ザッハの甘い嘘

きょうじゅ

1907年春、昼下がり

 二十世紀も初頭のある春の日、ウィーンはうららかな午後を迎えていた。緑の生い茂る公園の一角のベンチで、年も分からぬような老人がぽかぽかと日差しを楽しんでいる。


 と、そこに犬がだーっと駆け寄ってきた。人懐こいが、大きな犬である。老人が持っている菓子に興味を示したようだった。飛びつかれる。そこで、ようやく遠くから『待て』の声がかかった。若い娘の声だった。


「待ちなさい、おやめ、メッテルニヒ! ああもう、いけない子ね!」


 若い娘というよりも、子供と言うべき年か。身なりの良い、貴族の子弟とみるべき少女で、若い女の、しかし当然彼女よりは年上のメイドをひとり連れている。子守であろう。


「申し訳ありません、うちの犬が大変なそそうを。お詫びをさせていただきますね、御老人ヘル。ああせっかくのトルテケーキが」


 小娘の割には、気品のある、礼儀を弁えたものの言いようであった。老人はあごひげを揺らしてふぉふぉ、と笑った。


「構いませんよ、お嬢さんフロイライン。その子は、メッテルニヒというのですか」

「ええ。かつて宰相メッテルニヒのお名前をいただいたのですわ」


 ハプスブルク家に仕え、ウィーン会議などに功績を残した宰相メッテルニヒは、この日から数えれば半世紀近くも前に世を去っている。少女にとってみれば、歴史の一ページであるに過ぎないだろう。


「そのトルテケーキは、ウィーンのどちらでお買いになられたものでしょう? よろしければ、弁償とお詫びのしるしに、新しいものを買ってお返しさせていただきたいのですが」


 結局菓子は犬のメッテルニヒのものになっていた。クリームを舐めながら、尻尾を振っている。なお、犬にむやみに人間用の食べ物を与えるべきではないが、この時代にはまだそのような医学的常識を、誰も持ってはいない。


「ああこれね。これは、ホテル・ザッハのものですよ」

「まあ、ウィーンでもとびきり立派なホテルにお泊まりですのね、御老人ヘル。ウィーンへは、ご旅行でいらっしゃいますの?」

「いや、まあ、うん……そんなところかな。今はバーデン・バイ・ウィーンで余生を過ごしておりますから」


 バーデン・バイ・ウィーンはウィーン近郊の小都市である。


「エーファ、ホテル・ザッハの場所は心得ていて?」


 少女は連れのメイドに話しかけた。


「はい、お嬢様。ここからならば、そう遠くはございません」

「じゃあ、ザッハのトルテケーキを買って、ここに戻ってきて。急いでね」

「了解いたしました、お嬢様。けして、ここから離れないでくださいましね」


 エーファは小走りに、その場を離れていった。


御老人ヘル。お隣に、座らせていただいてもよろしくて?」

「構いませんよ、お嬢さんフロイライン


 老人と少女は、何というほどでもない世間話を始めた。


「本物の宰相メッテルニヒ閣下も、やっぱりザッハのトルテケーキがお好きだったのかしらね」

「ああ……そうですな。それについては、このじじいも一つ、知っている話がございます。一つ、お嬢さんフロイラインにお聞かせいたしましょう」

「まあ。どんなお話でいらっしゃいますかしら?」

「その昔。メッテルニヒ家の厨房に、ザッハという若い見習いの料理人が仕えておりました……」

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