第74話 アナスタシア公爵夫人



 グレイスの凄む声と共に、腰に帯びた剣で今すぐ突かれそうな気迫だ。兄は手を上げて押しとめた。


「何もしていない。用事があって少し部屋を空けただけで、戻ってみるといなくなっていた」

「何もしていないのに、アナスタシア様が部屋を出て行くわけがありません」


 確かにその通りだ、とわたしも同感だ。兄は息をついた。


「彼女は少しおびえているように見えた。彼女にとって初めてだったからな」


 兄が含めたような言い方をすると、グレイスから表情が消えて冷たい目に変わった。


 こ、怖い……。わたしは思わず、兄の後ろに隠れたくなった。


「……アナスタシア様がいつも行かれる場所には心当たりがあります」

「本当か?」

「はい」


 グレイスは厳かに答えると、くるりと振り向き速足に歩きだした。そして、わたしたちが歩いて来た廊下を戻り、アナスタシアの部屋を通り過ぎた。そして、ある部屋の前に立った。


「おそらくここにいらっしゃいます」

「書斎?」


 兄はこの部屋を知っているようだった。


「アナスタシア様は本を読まれるのがお好きなのです。かなりの読書家ですので」

「知らなかった……」


 兄がポツリと呟いた。

 グレイスが部屋をノックしてドアを開けると部屋の中は明るかった。

 壁面にはびっしりと本が並び、心地よさそうなソファが置いてある。壁紙は落ち着いた色で、昼間なら明るい光が差し込んできそうな窓が二つあった。

 一日中、この部屋で本を読んで過ごすことができそうだった。

 わたしも本は大好きだったので、思わず目を見張った。すごい量の本だ。

 本に目を奪われたすぐ後に部屋の中をぐるりと見渡すと、ソファに二人の人間が座っているのが見えた。

 わたしはドキッとした。


 え? な、なぜ、エリスがここに?

 思わず目の前に立っている兄を見た。背中が怒っている? 気がした。


 エリスは、泣いているアナスタシアの手を握っていた。兄が大股に歩いて行って二人の前に立った。泣いていたアナスタシアが驚いた顔で、パッと手を離した。

 わたしはハラハラしながら駆け寄った。アナスタシアはずっと泣いていたのか目元が赤く腫れている。

 兄は手を伸ばすと、アナスタシアを無理やり立たせた。


「何をしている……」

「フォード卿……」


 アナスタシアの体が震えている。わたしは二人の間に入ろうとして、グレイスに止められた。


「ここで何をしているのか、と聞いているんだ」


 兄の低い声が静まり返った部屋の中に響いた。すると、座っていたエリスがゆっくりと立ち上がった。

 濃い茶色の髪、今は銀縁の眼鏡をかけて、物腰も柔らかな印象の彼は、兄よりも身長は少し低いぐらいだったが、同じくらいの目線で兄を見た。そして、相変わらず飄々ひょうひょうとした様子で答えた。


「何も。僕たちは少し話をしていたのですよ」


 ジュリアンは、アナスタシアから手を離さなかった。


「閣下、心配なさる事は何もありませんよ。僕がここで本を読んでいると、彼女が入ってきた。レディ・アナスタシアは泣いていましたが、理由は言わなかった。でも、彼女は、僕らが滞在していることに対して不自由はないか、と心配して聞いてくれたのです。僕は感謝していますと伝えているところへ、あなた方が入って来た」

「どうしてこんな夜更けに書斎にいるんだ」

「僕はゴーレの研究を生業にしているんですよ。ここはいろんな書物がある。式が終わってから、ずっとここにいた」

「ゴーレ?」


 ジュリアンは呟いたが、首を振った。


「部屋へ戻ろう」


 兄はそれ以上何も言わず、アナスタシアの腕を取って歩き出そうとした。そして、彼女が薄着でいることに気づいて足を止めた。アナスタシアは、ショールを搔き合わせてうつむいた。


「フォード卿……。ごめんなさい……」


 アナスタシアが謝った。兄は、ハッとして首を振った。


「いや、謝るのは俺の方だ」


 低く言って、彼女の手を引いて部屋を出た。わたしもグレイスも何も言わなかった。

 二人が出て行きドアが閉まると、グレイスがエリスを睨んだ。


「あなたはここで何をしているのです?」

「さっき言った通りですよ。本を読んでいたら、王女がやってきた」

「王女ではありません。アナスタシア様は公爵夫人です」

「僕はそういうの面倒くさいんだよね」


 エリスは、ソファに座って読みかけの本を読み始めた。

 彼は本当に変わっている。

 わたしとグレイスは、彼に何を言っても無駄だと思い書斎を出た。それから、グレイスがわたしを部屋まで送ってくれた。


「それではミカエラ様。おやすみなさい」

「ええ。ありがとう。アナスタシアが見つかってよかったね」


 グレイスはほほ笑んで、一人廊下を歩いて行った。その後ろ姿が何だか疲れているように見えたのは、わたしの思い違いだろうか。

 部屋に入り、ベッドに腰掛ける。

 はあ……、と大きくため息が漏れた。


「疲れちゃった……」


 もう、何も考えず眠ってしまいたい。

 これ以上豪華なベッドはあるまいと思うほど、贅沢な布団の中にもぐりこみ、わたしはすぐに眠ってしまった。

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