1832年、ある夜更け

 1832年、ある夜更け。メッテルニヒ家の厨房。


「よし……出来上がりだ。あとはこれを、固まるまで冷やして……」


 と、ドアをノックする者があった。


「誰か。誰かいるか? 灯りが付いているようだが」

「これは、執事どの。このような夜更けに、厨房に何の御用でしょうか?」

「君は……ザッハか」

「はい。見習いのコックのザッハでございます」

「実は、ご主人様がな」

「宰相閣下が?」

「うむ。夜更けに急な客人があって応対しているところなのだが。客人が空腹を訴えておいでだ」

「あの、こんなことを申し上げるのも僭越ですが、随分と自由気ままなご客人ですね」

「仕方があるまい。相手は、お前に詳しく教えるわけにはいかんがやんごとなき筋のお方である」

「ああ、なるほど」

「他に、誰か起きているものはおらんか?」

「いえ、ぼくだけです。ちょっと、思いついたことがあって、タルトの試作をしておりました」

「ほう? それは今、ここにあるのか」

「ありますが……それが何か?」

「一切れ、ちょっとここに持ってこい」

「かしこまりました」


 執事はザッハの作ったトルテを試食し、破顔した。それは当時はまだ贅沢品だったチョコレートをスポンジにも装飾にもふんだんに用いて、そして隠し味としてアプリコットのジャムを利かせた、濃厚な味わいのケーキであった。


「なんだ。いけるではないか。では、もう二切れだ」

「まだ召し上がるのですか?」

「わしではない。ご主人様とお客人にお持ちするのだよ」

「え……えええ!?」

「否とは言わせんぞ。渡りに船とはこのことである」


 というわけで、若きザッハが作ったトルテは、メッテルニヒと、どこの誰とも分からぬ客人の腹に収まった。翌朝。


「ザッハ。ご主人様がお呼びだ」

「えっ。ぼくですか?」


 もちろん一人部屋ではないのでコック仲間がいる。なんだ、何をやらかした? 見習いコックが何をやらかしたら宰相閣下にお目通りなんてことが起こるんだ? と、みんなはどよめいた。


「お前がコックのザッハか」

「は……はい、宰相閣下」


 たいした用事ではない、すぐ済む、というそっけない態度で、しかしメッテルニヒは言った。


「昨夜のトルテだが、なかなかのものだった。ついては、褒美をやる。以後、あのケーキを、お前の名を冠して『ザッハ・トルテ』と呼ぶがいい」

「そ、それは……有難き幸せに存じます、閣下」

「うむ。用はそれだけだ」

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