第2話 篠崎あゆみの場合<1>
朝。慣れない廊下を歩きながらリビングに行くと、誰もいない。代わりに食卓テーブルに一枚のメモ書きが置いてあった。
『あゆみちゃんへ お母さんと買い物に行ってきます。朝食はキッチンにあるからね』
曾祖母がどんな人なのかはわからないけれど、引っ越し当初の会話を聞くに母のことを溺愛していたのだろう。こんな朝早くから母の買い物に付き合うくらいなのだから。
キッチンにはコンビニで買えるような菓子パンがひとつだけ。水道水で流し込んだ。
かなり早い時間だけれど、学校へ行ってみようか。そんな考えが頭をよぎる。
誰もいないだろうけれど、売店と図書室くらいは空いているかもしれない。
昨晩のうちに授業の準備を終わらせておいたカバンを持って、学校へと向かうことにした。
教室に入ったところで、思わず悲鳴を上げそうになった。
いや、悲鳴というのは流石に大げさだけれど、変わろうと決意をした切っ掛けの相手が既にいるとは思わなかった。
教室でひとり、自分の席に座って授業の準備をしている富永さんは日本人形のような綺麗さがあるものだから、そのすごみに驚いたというのもあるかもしれない。
「おはよう」
少しだけ、ドキドキしながら話しかける。友達なんて、作ったことがないから勝手がわからない。
無視されたらどうしよう、困惑されたらどうしよう、とか今までの私なら絶対に思わないことを考えていると、意外とあっさりと言葉は返ってきた。
「おはよう」
淡々と、顔も上げずに授業の支度をしながらではあったけれど、確かな言葉だ。
私ときたらもうそれだけで嬉しくてたまらなくて、自分の顔が赤くなっていないかどうかとか、変ににやけた顔をしていないかどうかとか。
ああ、うれしいってこういう事なんだな、なんて思いつつ席に荷物を置く。
その日はすぐに隣の席の和泉くんが登校してきたから、彼と雑談をした。
和泉くんの表情が少しだけ嬉しそうな感じだったから、きっと顔に出ていたのだろう。
三人だけの教室での朝はそんなこんなで時間が過ぎていった。
「ちづこ、大丈夫かな。あの後救急車来てたけど」
「またあいつだよ。本当に、何で平気で登校できるのかわけわかんない」
「篠崎さんも、あいつに近づかないように気を付けてね?」
皆が登校する時間になってくると、話題は自然に昨日の『事故』のことが多くなる。
昨日救急車で運ばれた子は、女子たちの中でも頼れるリーダーのような存在だったらしい。
皆一様に憤慨して、同時に不安を抱えていて、それらを全部富永さんに押し付けているような、そんな感じがした。
「えっと、でも事故……なんだよね? 富永さんはその場に居合わせただけって聞いたけど」
あまりにもひどい言い分に、思わず口をはさんでしまう。
けれど、返ってくるのは案の定の言葉だ。
「違うよ、あいつのせい。あいつはいるだけで周りを不幸にするの」
「うん。篠崎さんは来たばっかりだから知らないだけで、あいつは本当にひどいんだよ」
「富永さん自身が不幸をまき散らそうとしているの?」
「そういうわけじゃないけど。でも、とにかく、あいつが原因だから」
やっぱり、女子の中では『富永さんは悪』という根強い意識があるみたいだ。
男子の方はどうなのだろう。和泉くん自身は富永さんにそこまで苦手意識を持っていない風ではあったけれど。
「男子は陰でこそこそ言わない分、実際に危害を加えて『事故』に遭うことが多いよ」
昼休み。隣の席の和泉くんは弁当をつつきながらあっさりと言ってのけた。
「このクラス怖いね?」
「言っておくと富永さんへの対応はクラスどころか学校ぐるみだし、なんなら地域一帯だよ?」
「いや、怖すぎる。なにがあったの」
んー、と言いながら和泉くんは考え込む。一通りおかずを片付けた後、やっと口を開いた。
「なにがあったかは、まあ……長くなるからまた今度。というか、今日朝早かったよね」
「ああ、ちょっと早めに朝ごはんが済んだから」
「登校したら富永さんとふたりでいるからびっくりしたよ。友達になりたいって言っていた割に無言だったし」
「それは、えっと……友達、いたことないし」
「そうなんだ。でも、なんかわかるかも。篠崎さんって表面上の付き合い得意そうな印象合った」
「和泉くん、なんか昨日から容赦なくない?」
あんまりな物言いに思わずポロリと本音が口から出てしまう。
「あはは、いやごめん。ちょっと嬉しくってさ」
「嬉しいって?」
「んー、なんというか……今まで富永さんのこと、富永さんってだけで排除しようとしていた人ばっかり、っていうのかな。富永さん自身を知ろうとしてくれているっていうのが」
「えっ? 和泉くん富永さんのこと好きなの?」
「いや、そんなことは……待って、真顔怖い。その顔やめて。そんなことないから」
「嫌いなの?」
「面倒くさい! さっきの仕返し!?」
しばしの沈黙の後、どちらともなく笑いだす。
「ごめん、ごめん。ああ、でも考えるとこんなふうに誰かと冗談を言い合ったりしたことなかったかも」
「筋金入りのぼっちじゃん」
「変わったんだよ、富永さんを見ちゃって」
「俺と話してじゃないんだ」
「あー……あれだよ、富永さんには惚れてますから」
「そっちなの??」
「冗談だよ」
次の日から、私は家を出る時間を早くした。
曾祖母は少し心配してくれたけれど、母が大丈夫だと言ったらしぶしぶ送り出してくれた。こういったところだけは、母に感謝をしないといけないかもしれない。
毎日、朝早くに登校して、既にいる富永さんにあいさつする。
几帳面に挨拶を返してくれるから嬉しくなって、たまに雑談ができるようになってきた。
「富永さんって、毎日早いよね。何時に家出てるの?」
「6時くらい」
「え、ってことはすごい早起きなんだ」
「それなりに」
口数はまあ少なかったけれど、普通に話せるようになった時点で私にとっては進歩だ。
その日会話できたことを、登校してきた和泉くんに報告する日々を送っていった。
そんなある日、登校途中に偶然富永さんを見かけた。
もちろん駆け寄って話しかけに言ったのだけれど、少し周りが騒がしい。
見ると、コンクリート塀にトラックが突っ込んでいる。交通事故だろうか、と思ったところで、違和感に気が付く。
ここは別段見通しが悪いわけでもないし、誰かが飛び出してくるような道もない。
トラックの運転手は傷ひとつなく、必死に電話をかけていた。
コンクリート塀に広がった血しぶき。ああ、また富永さんは危険な目に遭ってしまったのか。
「おはよう、富永さん……え、ケガしてるの!?」
振り返った彼女の顔には、血がついていた。
思わずハンカチを取り出そうとカバンを漁っていると、それを制止するようにきっぱりした声が響く。
「怪我はしていない。なんでもないし、篠崎さんには関係ない」
思わず、息をのむ。それをどうとらえたのか、富永さんは私に背を向けた。
しばらくその場に沈黙が訪れる。
なかなか立ち去らない私に業を煮やしたのか、声が聞こえる。
「わたしは事故の目撃者だからいなきゃいけないだけ。篠崎さんは学校に行っていて」
「あゆみ」
「え?」
キョトンとした声が聞こえ、富永さんが振り返る。
「篠崎あゆみ、転校初日に自己紹介したよね? あゆみだよ、私の名前」
「……それがなにか」
「富永さんの名前は?」
彼女が戸惑っているのが、伝わってくる。
それでも私は退かない。だって、苗字とはいえ名前を憶えていてくれていたから。
絶対に退かないといった空気を感じ取ったのだろうか、渋々といった感じで富永さんは口を開いた。
「……由香」
「そっか、由香ちゃん! 私も一緒にいていい?」
「好きに、すればいい」
「わかった!」
私は、私だけは。なにがあっても由香ちゃんのそばにいる、いてみせる。
この世界にある総ての悪意が相手でも、絶対に由香ちゃんを護ってみせる。
たとえ私に何があったとしても。
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