未来の私と、あなたと、瑠璃色の星にこれを捧ぐ。

加賀倉 創作【書く精】

プロローグ

 僕の心は無だ。いや、そう思考している時点で無ではないのか。まあ、どちらでもいい。いずれにせよ、外の闇に吸い込まれて消え去ってしまうような感覚なのは確かだ。窓越しに満天の星を眺める。僕たち地上の民からは、星々は互いに隣り合っていて、近い存在同士に見える。しかし、実際には遠く離れている。それはまるで、日食の時の熱円と月の関係のようだ。外見上は重なって見えるのに、実際には約一億五千万キロメートルも離れていると、百科事典で読んだ覚えがある。そういえば先月その皆既日食かいきにっしょくとやらがあったのだが、日食の当日、僕は持病で意識を失い病院で寝ていたので、見ることは叶わなかった。楽しみにしていたのに、非常に悔やまれる。全てが思い通りになるわけではないのが、世の常だ。皆既日食を見たいという願望の箱があって、ふたを開けてみると見れなかった現実が入っていた、とでも言うべきだろうか。何事においても、表面と内面にはある程度の乖離かいりがある。だから、僕は物事の本質を見極める癖をつけている。後になって好ましくない見えざる事実を知って、辛い思いをするのは嫌いだ。


 夜空を見ていると、無限に広がる暗黒に吸い込まれるような気分になり、いつもこんなふうにぐるぐると考えが巡ってしまう。その思考の流れを止めたのは、闇を背景に鏡と化した窓に写る父の、低く眠そうな声だった。


「オネスト、父さんは先にいってるから、用意がすんだら裏山に来なさい」玄関にたたずむ、大きなハードケースを担いだ男の背中を見る。彼は薄汚れた作業着を見に纏い、縫い糸のほつれた中折れ帽をかぶっている。仕事の時の格好だ。世の中の休日の父親というものは、もう少しカジュアルな服で過ごすものではないか。その休日が我が子との時間であれば、なおさらだろう。僕は些細ささいな疑問を頭から振り払い、立ち上がる。考えることに意識が集中して、僕は返事をするのを忘れていた。


「オネスト、聞こえてるか?聞こえているなら返事をしなさい」そう口を動かす彼の横顔が見えた。ほうれい線が深い。しばらく会わないうちにかなり老けたようだ。


「うん、聞こえているよ、すぐ行くね」僕は慌てて返事をして、身支度をする。身支度と言っても、大層なものではない。懐中電灯と、記録用のスケッチブックと鉛筆があれば十分だ。僕はその三点をたずさえて、玄関を出る父の後を追った。


 玄関を出ると、辺りは真っ暗だ。が、空に雲はほとんどかかっていないようで、月明かりが道を照らしてくれる。今朝は雨だったが、足元は悪くない。なだらかな坂の向こうに、父の姿が見える。僕は駆け足で父の方へ向かう。すぐに追いつくことができた。彼はぼくに気づいた。


「思ったより早く来たな、足が速くなったんじゃないのか?」


 速いというのは、いつの僕と比較しているのだろうか。僕の記憶が正しければ、父とかけっこをした記憶はない。が、正論をぶつけるのはやめておこう。


「うん、クラスでは速いほうかも」


「そうか」質問したわりにはそっけない返事である。そんな僕と父との距離は人二、三人ぶん空いている。わざとそうしているわけではない。僕の体が、そうあろうとするのだ。その理由は恐らく、僕が彼を警戒しているからだ。


 僕が父と二人きりで何かをするのは、生まれて以来、今日が初めてだ。遊園地や博物館はおろか、買い物にも連れていったもらったことはない。もちろん遊んでもらったこともない。彼は一年中世界のどこかで土を掘っては何かを見つけ、掘り出したものを研究し、論文を書き、発表している。だから、時間と労力を我が子に費やしている暇などないのだ。そんな彼が今朝、何の前触れもなく、一緒に望遠鏡で天体観測をしようと提案してきたのだ。だから僕は今日一日中、気が気ではなかった。何かとんでもない知らせがあるのではないかと。


 沈黙が闇夜を支配している。が、僕が彼に話しかけるという選択肢は今のところはない。歩くのが退屈になって、耳をすませる。近くの茂みから、虫の音が聞こえてくる。その心地よい音色が、悲しくも静けさをいっそう際立たせる。


 静寂を、ゴツンという大きな打撃音が切り裂いた。音の方向に目をやる。その正体は、父が抱えていたハードケースの一つが落ちて、石にぶつかった音だった。


「これはいけない」ケースには精密機器が入っているのだろうか、彼は中身の心配をしているようだ。そして次の瞬間、僕は無意識に、ハードケースを拾い上げていた。


「手が滑ったよ。拾ってくれて助かる」目の前には、予想以上の大荷物を抱える男の姿があった。彼はケースをこっちに寄越せと言わんばかりに、手を差し出している。が、僕は何となく、彼にケースを返してはいけない気がした。


「僕が、持つよ」


 妙な気分だった。自分の口からそんな言葉が出てきたのは、優しさからか、同情からか、わからない。父の手をよく見ると、至るところに擦り傷や血豆があった。今にも破裂して、血がにじみ出てきそうだ。


「……ありがとう。助かるよ」さっきよりわずかに声色が明るい。父は突きだした手を引っ込めて、裏山へ向かって再び歩きだした。父に続いて歩こうと一歩踏み出すと、僕は何かを踏んづけた。


「おっと」父の革靴が脱げた。どうやら僕は父の靴のかかとを踏んでしまったようだ。


「あっ、ごめんね」とっさに謝る。


「いいんだ、気にするな」父は笑顔でそう言った。「ところで……話があるんだが」


 ギクリとした。


「なんの話?」恐る恐る尋ねる。


「お前に妹ができるぞ」


 不意打ちだった。が、悪い知らせでなくて良かった。妹か。それも十歳以上年下の。兄になるのは悪い気分ではない。いつ頃生まれるのか気になるところだ。


「ほんとに? いつ生まれるの?」


「七ヶ月後だから、十二月だな。予想では」


 十二月、年末か。今年はめでたく一年を締めくくれるに違いない。


「それとだな……もう一つ知らせがある」


 父は調子づいてきたのか、声に覇気がある。こうも立て続けに、せわしさは否めない。が、何となく悪い話ではなさそうだ。今度は何だろう。緊張が走る。


「来月は家族で旅行へ行こう。一ヶ月丸々使って。お前の誕生日も、旅行中に祝いたいな」


 僕は驚愕きょうがくした。父の提案に、先ほどの妹ができるという知らせ以上に意外性を感じた。おかしなことを言っている、とさえ思った。来月は僕の誕生日だが、これまで父が僕の誕生日を祝ったことはないし、プレゼントの一つだってくれたことはない。


「何か……欲しいものはあるか? 誕生日の、プレゼントに。ほら、おもちゃとか、本とか……何でも言ってくれ」声が少し震えている。


 父のたどたどしさはまるで、ロマンス映画に出てくる恋愛に疎い主人公が、勇気を振り絞ってヒロインに愛の告白をするかのようだった。そして僕の返事は、恋に夢中なヒロインのように即答とはいかない。何せ、プレゼントをもらったことがないのだから、簡単に思いつくはずがない。僕は悩んだ。そして、あるものが頭に思い浮かんだ。


「化石がほしいな」


 そうは言ったものの、なぜ化石を望んだのか、自分でもわからなかった。


「化石?」声が裏返っている。無理もない、父にとって化石なんて毎日仕事で飽きるほど触れており、特別なものではないからだ。


「うん」


「何の化石がいいんだ? 恐竜か、アンモナイトか?」そう聞かれたが、こだわりは特になかった。


「うーん……なんでもいいかな。父さんが選んでよ。あまり大きくないやつで」僕はあくまで、謙虚な子供を演じた。


「そうか、わかった。用意しておくよ、必ず」大袈裟おおげさに聞こえるかもしれないが、父のその言葉には、確固たる意志が込められているようだった。僕は、静かに頷いた。


 僕たちは裏山へと再び足を進めた。家から歩き出してから十分ほどで、だだっ広い草原が見えてきた。ここ一体の植物は、長らく誰も手入れをしていないので、至るところに背の高い草本類がぼうぼうに茂っている。夜風が吹くと、ほんのり青臭い。


 僕たちは、天体望遠鏡の三脚を立てやすいように、できるだけ草の背が低い平らな地面を見つけて、荷物を下ろした。僕がしゃがみこんで一休みしていると、父は一息もつかずに、ハードケースを開け、慣れた手つきで望遠鏡を組み立て始めた。父があまりに手際よく機敏に組み立てるものだから、僕が手を貸す隙などない。それに、部品を一つずつ絹らしきクロスで磨いていることからも、あまりベタベタ触ってほしくないのだろうと予想する。父が望遠鏡の本体、と呼んで良いのかわからないが、一番大きいパーツを取り出した。ひときわ存在感を放つ、その細くも太くもない長い筒を磨きあげる。まるで白い衣の隙間から生脚なまあしが伸びているようだ。官能的な美しさに魅了され、僕も触れてみたい気分になって、立ち上がる。


「何か手伝えること、あるかな? 僕も組み立ててみたいな」


「まずは父さんが組み立てるのを見ておきなさい。これは高価で繊細な装置だからね。後で組み立て方を教えるよ」


 父は返事をしながらも、組み立てのスピードを少しも落とすことはない。さっきから触れた箇所をクロスで執拗しつように拭くのが気にはなるが、幾つもある小さな部品を、一瞬の迷いもなく取り付けていく。脳を働かせながら組み立てているというよりも、一挙一動を手が記憶しているといったほうが正しいだろう。その様子は、まるでアサルトライフルを組み立てる救防隊員きゅうぼうたいいんのようだ。ベテランの曹長が、一分足らずで銃を組み立てのける姿を、大陸警察たいりくけいさつのドキュメンタリー映画で見たことがある。まあ、そうは言っても父は、銃火器には無縁なのだけれど。何世紀も戦争と言える大規模な争いは起こっていないわけだから、生きているうちに本物の銃に触れるのは、分国警察に入隊するか、大陸警察に入って救防隊員きゅうぼうたいいんや特別捜査官になる人くらいだ。あと、エイブラハム・カッシングのようなアクション映画俳優もそうかもしれない。が、僕のような子供でも、やはり銃火器の美しいフォルムには惹かれる。


「これをつければっと」最後のパーツを取り付けたようだが、それが何か僕にはわからない。「よし、完成だ」


 天体望遠鏡が完成した。望遠鏡というのは思ったよりも大きいもので、僕の背丈よりも高さがある。ずっしりとした太い筒の回りにはたくさんのネジとハンドルのようなものがついている。想像していたよりも扱いが難しそうだ。そして筒の下部からは、三本の細い脚がすらりと伸びている。その姿は、銃というよりは迫撃砲はくげきほうに近いかもしれない、訂正しておこう。まあ、銃だろうが迫撃砲だろうが、取扱注意であることにはかわりないだろう。もっとも、この美しい装置の先端から、弾丸や砲弾飛び出すはずはないけれど。


「見たい星はあるか?」と、父は僕に星の知識がある前提で尋ねる。


「ええっと、僕あんまり星のことがわからないんだけど、今の時期は何の星が見えるの?」己の無知をさらし識者に教えをう。知への第一歩だ。


「そうか、四年生の理科の授業では、星の勉強はまだだったか。熱円系ねつえんけいの惑星はわかるか?」さすがにそれは知っている、常識だ。


「うん、熱円ねつえんに近い順に、アーマーシー、ヌヴズ、エイザレス、スラム、プルテジ、ラナスト、アルヌス、ペンチューン、アルテップ」


「おお、しっかり覚えているじゃないか。まあアルテップは、個人的には惑星と言うほどの星ではないと思うが、今は目をつむろう。で、惑星たちは時期や時間帯によって見えたり見えなかったりするんだが、今夜によく見えるのはどれだと思う?」あなたの専門は天文学ではないはずだ、と思わずつっこみたくなるが、今は目をつむろう。


「エイザレスから近いヌヴズとスラムは見えそうな気がするけど」自信満々に答える。


「いい答えだ。だけど残念ながらこの時期に関しては、どちらも観測には適さない。まずヌヴズは、エイザレスよりも熱円に近いところを周っている。だから真夜中、つまりエイザレスが熱円に背を向けている時、視界にヌヴズは入りようがないんだ。ついでに言うと、アーマーシーも同じ理由で見えない」なんだ、間違いか。スラムの地表に宇宙人の基地がないかを見たかったんだけどなあ。そんなのはあるはずがないんだが、実際にこの目で確かめるまでは、存在を否定はできない。ああ、そんなことに脳のメモリを使っている場合ではない。今父が言ったことは小学生の頭には少々難しいようだ。説明を聞いて頭がこんがらがる。


「ちょっとわかんないかも」


「図にしてみるとわかりやすいぞ」父は懐中電灯で足元を照らして何かを探す。「お、これがちょうどいいな」そして目の前に落ちていた大中小三つの小石を拾い、それらを星に見立てて並べた。花こう岩、石灰岩、安山岩だな。なるほどこの花こう岩は赤みがかっているから熱円というわけか。


「この大きくて赤っぽいのを熱円としよう。この中くらいの白っぽい石がエイザレスで端っこの茶色い点が我々の立つ位置、それから二つの間にこの黒くて小さい石をヌヴスとする。いいな?」父が僕のほうをちらりと見たので、軽くうなずく。


「今は夜だ。だから茶色い点は熱円とは真逆の方向に来ている。そしてヌヴスはずっとエイザレスの軌道の内側を回っている、こんなふうに」父は間にある黒い石をぐるっと移動して見せた。


「どうだ、茶色い点から黒い石は見えそうか?」ああ、そういうことか。一目瞭然ではないか。


「この条件だと、確かに絶対見えないね」図は偉大だ。言葉ではわからなかったことがすっと頭に入ってくる。


「そう。ただし、熱円が沈みきっていない夕暮れ時や、明け方は綺麗に見えることがある。それぞれの惑星が軌道上のどこにいるかによるけどね」僕はそれを聞いて、今度は夕方にここへ来てヌヴスやアーマーシーが見たいと頼もうとした。が、父の話は止まらなかった。


「それからスラムなんだが、たぶん見えないだろう。今はエイザレスからかなり離れた位置を回っていて、熱円の裏側にある。見えるのは大分先だよ。次の大接近は六、七年後だから、その時また一緒に見よう」ずいぶん先の約束をするなあ。嫌ではないけれど。


「そっか、ならプルテジはどうかな?」


「それはいい選択だ。南の空にくっきりと見えるはずだよ。角度も調節するから少し待っててくれ」父は望遠鏡をプルテジの見えるらしい方角へ向け直し、あちこちをいじくりまわし始めた。一つの星を見るのにこの地道な作業が必要なのだから、天文学者ともなればよっぽどの変わり者に違いない。が、今僕の目に写っているのは、変わり者の学者ではなく、子のために面倒な作業に奮闘する父親である。遺跡を調査するときも、こんなふうに測量するのだろうか。


「おお、よく見えるぞ。のぞいてごらん」やっと天体観測の許可が降りた。まあでも、どの話も興味深いし勉強になるから、良しとしよう。僕はようやく望遠鏡に手を伸ばし、レンズのなかをのぞいた。


 黒い背景に、白、黄土色、茶色や赤褐色の縞模様の目立つ惑星が見えた。レンズ越しとはいえ、この目で生で惑星の姿をとらえたのは生まれて初めてだ。これがプルテジか、とても美しい、ずっと見ていられる。よく目を凝らすと、プルテジの横に、小さな点がいくつかあるのが見えた。


「夢中で見ているじゃないか。しっかり観察できたか?」その声はどこか誇らしげだ。


「うん、図鑑で見るよりずっと綺麗だね」本心でそう思う。父の望遠鏡の調整を称賛するわけではない。


「そりゃあそうだ。縞模様しまもようがはっきり見えただろう? あれはプルテジがエイザレスの倍以上の速度で自転しているから上空でものすごい風が吹くんだが、それで気流ができて、気流ごとに色が違って見えるんだ」はあ、なるほど。模様のできる仕組みなんて気にしたことがなかった。にしても、この人は天文学者に転職した方がいいのではないか。遺跡や発掘のことはちっとも教えてくれないんだから。


「それから、プルテジの横にいくつか小さい星が見えたと思うが」そうだ、気になっていたやつだ。「それはまとめて、パウチャー衛星というんだ」聞き覚えがある。確か偉い人の名前だった気が、自信はないけれど。


「そんな名前の人がいなかったっけ?」


「よく知っているな。そうだ、三百年以上前に、パウチャー・ポーチングという科学者がいたんだ。それじゃあ地動説と天動説はわかるか?」よし、そこは守備範囲内だ。


「知ってるよ。地が動いているか、天が動いているかの論争が、昔あったんだよね」


「その通り、そしてパウチャーは地動説を支持していた。今は地動説が正しいとわかっているが、パウチャーの時代は天動説が主流でな、異端扱いされたんだ」今の常識では考えられない。常識は疑わなければならないものだ。


「そうだったんだね。でもそれって衛星とはどんな関係があるの?」


「ここからが本題だ。パウチャーはプルテジの回りを回る星を四つも見つけてしまったんだ、パウチャー衛星をね。他の星は全てエイザレスを中心に回っているとされていたのに、エイザレス以外の星を中心に回る星が見つかってしまった。これが地動説の大きな裏付けの一つになったんだ」おお、そこに繋がるのか。見つけてしまったという表現が少々気になるところだが。


「それは大発見……大問題だね」たぶん文脈的にこの表現が正しいはずだ。


「そう! 大問題なんだ。当時流行りの宗教の経典に、天動説が正しいとあったからね。科学的根拠のある反論もなしに、ただ教えに反するからという理由で、彼はひどく非難された」異質なものを、頭ごなしに否定したり恐れることは愚かな行為だ。そんなことがあるから宗教には悪い印象がまとわりつく。彼の運命が気になる。


「パウチャーはどうなったの?」


「それから周りの人間は皆、彼を無視するようになって、孤独に生涯を終えたらしい。死後二百年ほど経ってから地動説は立証されたが、なんとも悲しいことだよ。歴史に残る大発見を、生きている間に認めてもらえなかったのだから」


 それを聞いて、僕の頭にふと、変な考えがよぎった。


「もし父さんが常識に反するような大発見をしても、僕は無視しないよ」


「そうか、ありがとう。優しいな、お前は」


 なんて変なやりとりだ。気恥ずかしいし仰々ぎょうぎょうしい。そうだ、変になるならとことんやるべきか。僕は続けて、父さんも僕や大事な人のことを何があっても見捨てないか、聞いてみたくなったが、それはこちらから無理に引き出すものではないと判断し、やっぱりやめにした。


「そうだ、望遠鏡の詳しい使い方を教えよう。まだのぞいてみただけだからな。組み立てと分解も知っておかないと」早く妙な空気から脱出したいと言わんばかりに、父が話を天体観測に戻す。


「そ、そうだね、それは聞いておきたいな」


 父は望遠鏡の使い方を詳細に教えてくれた。分解と組み立ての方法も、手取り足取り教えてくれた。さっきよりも少し距離をとられている気がするが、気にしないでおこう。言われた通りに一回目、二回目の分解と組み立てをする。三回目、ときどき指示を仰ぎながらなんとかできた。四回目、ゆっくりだが自力でできるぞ。五回目の組み立てで確信した。もう余裕そうだな。そう思ったところで父を見ると、満足げな表情をしている。


「もう全部ばっちりだな。四回で覚えきるとは中々だな。バイロン社製のかなり本格的な望遠鏡だぞ、これは」正確には五回だ。が、いちいち訂正するのも面倒なので触れないでおく。「それじゃあ倍率や角度を好きに変えていいから、空から自分が見たい星を決めて、望遠鏡で観察してみなさい」父は草の上に腰を下ろし、僕の方をじっと見る。そう急かさないで欲しい。自分のペースでやるから。


 星空を見渡す。さっき家の窓から見ていた時よりも、空の闇が深みを増して星が多く見える。僕が見たいと思う星はすぐに、目に飛び込んできた。これにしよう。肉眼では青白く見えるが、レンズ越しにはどのように写るだろうか。好奇心に駆られて、さっと低倍率の接眼レンズを手に取る。レンズは低倍率から。理科の実験で使った顕微鏡と同じだ。あっちは対物レンズの話だったっけ。接眼レンズをセットする。目当ての青白い星がファインダーの視野の中心に来るように、望遠鏡をゆっくりと動かす。右目でレンズをのぞく。視野の端に青っぽい星が霞んで見える、とても小さく。ここから微調整、望遠鏡をわずかに動かして視界の中心へ。そして、ピントを合わせる。合った。が、小さすぎてただの青い豆粒にしか見えない。レンズから目を離し、はやる気持ちを抑えて、慌てずに、慎重に高倍率のレンズに取り替える。再びレンズをのぞく。大きな丸いモヤモヤが写っている。ピントを合わせようとねじを回す。が、いつまでたっても合わない。何が起きている? 


「手を添えてると視野がブレるぞ」外野がうるさい。が、仰る通りだ。素直に従う。


 望遠鏡から手を離し、もう一度ピントのねじを回す。合った。青い星。瑠璃色るりいろの星だ。ところどころ綺麗なマーブル模様になっている。星の名前は? わからない。図鑑では見たことがない星だ。レンズをのぞいたまま、最寄りのアマチュア天文学者に呼び掛ける。


「この青いのは! 何ていう星なの?」それほど離れていないのに、大声を出してしまった。


「どれどれ、見せてみなさい」あまり気は進まないが、いったん父に僕の特等席を譲る。父が中腰になって、レンズをのぞく。五秒ほど、黙ったままでいる。


「知らないなあ」なんだ、知らないのか。やっぱりアマチュアじゃないか。「でも、綺麗で、なんだか親しみを感じるような星だ」


「父さんでも知らない星があるんだね」嫌味っぽく言ってみる。たまには生意気な息子を演じるのもいい。


「悔しいな……あ!」父が急に大声をあげる。思い出したのだろうか。だとしたらアマチュアからプロに昇格してしまう。それは避けたい。「オネスト、お前が名前をつけたらいいんじゃないか?」


「え、それはありなの?」その提案にはさすがに疑念を投じる。父が言うことにしては突飛すぎる。


「ああ、いいんじゃないか? 正式名称はあるにせよ、あだ名くらいなら」


 あだ名か。その発想はなかった。今世紀最大の名案だ。


「ああ、あだ名ね。それならいいかも」


「何にする?」


「そうだなあ……」


「早くしないと父さんが決めるぞ?」少し黙っていて欲しい。父のことは無視して、僕は脳内の辞書をパラパラとめくるのに集中する。が、いい候補が出てこない。そうか、既存のものに頼るのはやめよう。何となく、ぱっと思い浮かんだ三文字にしよう。そうだな……ア、ー、ス。


「アース」


「なんだって?」


「アース。アースにするよ。あの星のあだ名」


「アースか。いいじゃないか。由来は?」


「ない」


「え?」


「なんとなく、そうしたんだ」


「そうか、いいじゃないか」


 全て鵜呑みである。が、父とはそうあるべきだ、というのが僕の持論だ。いや、持論というよりも……願望かもしれない。


「お前が空を探せば、アースの他にもたくさん個性的な名前の星が見つかるかもな。色々見てみるといいよ」父は僕を天文学者にしたがっているのだろうか。まあでも星を見るのはマイブームくらいにはなりつつあるから、お言葉に甘えてもう少し見てみよう。




 ふと気づけば、星を十二個くらいは見ている。少々夢中になりすぎたかな。が、まだまだ見ていられる。今は暗いから望遠鏡でたくさんの星を観察できるけれど、ひとつ忘れている大物がいるのを思い出した。熱円だ。見えないものは存在を忘れてしまうものだな。僕はこの魔法の筒とも呼ぶべき偉大な発明品で、熱円を見てみたくなった。そうだ、昼間に友達と一緒に熱円を見る会を開けばいい。ついでに望遠鏡を自慢できることだし。父は望遠鏡を持ち出すのを許すだろうか。その父はというと、小一時間ほど前から草の上で仰向けになっていて、動く気配がない。と思った矢先、ナマケモノのごとく、おもむろに立ち上がった。


「オネスト、そろそろうちに戻ろうか。えーっと、今何時かなあ。暗くて針がよく見えないなあ」彼は下手な演技で何度も腕時計を確認している。彼が暗闇でも時刻を読めるように長針と短針にラジウムの蛍光塗料を塗っているのを、僕は知っている。時間はすぐにわかるはずだ。なんてわざとらしい。


「ああ、もう二十三時をまわっているじゃないか」彼は僕の方を見る。非常に圧を感じる。時計を見て、もうこんな時間。この物言いは遊びに夢中になっている子供に痺れを切らした親の常套手段であり、無慈悲な宣告だ。さっきは調子よく色々解説してくれたのに。僕はその男を一時間前の上機嫌な父だと仮定して、思いきって尋ねる。


「父さん、お願いがあるんだけど……今度この望遠鏡を持ち出してもいいかな? 友達と熱円を観察したいんだ」僕は断られてしまわないか一抹の不安を抱えながら、恐る恐る尋ねた。なぜなら、彼がこの天体望遠鏡を過剰なまでに丁重に扱う姿を、ずっと見ていたからだ。その望遠鏡を彼の管轄外に持っていくのを許してくれるかどうか、かなり怪しい。


「ああ、いいよ」予想に反して二つ返事だ。これは嬉しい誤算。「ただしひとつ約束してほしい」


「約束って?」堅物の頑固親父のことだ、壊したら何か罰でもあるに違いない。僕は少し身構えた。


「ここに遮光板しゃこうばんが入っているから、必ず使いなさい。望遠鏡で熱円を直接見ると、目に良くないからな」彼はハードケースから遮光板を取り出し、指し示した。


 なんだ、変に緊張して損をした。もちろん彼の言う通りにするつもりだが、日常的に浴びている光を、それほど警戒する必要があるだろうか。


「熱円の光はそんなに危険なもの?」と疑い混じりに質問する。


「知りたいか?」だるそうだった彼の目に、力が入った感じがする。共通の興味について語らい合う相手を見つけた学者の目だ。どうやら僕は、静かにせき止められていた知恵のダムの放流ボタンを、押してしまったらしい。さっきまで子供に帰宅を促していた付き合いの悪い父親は、どこかに消え去った。


「遮光板を取り付けるには、ここを開いてだな……」


 それから彼は、熱円観察にはらむ危険性を、事細かに講義してくれた。望遠鏡のレンズによって熱円の光が集まって強くなり、肉眼で見る以上に危険だから、遮光板で減光を施す必要があること。遮光板を通して暗くなっていても、長時間の観察は目に悪いこと。望遠鏡から目を離して肉眼で観察するとき、まぶしいと感じなくても、不可視光線の紫外線などが目に有害だから注意すること。そして、以上の点を無視すれば、最悪の場合失明の恐れすらあることを強調した。ここまで詳細に教えてくれるのは、優しさからだろうか。いや、彼の理屈っぽくて完璧主義な性格のせいだろう。


 講義の途中、余談と称して度々話が脱線した。熱円は化学反応でなく物理反応、中でも核融合で燃えているということ。可視光線と不可視光線の違い。不可視光線の中でも、赤外線は波長が長くて弱い光で、紫外線は波長が短くて強い光であること。どれも小学生の僕には、暗唱するのが精一杯で中身を理解するのは難しい。今度は僕の方が眠くなりそうなくらいだ。でも、内容が何であれ、僕は父が自分に時間を割いてくれることが、嬉しかった。


〈つづく。またどこかで会いましょう〉

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未来の私と、あなたと、瑠璃色の星にこれを捧ぐ。 加賀倉 創作【書く精】 @sousakukagakura

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