第71話 番外編② テオドア・ローゼン




 今までに感じたことのない、痛みだ。

 目の前の少女がまるで、知らない人に見えた。

 形の良い唇が開き、その発した言葉が俺の胸を突き刺していった。


「わたしが住んでいた村の名前は、アルカンナ。人口は、1万3千人ほどの小さな村だった。東から西へ向かう河口があり、村に伸びるエーナ川に沿って、立派な教会が建っていたの。わたしは、その教会で本を守る仕事を手伝っていた。両親がその仕事をしていたから、自然とわたしも教会にある書庫に通っていた」


 ミアが息を吸うために息をつく。


「わたしは変人って呼ばれていて友達もいなくて、本ばかり読んでいたわ。毎日、本を読んで聖歌を勉強していたから、聖歌隊のお手伝いもしていた。ある日、朝早く歌の練習をしようと教会へ行ったの。すると、教会の中に男の人が倒れていた。村の人ではなかった。見たとこのない人で、彼は記憶を失っていた。わたしは両親を呼んで彼を助けた。マエストーソは、あ、彼は名前を憶えていなかったから、マエストーソという名前をわたしの父親がつけたのだけど……」


 ミアは、ゆっくりと思い出しながら話をしている。

 俺は、それをどんな顔で聞いていたか、分からない。

 その、見たこともないマエストーソという男がどんな奴なのか想像するのも嫌で、気分が悪くなっていた。


「それで? ミアは何が言いたいんだ?」


 俺の声が聞こえた。

 今、俺はしゃべったのか?

 ミアがビクッとする。


「テオ?」

「なんでもない。すまなかった。続けてくれ」

「うん……」


 突然、ミアの歯切れが悪くなる。

 俺の顔をちらちら見ながら言った。


「マエストーソはそれから記憶を思い出したの。その、わたしが言いたいのは、思い出したきっかけが、歌だったの。だから、テオにも伝えたくて……」


 俺が黙っていると、ファビオが助け船を出した。


「その歌を歌って下さるのですか? ミカエラ様」

「うんっ」


 ミアが笑顔でファビオにこたえる。


「マエストーソはこの歌をとても気に入っていた。わたしはいつも歌っていた。彼が記憶を思い出したきっかけがこの歌であれば、もしかしたら、テオも思い出すかもしれない」


 ミアはそう言うと、、俺にはにかんだ笑みを見せて、目を閉じて歌い始めた。


「暗闇……かった ……もなかった あったのは…… それがわかるのは 全部…… 心なくて…… みんな……す ここにあ…… べき……のは ばにあっ…… しなくてい…… 聞こ……足音 それはあなた……いた 生ま……なくなった 終……にくる そ……奇跡 ……れなくていい その……る」


 ミアの歌声は、俺の耳に入って来なかった。

 部分的に途切れている。

 その歌詞の切れ端だけが、俺の胸に染み込んできた。

 それは何かの暗号なのか。

 言葉が俺の胸を突き刺す。


「やめろ……」


 ミアがはっとして口を閉じる。


「テオ? わたし、何か気に障るようなことを言ったのかな……」


 ミアの顔が泣きそうに歪んでいる。

 俺は、顔を押さえた。


「待っていてくれって言ったが、正直、今の俺は何も答えることができない。家族もない、魔法も使えない、何もない俺がミアのそばにいても役に立てるとは思えない」


 本心が口から出る。


「何もなくない……」


 顔を上げると、ミアが、ポロポロと涙を流して泣きだした。


「わ、わたしは、王子様がいいなんて言ってない。テオが好きなだけ。何もなくていいの。あなたがいてくれたら、何もいらな……」

「そういう意味で言っているんじゃない。分かってくれよ……」


 俺は何を言い出すんだ。

 もうすぐ20歳になる男が情けないことを言っている。

 年下の女の子にこんなひどいことを。でも、止まらなかった。


「ミカエラ様、お二人とも結婚式の後で疲れているのです。少し冷静になれば、お互いのことが見えてくるでしょう」

「ファビオ、いいんだ」

「わたしを見てよ、テオっ」


 ミアが泣きながら言った。

 彼女の顔が真っ赤になって、くしゃくしゃだ。あの、キラキラした綺麗な少女はどこにもいない。

 悲しそうな瞳で自分を見ている。

 こんな顔をさせてしまっている。

 しかし、ミアはぐいっと涙を拭いた。

 歯を食いしばる。


「わたしは3つの頃のこと、思い出していない。マエストーソのことだって、今日まで思い出さなかった。彼と過ごしたのはほんの少しだったかもしれない。けど、こっちに来てからは、あなたと出会ってから過去のことを思い出すことはなかった。記憶は絶対に戻る。テオが忘れていると思っている記憶は眠っているだけだもの。だから焦らない。わたしは待ってる。約束したよね。待っててほしいって言ったじゃない。約束は守ってほしい」


 なんて、勇ましい女の子なのか。

 俺は、思わず苦笑した。


「なぜ、笑うの……?」


 ミアがムッとする。


「バカにしたんじゃないよ。バカなのは俺なんだ。俺なんかを待つなんて、君は変わった女の子だ」

「わたしは変人だもの。なんて言われても平気よ」

「俺は何も持っていない」

「何もいらない。そばにいたい。テオのそばにいたいっ」

「俺があの国に戻りたいって言ったらついてくるのか?」

「あなたが決めたのなら、わたしはついて行く。手を縛られても灰になってもあなたのそばにいる」


 呆れた子だ。

 俺は笑うしかなかった。

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