第1章 リッシュ村の少年

第2話 転生




 うえーーーーーーーーーーーんっ。


 遠くで子供の泣く声が聞こえた。

 沈んでいた意識がその声に反応して、少しだけ覚醒する。


(ぁー……、なんだぁ……。)


 ぼー……とする意識の中で考える。

 眠気が残る頭で、今何時だ?と何とはなしに考えるが、それを確かめる気が起きない。


 うえーーーーーーーーーーーんっ。


(……ちょっとうるさいな。 親は何やってんだ……。)


 あまりの気怠さにそれ以上の思考を放棄して、もう一度寝直そうと寝返りを打つ。

 どうやらうつ伏せになっていたようだが、姿勢を変えるためにベッドについた手のひらからはありえない感触が返ってきた。


 一度に様々な違和感が押し寄せ、意識が急速に覚醒し始める。

 まず手のひらから伝わる感触がシーツではなかった。砂利の転がった剥き出しの地面に手をついたような硬い感触。

 そして、その感触は手だけではなく、自分の頬からも感じることに気がつく。

 それと匂い。舞い上がった砂埃の中で息をするような、埃の匂いをはっきりと感じる。

 あまりの異常な感覚に咄嗟に起き上がると、そこは予想通りの剥き出しの地面の上。

 予想もしていなかったのは、その乾いた土の道が延々と続くことと、これまた延々と続く両側の畑らしき光景。


「…………は?」


 まったく意味が分からなかった。

 自宅のベッドで寝ていたつもりが、いつの間にか外にいるのだから。

 なんでこんな所にいるんだ?と混乱する頭で必死に考えようとするが、そもそも考える材料がロクにないのだから有益な考えなど浮かぶはずもなかった。

 そうして混乱するまましばらく考えていると、微かな頭痛に気づく。

 気がついたらよく分からない場所に居た。

 そのうえ頭痛もするとなれば、状況証拠から導き出される可能性は一つ。


(……昨日、そんなに飲んだか?)


 あまりに馬鹿馬鹿しい答えだが、今最も有力な答えは「酒を飲み過ぎた。酔っぱらってここまで来た。記憶はない。」である。

 意識が痛みに向かうと、脈打つようにズキズキと痛みが感じられるようになってきた。

 何気なく額を押さえるように手を添えると、砂利の感触が再び手のひら伝わってきた。

 顔にまで砂利が付いてるのか、と手のひらを見ると、そこには半ば固まった血のようなものがはっきりと付いていた。


(おいおいおい! 怪我してんのか!?)


 予想を超える深刻な事態に再び混乱しそうになるが、意識して大きく息を吸い込むと、グッと力を込めて目を閉じる。

 そうして何度か深呼吸して、落ち着け……落ち着け……と自分に言い聞かせる。


(パニクってる場合じゃない。 まずは現状の確認。 怪我の有無。 怪我の程度。 所持品。 現在地。)


 まずは正確な現状の把握が最優先。それによって行うべき行動が変わってくる。

 仮に手元にスマートフォンがあり、近くに電柱の1本でもあるなら、当面の問題はほぼ解決する。

 110番通報して電柱番号を伝えれば、保護してもらうことが可能だからだ。


 やるべきことがはっきりしたことで、少しだけ冷静さを取り戻す。

 地面の上にそのまま胡坐あぐらをかき、手足を軽く拳で叩いていく。


(特に響く箇所はない……。 骨折とか、深刻な怪我はなさそうか?)


 少しだけ安心して、今度はゆっくりと立ち上がり、肩や手足、首や腰を回したり捻ったりしてみる。

 強い痛みを訴える箇所はなく、捻挫や打身も今のところはなさそうだった。


(……ていうと、怪我らしい怪我はこいつらか。)


 思わずため息が漏れた。

 というのも、擦り傷のようなものは割と全身に、いくつにも及んでいたからだ。

 最初に額の怪我に気づいたが、手足の確認をする時に目に入った腕や膝は、血が固まり砂利が張り付いた状態だった。

 おそらく額も同様の状態なのだろうと思い、特にいじるのはやめてそのままにしている。

 相当派手にすっ転んだようだ。自分のことでなければ目撃した瞬間に思わず笑ってしまったかもしれないが、非常に残念なことに自分のことだ。笑っている場合じゃない。

 ただ、手当をする環境がないので、怪我については一時保留にした。

 現状では、下手にいじって悪化することはあっても良くなることはないだろう。


 そして、身体の状態を確認していて気づいたことが他にもある。

 こっちの方がより深刻な事態なのだが、今は考えてもどうしようもないので、あえて他の確認を優先することにした。







■■■■■■







(所持品はなし。 現在地を知る手がかりも、今のところはなし。)


 所持品はスマホどころか財布すら持っていない状態だった。

 周囲を探してもみたが、何も落ちてはいなかった。

 これは非常に深刻で、自力では解決できないことがほぼ確定した。

 ここが思ったよりも自宅に近かった、などという幸運でもない限りは自力での解決は困難だろう。

 なるべく人様に迷惑をかけたくないとは思うが、見ず知らずの場所に怪我をした状態ではそうも言っていられない。

 せめて迷惑をかけるにしても最小限に留めたいと、空しく願うばかりだ。


 そして現在地もまったく見当がつかなかった。周りは畑があるだけで、民家どころか電柱も標識も何もない。

 仮に自分が倒れていた時に頭を向けていた方向を前、足側を後ろと仮定する。

 だが、前を向いても後ろを向いても道は一本。しかも、道の両側は自分の身長よりも高い草木が茂った畑だ。

 まるで昔見た北海道の写真のようだった。何キロメートルも続く畑と、そこを通る一本の道。

 自動車がすれ違うのも問題のない道幅はあるが、それでも両側の畑に圧迫される視界が狭すぎて、巨大迷路にでも放り込まれた気分だった。


(せめて視界の開けた場所や高台があれば、コンビニでも民家でも探せるんだが。)


 ほぼ何も分からない状況で、それでも次の行動を決めなくてはならない。

 偶然誰かが通ってくれる幸運を期待するが、状況の解決を運だけに頼るつもりはないからだ。


(……クジ運とか、良かった試しがないし。)


 深く考えるとクジによってもたらされた、かつての不運を思い出してしまいそうになる。

 気持ちを切り替えて、前の道をよく見てみる。

 そして今度は後ろを見る。

 すると、遠くに見えるものに気がついた。

 一本道の先、視界は畑に塞がれるが、その畑の上に山の輪郭が見えた。

 周りの草木が高いためそちらにばかり意識が向いていたが、その向こうに山があるのが確認できる。

 改めて前を見るが遠くにも山らしきものは見当たらない。

 今度は右を向いてみる。

 畑の草木に邪魔されるが辛うじて山らしきものが遠くにあることが確認できた。

 左も同じように見てみるが、そちらには何もなさそうだ。

 んー……、とつぶやき腕を組んで顎に手を添える。

 考え込む時によくやってしまう仕草だ。


(……後ろに山、右手にも山。 山脈? それとも別々の山か。)


 上を見てみる。空はよく晴れており太陽がほぼ真後ろにあることが分かる。

 季節は夏前。太陽の高さと影の長さでおおよその時間を決める。


(午前か午後か分からないが太陽の高さが頂点よりは低い気がする。 11時よりは前、若しくは13時過ぎか。 気温や空気の感じで午前のような気もするが……、あてにはならないか。 日によって違うもんだしな。)


 行動の指針を決めるために大雑把に予想を立てる。

 時計もなければ方位磁石もない。

 今すぐ正確な情報を得ることができないのなら、どういった行動を取るのか、とりあえずの方向性を示すだけでもいい。

 時間と太陽の位置から大雑把に方角を決める。

 現在の太陽の方向を南と仮定していいだろう。

 俺は石を拾い、方角を示す記号を地面に描いてみる。


(道なりに行くなら、山に向かう南か。 山から離れる北。)


 これらの情報から、現在地について考えてみる。

 もちろん絞り込むのが無理なのは分かっているが、進むか戻るかを決めるためにも現在地の見当はつけたい。


「……南と東に、山?」


 地面に描いた方角を見ていて、ふと気がつく。

 俺が住んでいたのは都内だ。自宅マンションは東京都の東の方で、千葉県との境に近かった。

 自宅からの方角としては、南にあるのは海。そして東は千葉県になる。

 都内にも山はある。だが、その山は横長の東京都の中では左側。西に集中していたはずだ。


(やっぱり……、都内じゃなさそうだ、ここ。)


 薄々おかしいと感じてはいたが、少し考えるだけでも相当に深刻な事態だ。

 山が南の方角に見える、何キロメートルも続くような広大な畑。

 そんな条件に当てはまるような場所が都内にあるか?


(民家らしき建物も見当たらない広大な畑なんて、近隣の県にだってそうはないだろう。)


 得られた情報から現在地の見当をつけようとしたが、かえって混乱する結果になってしまった。

 だが、予想が当たっていると決まったわけではないし、何より俺はインドア派だ。レジャーなどには疎い自信がある。

 知らない山など、それこそ山のようにある。おそらく、何か単純な見落としや勘違いがあるのだろう。


(現在地に見当をつけるのは難しいとして、そうなると……。)


 ぐるりと周囲を見渡す。

 現在地が都内かどうかは置いておくとしても、自宅からそう近いとは思えない。


(……俺はどうやってここに来たんだ?)


 酔っぱらって記憶がないでは済まされないだろう。

 記憶がないほどに酔った状態で歩いて来れるほど、自宅から近いとは考えられない。


(タクシーを使った? それなら財布がないとおかしい。 なによりこんな所で降ろせと言う酔っ払いがいたら警察に連れて行くだろう。)


 困った客として処理するのが普通だ。

 酔っぱらった客に適当な対応して事件にでも巻き込まれれば、後々が面倒なことになる。

 だからタクシー会社ではそういった客に対応するマニュアルがあり、そのマニュアルでは警察署に送り届けることになっている。


(車で拉致された? それなら財布がないことと、こんな場所にいることの説明はしやすいけど、……こんなおっさんを拉致る意味が分からん。 財布が欲しいなら抜き取ればいい。 拉致までする必要がない。)


 この状況に説明をつけようとするが、どうしても無理が生じる。

 今ある不確かな情報では考えるだけ時間の無駄だと判断し、俺はとりあえず山とは反対方向、北に向かって歩くことにした。

 山間部よりは平野部の方が人は多いだろうという理由だ。

 かなり頼りない根拠だが、とりあえずの指針というだけなら十分だ。


(……まあ、この状況の異常さはそれだけじゃないしな。)


 擦り傷だらけで痛む身体にムチ打ち、ゆっくり歩き始めるのだった。







■■■■■■







 所々にある水溜まりを避けながら歩き、自分の手をじっと見つめる。

 異常な状況は場所や移動手段だけではない。

 むしろ、もっと深刻なことがあった。


(…どう見ても子供の手だな。)


 その幼い手をグーパーグーパーしてみる。

 身体の状態を確認していた時に気づき、考えてもどうしようもないので後回しにしていたこと。

 それは自分の身体の変化だ。

 あまりにも小さい手。たぶん5~6歳くらいか。10歳にはなっていないと断言できるくらいには幼い手だ。

 よく日に焼けていて手のひらと甲でははっきりと色が分かれている。

 もちろん小さいのは手だけではない。

 身体も足も、どう見ても子供のサイズ。


 周りの草木が高いと思っていたが、感覚的にはおそらく150センチメートルを超えるくらい。

 自分の方が小さいだけだった。


(元の身長なら、さほど苦労しないんだけどな。)


 俺の身長は175センチメートルあったから、畑に並ぶ草木の上から周りを見ることができたはずだ。

 どうにも慣れた視点の高さと今の違いに違和感を感じる。

 自分の今の姿が気になったが、生憎と鏡はない。

 だが、水溜りに映った姿で顔を確認することはできた。

 なかなかに可愛らしい顔をして、最初は女の子かと思ったくらいだった。

 慌てて男のシンボルを確認し、その小さな象さんにほっと胸を撫でおろしたものだ。


 とぼとぼと歩きながら服の襟をパタパタと引っ張る。

 すでに1時間以上歩いているが一向に人の気配がない。

 日差しもこの季節では強い方だ。かなり暑く感じた。


(…………子供?)


 立ち止まり、今来た道を振り返った。

 ふと思い出したことがある。

 目が覚める時、子供の泣き声が聞こえていたような気がしたのだ。

 その後の自分の状況があまりにも突飛すぎて、すっかり失念してしまったが。

 もしもこんなところで迷子になっているなら保護しないわけにはいかない。

 もっとも、自分自身が保護されるべき状況に置かれているのだから、子供を”保護”するというのも烏滸がましい話だが。


 戻ろうか、と少し考える。

 所持品を確認する時、周囲も簡単にだが探してみた。

 子供の姿など見なかったし泣き声も聞こえなかった。

 こんな状況ではあるが、さすがに近くに子供がいて泣いているのなら、それを無視することはない。

 少なくとも気に掛けるくらいはする。


(夢だった?)


 あの時は意識がはっきりとしていたわけではない。

 夢現ゆめうつつだったのは確かだ。

 実際に姿を見たり、声が聞こえたわけではない。


(…寝ぼけてた、んだろうな。)


 周りを見ても居なかったのだから、夢だったと考えるのが妥当だろう。

 とりあえず自分の中で、あれは夢だった、と処理して前に進むことを決める。

 少々後味は悪いが、確証もなくまた1時間かけて戻るのはさすがに勘弁してほしい。

 服の襟をパタパタと引っ張り、再び歩き出した。

 改めて自分の姿を見降ろし、身に着けている物が気になった。

 当然だが身に着けている服も靴も俺の物ではない。

 おそらくこの身体の持ち主?の物だろう。


 この子供だが、身に着けている服と靴が少々妙だった。

 麻の服というのだろうか、ゴワゴワしていて着心地はあまり良くない。

 もう少し加工を工夫すればもっと着心地を良くできるだろう?と思うが、そういう工夫はまったくない。

 麻100%、麻とはこういう物、という創意工夫も企業努力も微塵に感じない低品質な服だ。

 靴は全体に動物の革を使っているようだが、素足を突っ込んだだけ。靴下も穿いていない。

 革靴と言えば聞こえはいいが足の形をした袋状にして、足首で縛る程度の物だ。

 いちおう底は厚くなっており、硬さもあるので砂利道を歩いても問題はないが。

 そうした全体の印象を一言で表せば、”粗末”。この一言に尽きる。

 転んで汚してしまったのは自分だが、それを差し引いてもどうにも作りが粗いような気がする。

 それと、ズボンの膝の部分だが、外側に堂々と布を縫い付けるのはあまりないんじゃないだろうか。


(穴が空いたんだろうけど、もう少し目立たない方法にしないのか?)


 全く違う色というわけではないが、はっきりと分かる当て布を使っているのだ。

 どういった家庭環境なのかは分からないが、少々この少年に同情してしまうのだった。







■■■■■■







 もっとも重要なのは人を見つけることだ。

 だが、今の俺はより差し迫った危機に直面していた。


「……暑い……死ぬ……、……水、…………腹減った……。」


 歩き始めてどのくらいだろうか?

 3~4時間は経つ気がする。

 その間、民家どころか人ひとり会うことがなかった。

 そして容赦なく照りつける太陽によって気温は上昇。

 最近雨が降ったのか湿度もかなり高いようだった。

 結果、俺は熱中症を起こしていた。


(…………まずい……、……完全に…………判断……ミスった……。)


 ここまで人に会わないのは想定外だった。

 山奥や樹海に迷い込んだわけではないのだ。

 歩いていれば「そのうち誰かに会う。民家くらいある。」と楽観してしまった。

 いくら怪我で歩きにくく、歩幅の小さい子供とはいえ、おそらく6キロメートル以上は歩いているはずだ。

 すでに道の両側の畑は終わり草叢が広がっていた。

 雑草の丈は自分と同じくらいなので周りを見通せるが、見事なまでに何もない。

 草叢の中にぽつんぽつんと木が生えているのが見えるだけ。


(……いくらなんでも…………、ありえないだろ……。)


 民家どころか人が作ったような建物も何もない。

 人の存在を辛うじて証明しているのは、道についた轍だけ。

 車の往来はあるはずなのだが、道路標識も何もまったく見ない。


(…………水……、……水溜まり…………。)


 地面を見ると所々に水溜まりが見える。

 水溜まりを啜れば喉の渇きは癒えるだろうが、さすがにそれはできなかった。

 人としての誇りの話ではない。

 単純に感染症が怖かったのだ。

 泥水を啜って生きる人など世界中に何億人、何十億人といる。

 そして、その不衛生な水を原因としてコレラや赤痢などの感染症に罹り、年間に何百万人も亡くなっているのだ。

 それを分かっているから水溜まりの水を飲む気にはなれなかった。

 ……今は、まだ。


(……まじ、死ぬ…………。……木、陰……逃げよう…………。)


 判断するのが遅すぎたが、このまま歩き続けるのはもはや限界だった。

 草叢に入って行こうとした時、足がもつれて転んでしまう。

 草がクッションになり怪我が増えることはなかったが、そこから立ち上がることはできなかった。


(……やべ…………まじ、……死ぬかも……。)


 立ち上がろうとするが手足はガクガクと震えるだけで思うように動かない。

 そうするうちに、頭がぐわんぐわんと揺れるように感じ、目の前が真っ暗になっていく。


 そうして、俺は意識を失った。




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