね?」


 最終確認で魔女は女性に向けて尋ねた。

 魔女の力を使う前だというのに、その声には多分に疲労が含まれている。

 それに対して女性ははっきりした声で「はい」と答えた。


「転生して知ったんです」


 女性は数度髪を撫でつけて、心の内を吐露する。


「前世の親と今世の親は違うと」


 お腹の子に語り掛けるように、女性は続ける。


「もし私がこの子の親にもう一度なれると知っていたら、この子に会いたいと、私は次の生を願ったかもしれません」


 女性が、一人の子の母となった顔で告げた。


「私はこの最後の人生をかけて、この子を愛します。どうか、私の転生に終わりをください」


 決意のこもったその声に、それ以上の問いかけは必要などなかった。

 次に、魔女は視線を隣に映す。そこに居る、”これぞ自分の惚れた女だ“とやに下がった笑みを浮かべるもう一人の客へ。

 魔女の視線を受けてわずかに表情をこわばらせた男性は、今更ながらに神妙な面持ちでゆっくりと首を縦に振った。


「私も彼女と同じ気持ちです。彼女と子供と生きて、そして死の眠りにつきたいと思います」


 自信を持って答える彼を冷静な瞳で見つめて、魔女は小さく頷く。

 するとそれまで黙って成り行きを見守っていた侍従が魔女の隣に立った。


「失礼します」


 声掛けと共に、彼は手袋をはめた指を器用に動かして魔女の頭上に乗せられたベールを上げた。

 ふわりと上がったベールの奥に隠された魔女の顔が露になる。

 そこに現れたのは、ベールで隠してしまうには惜しいほど麗しい美貌。

 白くきめ細かな肌と、完璧な位置に配置された眉、通った鼻筋。

 そして何よりも一対の金の瞳は宝石よりも遥かに美しく輝いている。


 圧倒的な美に言葉を失う二人。

 だが魔女は自分の顔に全く興味がないかのように、それまで通り淡々と事を進める。


「力を使う時、両手を握るわ。どっちから行くの?」


 テーブルに座り、ベールを上げた時にずれた髪の毛を気だるげに直しながら、魔女が問う。

 それに即座に反応したのは男性だ。恐らくここに来る前にすでに話合っていたのだろう。


「私を、先に」


 強い意志のこもった彼の眼差しに、魔女はゆっくりと目を閉じ、そして再び彼を見つめ返して深く頷いた。




 向かい合った男性と魔女が互いの両の手を取る。

 妻である女性の隣で彼女の夫と手を繋ぐのは落ち着かない気分だ。だがダンスを踊るのだと思えばさして不満もないだろうと、魔女は自分を納得させる。

 繋がれた手でできた輪の中心を見つめ、魔女は瞼をそっと閉じる。そして細い息を吐いた。


 それが合図となり、緊張が部屋に広がる。

 わずかな沈黙の後、伸びやかな魔女の声が響き渡った。


「巡りを止め、流れを止め、転ずるを止めよ。我、クロノスターシャ、終転の巫女なり。汝、我の求めに応ずる者、今世を限りとして、命の源へ還れ」


 すうっと深く魔女が息を吸う。


 そして吐き出す息とともに、歌うように最後の呪文を唱えた。


「巡る生からの解放を得た者よ。限りある生の訪れに祝福を」


 言祝ことほぎを謡いあげたその時、魔女の金の瞳が一際強く光る。

 それは黒く立ち込める雲を引き裂く雷のように、男性の体を駆け巡った。

 幾十、幾百にもつながった鎖の輪が、ほどけていく。

 果てしなく繰り返される輪廻が黄金の雷によって断ち切られる。


 ピクリと男性の手が震えた。

 何かを失ったと、心が理解した。

 ぶらりと垂れ下がる鎖のその先はもうないのだと悟った。

 行くあてのない魂が頼りなく震える。

 だがそれは束縛から解き放たれた喜びをもたらした。その感動のまま、男性は両目から涙を流した。


「ありがとうございます」


 魔女の両手を握ったまま、男性は深く、深く首を垂れる。

 ぽたりと落ちた涙が、木綿のズボンに落ちて染みを作った。




「いつか、この子が大きくなって、転生を理解するようになったら教えてあげましょう」


「来世で出会うことは無いからこそ、私たちの精いっぱいの愛情で育てたいと思います」


 晴れやかな顔で男女が告げる。しっかりと握られた手は、幾度の生と死を乗り越えてやっとたどり着いた幸せの証だろう。その繋がれた手が離れる時には、その間にもう一人、誰かがいるのかもしれない。

 客が去った後、魔女は元の寝椅子に戻ってだらしなく横たわる。


「お疲れ様でした」


 寝椅子の後ろから柔らかな労いの声がして、優しい指がそっと魔女の髪を撫でて離れていった。







 バサリと乾いた音を立てて魔女が放った新聞が、ローテーブルの上を滑る。

 そこから視線を逸らし、魔女は寝椅子の端にクッションを置いてその上に頭を預けた。


「――幸せだったかしら」

「彼らの望みが叶ったのです。限りなく幸福な生だったでしょう」


 侍従は新聞を手に取り、綺麗に畳んでティーカートの上に乗せて密かにため息を吐く。新聞を大きく飾る一面と比べたら、一本の指の幅にも満たない小さな記事だったのに、魔女がそれを見つけてしまった。だがそこだけ切り取って隠しても、彼女に追及されて結局同じ結果となっただろう。



 ――日曜未明郊外にて、先週からの長雨により土砂崩れが発生。一台の馬車が巻き込まれ、中から二人の男女の遺体 が発見された。近くからはこの二人の子供と思われる女児が発見され、現在最寄りの病院にて保護されている。彼らの身元にお心当たりがある方は新聞社まで連絡を。




「新聞社に連絡はするので?」

「しないわ。彼らは身分や名前を告げなかったし」

「子供の方は?」


 そこで一瞬魔女は押し黙る。金色の瞳の奥に、主の心の葛藤が見えて侍従は目を伏せた。

 魔女と呼ばれていても、優しすぎる主。そして魔女としてのその力ゆえに、人の世界に交われなくともそこに身を置き続けなくてはいけない。


「業が刻まれてしまったでしょうね。きっとその子は何度転生しても親と暮らせないわ」


 魔女の声にいつもの力強さはない。転生を終わらせることはできても、魂に刻まれた業を取り払うことはできない。

 何度も生が繰り返されるうちに、手に入れることのできない両親からの愛に絶望するかもしれない。今魔女にできることは、家族の愛以外でこの子供の生が満たされることを願うだけだ。


「あなたが良いように取り計らっておいて」

「承知しました」


 深く礼を取る侍従に、魔女は眦を上げて不満をあらわにする。


「堅苦しい」

「それは、すみません」


 素直な侍従の返しに小さく笑い、魔女はボスボスと枕にしたクッションを叩いて彼を呼び寄せる。

 彼は寝椅子の傍に立ち、クッションの代わりにそこに座った。すると当然のように魔女はそこに自分の頭を横たえ、魔女は满足気に息を吐く。


「首は痛くないですか?」

「これでいいの」


 そう言って目の前にある彼の左手に手を伸ばし、勝手にその手から白手袋を剥いで床に投げ捨てる。

 皺の入ったその手を両手で揉んだり指を開いたりして遊びながら、魔女はぽつりとこぼす。


「今度は、あまり待たせないで」

「善処します」

「硬い。それに努力が見えないわ」

「そればかりは神のご意思ですので」

「あんのクソ野郎」

「お口が過ぎますよ」


 たしなめるように、彼は皺の入った指を伸ばして魔女の赤い唇にそっと触れる。

 魔女は目を細めて、いたずら猫のようにその指先を甘噛みした。

 そして口を離して、相手に聞こえないようにもぞもぞと子ネズミよりも小さな声で呟く。


「転生をやめたいと思ったら、いつでも言って」

「そうですね。夢が叶ったらお願いしましょう」

「え!? 止めたいの!?」


 ガバリと起き上がる魔女と瞳を合わせ、侍従は目尻の皺を深めてほほ笑む。

 そして右手から手袋を外し、魔女の乱れた銀の髪をそっと直した。


「あなたの髪があの日のように腰まで伸びて、あなたの目尻に私よりも深い皺ができたら、お願いするとしましょう」


 魔女の金の瞳が大きく見開かれる。

 唇が不格好な笑みを浮かべ、それからぐいっとへの字に曲がった。


「そんなの、永遠に来ないじゃない」

「分かりませんよ。あの憎たらしい神があなたを手放したのです。そろそろあちらもこのふざけた遊戯に飽きてくるころでは?」

「あなたも大概口が悪いわ」

「一緒にいるどなたかのせいでしょう」

「いい影響ね」


 満足気に鼻を鳴らす魔女に、侍従は口ひげを揺らして笑う。

 刻まれた目尻の皺に魔女が手を伸ばすと、彼はその手に頬を寄せた。


「貴方は何度歳をとってもいつも格好いいわ。悔しい。私がシワシワになってもこんなに綺麗に歳を取れない気がする」

「一緒にいる方がいつまでもお若いので、必死なんですよ」


 そう言って侍従は魔女の手に自分の手を重ね、その手の内側にそっと口づけを落とす。

 肌をかすめる髭の感触に、魔女はくすぐったさから体を震わせる。

 侍従の深く澄んだ藍色の瞳が楽し気に細められ、魔女は白い肌を薄っすらと赤くして金の瞳をさまよわせた。


「貴方の願いが叶うといいわね」

「ええ。それまではどうか私の巡り続ける生にお付き合いください」

「いいわよ。許してあげる」


 軽やかに空気を揺らして魔女は笑う。

 侍従はもう一度その白い指先に触れるだけの口づけを落とした。




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