3 名女医あおいと手術看護師キリちゃん

 ヤブが作った診療所だから戸の建て付けが悪いのは仕方ないが、だいぶ前から開ける度に玄関の戸がガタン・パタン・ボキッ! ボッキキーと鳴る。

 今日も休診の札を下げているのに、ガラボコ・ビタンペタンと五月蠅い。

 大方急ぎの患者である。なばらヤブが祈祷する。

 吾輩は七の店から弁当の配達が来る時の他は出ないと決めているから平気で、もとのごとく日向ぼっこの縁でのたーりしていた。

 すると、ヤブは装甲車に突っ込まれたかのように怪訝な顔をして玄関を見る。

 松林の住人が置いている手紙の事で、刑事とか言うヤクザ者の相手をするのが嫌なのである。

 どうせ患者など滅多に来ない診療所なのだから、ヤクザ刑事が嫌いなら朝早くから吾輩を連れ海へ散歩に出ればいいものを、それ程の体力も無いタダのデブである。

 私は貝になりたいとばかりのヘタレ根性無し。引籠ってもいいが、運動不足は何とかならんものであろうか。


 しばらくすると診療所から女人の声がする。

「山武先生いらっしゃいますかー」

 ここにはヤブの医師仲間がたまに遊びに来る。

 診察を手伝ってはバーベキューなる宴を催す。

 たいていは二三人が数日の泊りがけで、吾輩と同じ部屋を寝所とする。

 祈祷師仲間はここを別荘と言っている。診療所の別の呼び名である。

 二つ名はロクデナシが吾輩の認識で、ここではヤブばかりでなく建屋までもが悪党の一味である。

 今日ヤブを訪ねて来たのは医師仲間の紹介だとかで、名をあおいと言う。

 どういう訳かヤブの診療所で働きたいと来たあたり、いかに医師として優れていても、少しばかり問題が有る。

 正常な判断能力に、著しい問題を抱えた女であるに違いない。

 常人であるならば、今にもおっ潰れそうな診療所で就活する者はおらん。

 あおいをヤブは嫌がっていたが、土産のウイスキーに目が眩んだか。酒の箱を見るなりあっさり診療所の住人として受け入れた。


 あおいが診療所にやって来てからというもの、吾輩は何一つ不自由無い生活を送っている。

 寒い夜は外で用を足すのが辛かろうと、ヤブが設置したまでは良かった砂箱も、あおいが来るまではなかゝ清掃が行き届かないでいた。

 今では何時でも気持ち良く用足しができる。

 あおいには、以前吾輩が住んでいた女主人が家の下男に似た卑下た様子はない。

 それどころか、日にゝヤブにきつい口調で命令する機会が増えている。

 ここに住まってから一週間ほど身の回りを整えていたが、そのうちにヤブと同じように患者と話し込む時が増え、終いにはヤブが診察室から追い出されてしまった。

 今ではヤブは吾輩と一緒に散歩したり、友人から貰った執筆の仕事をする毎日を過ごしている。


 あおいも【あおい先生】と患者から呼ばれるようになっている。

 してみるに、あおいも医者である。

 ヤブと違い、医者の中でも極めて優秀な女医と呼ばれている。



 あおいが来てから半年ほどたっての事、吾輩が何時もの如く寝床でゴロニャンしていたら、ヤブがあおいに「何でここなの? 君ならもっと良い病院で勤まるよね。僕から学ばなくても腕の良い医者、他にいっぱいいるよね」と話しているのが聞こえて来た。

 少なからずその件については吾輩も同感で、何時か聞こうと思っていたが、こんなアホ垂れの診療所に住まわなければならないとは余程に深い事情が有っての事と気の毒で聞けずにいた。

 デリカシーの欠片も持ち合わせていない奴は、躊躇なく人様の心臓をえぐる質問を投掛けられる。

「傷物にされたから一生面倒を見てもらうの」物騒な話になってきた。

 そこまで恨まれるような傷害事件を起こしておいて、よくも今まで知らん顔して居られたものだ。

 ヤブの無鉄砲ぶりにはホトゝ呆れ返る日々だが、こやつは生まれつきのヤンチャ野郎である。

 とんと記憶が無いと知らぬ存ぜぬの一点張りで、もはや怒る気にもなれん。      


 元来ヤブは真ん丸体型に無精髭を伸ばし杖をつきゝ歩いている様から、決して女人に好かれる者では無い。

 それが、少々薹が立ってはいるものの、そこゝ美形でワンレンボデバデボーの女医が、むさ苦しい診療所に同居しているのである。

 近所の評判に成らん筈も無く、次第に噂が広まり祈祷待ちが増えている。

 勘定をしてみると従来の五百%を上回る繁盛で、診療所に用事は無いが、近所にある爺婆の住処からわざゝ通ってくる者までいる。

 これが人間の好奇心なのかと実に感心する現象である。

 極め付けの不細工で引籠った男を、何故にあおいのような女子が慕ってるのかといった処で、大きな間違い小さな出来心である。

 勘違いしている爺婆に教えてやった。

「傷物のされたとかで賠償を求めておる」すると「ヤブがあんな別嬪を傷物にできるはずねえ」ますます奇妙な事態になってしまった。

 傷物とはチャイゝをいたしてしまったのだと逆に教えてもらった。

 ならばそうと最初から言ってくれれば分かったのに、であるならば、ヤブはチャイゝの事さえ忘れてあおいをポイしたまま今まで放置していた事になる。穏やかでない。

 もしかしたらとの疑いなど微塵も無かった。意外過ぎる展開である。

 思い起こせばあの時「あのさ、悪いんだけど記憶ないんだよね」などとしらばっくれていた。

 責任感が欠落しているのは知っていたが、なんとも失礼な発言である。

 好感度の針が振れるなど在り得ず、計り様のない体たらく男だが、目の前のアラサーが恥ずかしい過去を告っているのに記憶が無いとは、政治家にも劣る発言である。 

(※ ここで追記しておくが吾輩の言うアラサーは「around thirty」が意味する二十七才から三十三才では無く、粗方三十の二十五才から三十五才までを指している)

 浮気な男ならばギンゝとてかっているものだが、この男は人口の少ない田舎の診療所で隠居と同じ生涯を送っている。吾輩には到底理解できん。

 あおいの律儀が可哀想である。


 長い事あおいを哀れんでいた。ところが、後から知ったのがこの場合の傷物とはどれも遠く当たらずで、話の方向が想像していたチョメゝと違っていた。

 若い頃ヤブに手術という術を施され、あおいは一命を取り留めていた。

 この手術とは、以前エアコンのボックス席で見た祈祷を遥かに上回る高度な術で、あおいの体をあちこち切り刻んだのだと言う。

 何とも荒っぽい術であったのに、よく成功したものだ。

 そんな事が有ったので、洒落て傷物にされたと言っていた。

 そりゃそうである。誰が好き好んでこんなボケナスを慕うものか。

 恋心ではないが、密かにあおいのファンクラブ会員番号零零零一番としては気が気で無かった。

 この一件が有ってから、吾輩は安心して昼夜構わず寝られるようになった。

 ちなみにファンクラブ会員番号零零零二番はクロである。


 あおいの猫族に対する分け隔て無い姿勢に感激したクロは、毎日あおいに会う為遠くの海岸からやって来る。

 思い切って吾輩の別荘に越して来いと誘ったが、車屋の主人に随分と可愛がってもらっている。それをこっちの方がいいからプイッと行方をくらます畜生には成りたくないと、忠義を尽くして車屋に住まい続けている。


 毎日通うから心なしかクロの体が鍛えられ、ボディービルダー並の筋肉質になってきた。

 今まで以上に親分猫の風格が出てきている。

 あおいの影響からか、病人達がクロを蹴り飛ばす事もなくなった。

 今ではクロと吾輩が並んで、診療所のウッドデッキなる西洋風縁側で日向ぼっこをするのが晴れた日の光景となっている。


 ここに来て不思議なのは、人間には猫語を解する者とそうでない者がいる。

 それはずっと以前から分かっていたが、ヤブの周りの者はその殆どが猫語を解しているにも関わらず、相変わらずヤブは猫語を話せないし解せない。

 誰も教えてやらないのだから覚えようもないがの。


 猫族においては画期的なスットコドッコイ以外は少なからず人の言語を理解する。

 日本語・英語といったややこしい理解ではなく、人の吐く音が意味として理解できるのである。

 であるからして、通訳などという厄介な者に仲立ちを頼まなくとも済む。

 それが人間と来た日には、己の吐き出す言葉でさえ互いに通じ合えないのだから奇態である。


 猫語を解している者が多いからか、最近はクロと申し合わせて松林へ頻繁に行く。

 楽しみの一つと言うべきか楽しみの総てと言うべきか。何時でも林の住人は美味い飯を食わせてくれる。

 ヤブはどうもここの飯が口に合わないらしく、遊びに来る時は弁当を持参する。それも、林に住まう者の分まであおいに作らせている。

 言って悪いのは分かっているが、最大限にひいきしても林に住まう者達の料理の方があおいの作る弁当より美味い。

 それなのに世辞など言わない松林の住人達が、あおいの弁当を美味いゝと食っている。

 実に不可解な光景である。


 吾輩は何時も林の住人が出してくれる飯をいただく。

 クロが一緒の時は、魚には骨が無いので丸呑みしても平気だとか、赤くフニゝした長いのは酸っぱいから止めておけと説明してくれる。

 車屋の主人が雑貨屋の主人と昵懇で、同じ飯をよく貰って来てはくれるのだそうだ。

 どうりでクロは図体もデカく毛色もいいのだと納得した。

 この美味い飯を、ここいら界隈の人間は廃棄弁当と称している。

 話の細を考えると、殆どは車でも特に性質が悪い大飯ぐらいの大口ゴミ収集車が食ってしまう。

 それでも、少しばかりは我々猫や宿敵の犬などにも回って来る御馳走である。


 とりわけ松林の住人はこの廃棄弁当が好きで、夜なゝ七の店に忍び寄って素早く泥棒してくる。

 ヤブが近所でネギをかっぱらうのはよく見るが、何処へ行っても盗人と詐欺師はいなくならない。

 それは人間も猫も同じである。

 しかしながら人間と言う奴らはトコトン変な生態を持っている。

 同類である人間が人間の物を盗み、盗まれるほどに良い物を大口のような役立たずの化け物にタダで食わせている。

 間の抜けた仕草と笑うばかりである。

 勿体無い事に、ヤブは祈祷の礼に差し出される廃棄弁当を断っていた。

 吾輩が同居するようになってからは快く受け取ってくれると、松林の住人達が喜んでいる。

 やはりここでも吾輩は偉いのである。



 ヤブがふざけながら南京豆を上に投げては大きく開けた口に受けてボリゝ食っている。

 そのうち椅子からコケ落ちやせんかと期待して見ていたら案の定、大きくよろけて椅子から落ちて尻もちをつきよった。ざまーみやがれ。あおいの祟りじゃ!

「ヤブ先生! 忙しいんですから、遊ばないで下さい。それと、前々から言っているナース求人、早くしてください」いささかあおいの機嫌が悪い。

 こんな時もあるので雲行きの怪しい時は、クロを訪ねて海まで散歩に行く。

 海に行けば漁港も近く、漁の有った日は網から零れ落ちるイワシを目当ての猫が集まって来る。


 人間は船の者に金なる紙切れを渡してイワシを貰い受けて行くが、吾輩は落ちた物を頂く。

 普段ならば拾い食いなどと下品な食い方はしないが、こと漁港のイワシは別物である。

 取って来たばかりでピッチゝに新鮮な物で、下品も上品もなく皆して喰らい付く。

 人間がカニを食う時の様だと漁師が言った。

 カニと言うとハサミチョキゝの固ったい奴であろうが、あやつは殻が固いばかりで体も小さく身など幾らも無い。

 あんな物を人間は我等がイワシを食う時のように有難く食うのかと思うと不思議でならない。

 何度かヤブにカニだと言われて食った物があるが、塩辛い蒲鉾のようで、イワシに勝るほどに美味いものではなかった。

 第一に、カニの特徴であるハサミも甲羅も無い。

 人間が高級と言う食材の知識については車屋のクロなど眼中にないが、事高級と縁の無い者だから知っているのではと思い、人間がカニと言って有難そうに食っている蒲鉾は何だと聞いてみた。

「そりゃタラバってんだよ。カニ風味かまぼこって言ってな、俺の主人もよく食ってら。蒲鉾の一切れ二切れ頂戴したからって怒られやしねえんでよ。随分とつまみ食いさせてもらってるぜ」

 流石に下水道並の消化器を持った猫である。あのように塩辛い蒲鉾を日に何切れも食うとは、高血圧で頭の血管がブチ切れるのもそう遠い先ではない。


 人目を忍んで間食をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。

 前の主人であった女房などは、よく亭主の留守中饅頭を食っては昼寝をしヨダレを垂らしていた。

 女房ばかりではない、現に悪魔の教育を受けつつあるジャリ餓鬼にもこの傾向があった。

 猫族にはつまみ食いの願望が強く、特にクロは近所でも評判の泥棒猫である。

 既につまみ食いの域を超えた犯罪者となっている。


 四五日前の事だが、馬鹿に朝早くから二人の小供に追い掛けられているクロを見掛けた。

 まだヤブやあおいの寝ている間に、路向こうの空き地で追いかけっこをしている。

 クロの口元を見れば、人間が毎朝食うパンを銜えている。

 大方、朝食を例のすばしっこさで失敬してきたのであろう。

 それにしても朝も早くからパンの一切ればかりで猫を追いかけてくるとは、人間といえどもやはりそこはまだ子供である。

 腹は減っていないのか、パンを盗まれたのであればまだ朝食は済んでおらんのに元気なものだ。


 診療所でパンは滅多に食わんで、毎朝ヘルシーな和食が出てくる。

 ヤブは胃腸の具合が悪いので和食派であったが、あおいが朝餉の支度をするようになってからは尚更純然な和食になっている。

 忙しい中でも、丁寧に吾輩の分まで毎度の飯を作ってくれるあおいに悪く、ついゝパンが食いたいなどと言えんでいた。そこにこのパン泥棒である。

 吾輩はクロに加勢し少々のパンを分けてもらうため、ジャリ餓鬼どもの前に飛び出し唸ってやった。が、簡単に蹴り飛ばされ気を失った。


 何時もの様に朝餉の支度に起きたあおいが、クロの銜えたパンを見て事情を察し、近くの雑貨屋からパンを買って来てくれた。クロと吾輩の分。

 これからはパンやら飯を何時も用意しておくから、泥棒はするなと叱られた。

 叱られはしたが、クロは分け隔てなく猫を見るあおいが増々気に入った。



西洋風縁側の昼寝でゴロチンしていたら、見慣れぬ【トラック】と呼ばれる車の仲間がやって来た。

 ブー・ブベーっと挨拶している。

 車は我等猫族にとっては繁殖期の天敵であり、にっくき親の仇である。

 しかしながら、馬や牛の如く人を運び荷物を運ぶ。

 人間にはいたって重宝されており、一仕事終えた後などは主であるべき人間が車の背中を流し、綺麗にしてやったりしている。

 誇り高き猫族でさえ、昼寝中の車の上に乗ろうものなら即座に追い払われる。

 車は人間界にあって、我々猫族よりも信頼され親しまれている族である。

 我らの貴重な御馳走を馬鹿食いする野蛮で能無しの大口でさえ、毎日のように油屋に行っては人間からしこたま油を頂戴している。

 どれ程に美味い油か一度味見したが、車は野蛮で味覚神経が鈍化しているとみえ、頗る不味い油であった。

 それでも、猫が行燈の油を舐めたら化け猫だとか、台所の油をクンクンしただけで泥棒猫とぶちのめされる事からすれば、一日中油のゲップとも屁ともつかぬ気を出し続けても絶えない程いただける身分は羨ましい限りである。


 診療所の前にどっかと横付けした奴は、二トントラックと呼ばれている。

 背には山ほどの荷物を担いでおり、どこから乗せてきたのかは知らぬが、荷の重さで背中が真平になっている。

 この姿を見た時、流石にトラックとやらが気の毒になって、四つについた足の一をスリゝして労をねぎらってやった。

 ついでに軽くもよおしてきたので、ほんの少量だが小便を放り掛けてやった。


 本来ならば、車は寝るか死ぬかしない限りはブーブーと何時でも奇怪な油の気体を熱せられし管より吐き続けている。

 ところが、こいつは余程疲れていたとみえ、診療所に就くや否や早速に寝てしまった。

 吾輩がいくら語り掛けても、クロが下水のような小便を丸い足に放り掛けてもお構いなし。まるで死んだかのようで、熱かった呼吸管や頭に体も次第に冷たくなってきた。

 吾輩の豊富な経験と知識による総合的診立てでは、こやつは死にかけているか既に死んでいる。いや確実に死んでいる。

 死後硬直の状態にある。

 しっかりと彼方此方が固くなっている。雄か雌かは定かで無いが、固くなっている。 

 おーいヤブ! 早くこやつに祈祷を施さねば、ゾンビとしても使えない奴になってしまうぞ。


 決して車族は好きではないが、目の前で果てゆく者を見過ごすのは猫道に恥じる行為。

 吾輩とクロは頻りとヤブに車の祈祷を訴えたが、如何せんコヤツは猫語を解さぬトウヘンボクである。

 こんな馬鹿者を相手にしていても始まらんと、診療所の奥で車から降ろした荷の整理をしていたあおいに祈祷を頼んだ。

「そうね、死んじゃったら大変ね」ゆるりゝ車の方に歩き出した。

 そのようにのんびりしていてもいいのかと思ったが、あおいはヤブより数段優れた医者である。その祈祷の段違いであろう事は普段から患者に慕われているのからして瞭然。

 車の祈祷を始める頃には背に載せられた荷は総て降ろされていた。

 あおいが車のキャビンと称される頭の中に入るや否や、たちどころに息を吹き返した。

 流石に近所でも名医との誉れ高き祈祷師。

 吾輩等の診立てでは完全に死して後は腐るのみ。

 既に死した車を毎日見ているクロの診立ても有っての事、確かな死亡診断であった。

 どんなに頑張ってもゾンビ化が限界かと思っていた者を、いとも容易く地獄の淵から引き戻した。

 いやーこれには腰が抜ける程たまげた。


 トラックには背のすらりとしたなで肩の綺麗に化粧した女と、その娘であろう何気なく姿顔形の似通った少女が乘っていた。

 着ている服は何時か見た事のある看護師とかいう者達が着ている服で、十二三歳の娘は薄紫のワンピースを恰好良く着こなし、二人とも上品に見えた。



 トラックでやって来た母娘がこの診療所に住まう事になり、夜にはクロも招待され歓迎会が開かれた。

 新人の名は手術看護士のキリちゃんと言うのだが、長ったらしいので皆からキリちゃんと呼ばれている。

 遙か昔に困った事が有ったら何時でも訪ねて来いと、偉そうな事をヤブがこの母御に言っていたとの事実が露呈して宴会の肴にされている。

 それにしても、娘と一緒に診療所で面倒を見るというのも尋常な話ではない。

 きっとヤブの隠し子であろう事は、猫の吾輩でも見当がつく。

 この母御、ヤブが傷物にしたあおいと上手くやっていけるのであろうか。

 一見二人はニコヤカに会話しているが、心の内はいかがなものであろう。


 キリちゃんの娘の名は忘れてしまった。

後でクロに訊ねたが、やはりクロも忘れていた。影の薄い娘である。

 しかたなくキリちゃんの娘の何とかちゃんと呼称していたが、その内に何とかちゃんが通り名となった。

 何とかちゃんは優れた者で、診療所に住まってから一月もせんで、あおいと吾輩の教授で美しく正しい猫語を話せるようになった。

 この事は界隈の猫間でも評判となった。

 優秀なる猫の子でさえかように自在と猫語を話せるまでに三月はかかろうものを、人間にしておくには惜しい逸材であるとの評判が、翌月には隣町にまで伝わった。

 もはや何とかちゃんは猫界の伝説である。


 何とかちゃんが試してくれと創ってきてくれたRPG。

 吾輩とクロが挑戦していると、深夜に戸を叩く奴がいる。

 外から頼りない声を出しヤブを探している。

 以前もこんな事が有ったが、どうせロクな事では無い。

 知らぬふりを決め込んでゲームにのめり込もうとしているのに、クロと何とかちゃんが野次馬に乗り気である。

 しかた無く、こうこうこんな事だぞと話して聞かせたが、それならば尚の事覗いて見たい。と、一人&一匹が祈祷場覗きに興じている。

 女風呂なら覗きもするが、今更祈祷場など。

 しかし、吾輩だけ残ってゲームというのもいじけた様で分が悪い。


 付き合って覗いてみると、ここの処頻繁に出入りしている刑事と呼ばれる奴が来ている。

 こやつは合法的に拳銃を持ち歩いている地方公務員という種で、尻と足から血を流し祈祷台に横たわっている。

 今回はリアルな生贄の儀式である。覗いて良かった。

 後に何とかちゃんから、この祈祷場を処置室とか手術室と言い、祈祷台には寝台とか手術台の名がある。

 妖力の強い魔物に憑りつかれた患者が、自力で動けない時に使うのが本来の姿であると教わった。

 しかし、ここではヤブの昼寝台としての利用が最も多い。


 ヤブは寝台上の男を【クロ】と何度も呼んでいる。

 クロと同じ呼び名であるが、特に黒いというのは頭髪くらいの物で、頭髪の黒いをもってクロと称されるのであれば、この界隈に住まうほとんどの者がクロとなってしまう。

 人の名というのもまた不思議なものであって、容姿に似合わぬ名が実に多い。

 現にこのあいだは患者の中に梅なる婆がおったが、吾輩が名付けるならば梅干しである。


 祈祷が終わり、隣の部屋で人間のクロが休んでいると、クロの相棒で北山と言う男が診療所にやってきた。

「だあから、あいつらに近づくなっていったっぺなあ」 北山の第一声である。

 えらく怒っていたようで、関わり合いたくも無いので吾輩等はそそくさ退散した。


 これも何とかちゃんに教わったのだが、祈祷の事を治療とか手術と言い、吾輩の部屋は病室とするのが本当である。


 人間であるクロの病室で、北山がヤブと何やら相談している。

 先ほどクロとヤブとがやりあっていた祈祷料、治療費というのだが、その費でもめている。吾輩の部屋まで会話がダダ抜けである。

 人は金という物が絡むとロクデナシになる。ヤブも例外ではない。

 ここでまたもやの不思議で、ヤブは普段診療所にやって来る患者からはこの祈祷料、治療費とやらを受け取っておらん。

 おあいもまた同じで、ときたまやってくるヤブの医者仲間も同様、患者の誰からも金なる物を受け取っておらんのである。

 人間の間では、それこそ我らが猫族の脳にも匹敵する程に貴重かつ必要不可欠であるのが、銭金だと猫の間では言われている。

 それがこの診療所では、金より日々の食い物の方が大切で、治療費の代わりと言いながら患者達は食い物を置いてゆく。

 これならば我ら猫族でも理解できる等価交換。やはり食い物が一番である。

 チョイと前に金を拾ったクロが、あまりにも腹が減ったと金を喰ろうて死にそうになった。

 金とはそれほどに恐ろしい物なのである。クワバラゝ。



 人間のクロと北山が久しぶりに診療所にやって来た。

 ヤブと何やら深刻ぶって話していたが、ものの数分で二人は炭やら網やらを引っ張り出している。

 準備しているのは、ヤブが暇さえあれば食っているバーベキューという料理である。

 吾輩と猫のクロ。このバーベキューはどうも好きになれん。

 素焼きならば嫌いでは無いが、人間は焼いた食材に、美味い美味いゝと言ってダラゝ付けているタレが嫌いなのだ。

 最近ではあおいが皆に言ってくれたので、我等の分はプレーンで出される。

 もう少し気を使ってもらえるならフーフーしてからにしてほしいが、普段の食事と違って人間はこのバーべキューがとことん好きである。

 気が回らんほど余裕なく、ガッツリと食うのが唯一バーベキューを食う時のマナーだとあおいが言っていた。

 普段食い意地が汚いヤブや刑事共ならば許せるが、この時ばかりはあおいも何とかちゃんもキリちゃんも、こぞって忙しく食いまくっている。


 吾輩は普段から焼いた物より生の方が好みであると言ってあるから最初のうちは生が出て来るが、焼煙が立ち昇り辺り一帯に焼肉の臭いが広がる頃になると、焼かれた物が芝やらレンガの上に置かれる。

 拾い食いに馴れているクロならまだしも、吾輩にまで皿無しで食えといった態度で実にけしからん。

 時が夕刻に近ければ酒が出て来る事もしばしばで、この様な宴に出くわせば、吾輩のみならずクロも酒を飲ませてもらえる。


 酒を飲む度に思うが、人間は何故に猫が酒を飲むのを面白がって見るのであろう。

 自分達こそ酔うてヘラへロしているそんな時でさえ酒を勧める。

 我らもたまには腰を抜かすほど飲んでヘタレる時もあるが、人間を見ていた方が断然愉快である。

 人間は猫よりも自分達の方がはるかにイカレタ生物であり、その生態は全地球の中の生物でダントツにヘンテコであるのに気付いていないようである。

 其の事を吾輩とクロは酔う度に話して笑う。

 あおいも何とかちゃんも一緒になって笑う。

 決して酔っているのではない。ウィッ、ヒェック!


 結局、患者も混じって昼からの宴となってしまうのは何時もの事で、まれにであるがこの宴の最中に、患者の具合が悪くなって救急搬送される事がある。

 当然だが他の病院への搬送である。

 そのような事態になった時点で、ここにはシラフの者が一人もいない。 

 これも極々まれにであるが、まだ救急処置が必要な者がいるかもしれないと本部に連絡を入れ、救急隊員が一名現場経過観察と称して居残る事がある。

 救命士の相南で、こやつは下戸であるにも関わらず酒好きの変わり者である。 

 居残って過ぎたる酒に溺れ、診療所で吾輩と同室の夜明かしを何度かした事がある。

 今日も救急で来た時に恨めしそうに見ている相南に、皆が声をかけ居残りとなった。

 コヤツ、父親が地域で権力を振りかざし有らん限りの悪さをしつくす市長という位にある。

 本人は消防署でやりたい放題のヤンチャだというのをあおいから教わった。

 あおいは吾輩よりもずっと後からこの診療所にやって来たのに、地域の事情に詳しく患者の爺婆とも以前から知り合いであったかのような親睦である。

 なによりも関心するのは、地域についての情報量が異常に多く、とにかく疑問があればあおいに聞けと猫界では評判の生字引きとなった。

 あおいを下部にしてやっている吾輩のランクも、ここの処鰻登りである。


 誉めてやろうと思いあおいの膝でゴロニャンしていたら、クロの親戚でもあるのか黒猫を刺青した車が荷を降ろし始めた。

 車に親戚がいるのか聞いたが、クロも吾輩同様身寄りの無い者。出生の云々や育ち・親戚・縁者については全く知らない。

 勿論、嫌な車族に親戚がいたとしても吾輩はクロを嫌ったりはしない。


 途中から加わった相南とクロが、その夜吾輩の部屋に泊まった。

 夜中、ヤブの部屋から押し殺したような会話が聞こえて来たが、面倒事に巻き込まれるのは好みでは無い。

 本当にヤブが絞殺されていたら厄介なので放っておいた。

 すると、ヤブが大穴を掘り始めた。

 あおいとキリちゃんまで手伝っている。

 こうゝと点けた灯りで、悪い事してないもんとでも言いたいのか。何が何でも悪行にしか見えない。

 相南はというと死んだかもしれない、息をしていない。

 三人に教えてやろうとしたが、何とかちゃんが「忙しそうだから、おっさんはほっときなよ」

 人間がそういうのであれば吾輩はよいが、クロが冷たい奴の隣では嫌だと、吾輩の寝床に潜り込んでいるのが臭い。


 相南の事は放って置くとしても、どうにも気になって穴を覗きに出てみた。

 既に相南の死は知れており、死骸を埋める為ではと予想していたが、どうも様子がそうでは無い。 

 穴の中には人の死体がそっくり入る程の木箱が既に埋けられている。

 これから埋め戻すので、ユンボの奴がブーブーと偉そうに唸っている。

 ユンボと言う奴はほとゝ怠けた者で、年に何日も起きて働かない。

 それなのにヤブはこやつを好いていて、暇さえあれば撫で回している。

 冷たくゴツゝして固い皮膚に、ムカデのような足は不気味である。

 しかし、普段は極めて大人しい奴なので、ヤブが座ってブーゝとはしゃぐ鞍の上で寝かせてもらう事もある。

 このユンボが、珍しく夜中に働いている。

 尋常でないのは理解したが、はてさていったい誰の死体が詰まっているものやら。

 人間は死すると概ね葬儀という儀式を経験する。

 猫の場合は、主の有る無によって自然に任せたり寺に葬られたりと色々だが、人の葬儀は生き残った者が寄ったって執り行うのが常である。

 それを夜の夜中に僅かの人数で、灯りを点けているとはいえ人目を憚っているのは明白。

 およそ罪も無い者を殺したか除霊に失敗して死なせてしまったか、もしかしたら悪霊を封印して埋めているか。


 穴とは不思議な物で、見るとどうにも我慢ならなくなってしまう。

 つい、吾輩はクロと穴埋めに猫の手を貸してしまった。

 悪い事であったならば共犯になってしまうが、猫の好奇心は生半可な言葉で封じられる物では無い。 

 あおいは御札を埋めているのだと言う。

 どれ程多くの厄を封じて来たのか。

 もっとも、毎日のように患者がやって来る。

 これくらいたまっても不思議ではない。

 それならば堂々としたものである。

 何とかちゃんにも手伝わせようと提案したが、キリちゃんに止められた。

 御受験とかいう試練の準備で忙しいのだと諭されたが、そのわりには日々吾輩と談笑する時間が生活の殆どを締めている。いいのであろうか。


 大量の御札を埋めた後にはテントを張って、吾輩の大好きなコタツを置いてもらえた。

 手伝った吾輩とクロへの褒美である。いやー、良い事はしてみるものだ。

 一つ、あおいから吾等は任務を授かった。

 テントに近付きコタツをどけ御札を掘り出そうなどという不逞の輩が来たらば、すぐさま報告するようにとの任である。

 それならば言われずとも率先してやってやる。


 その夜中に、夜食とは思えん豪華な飯を御馳走になった。

 寝ぼけた相南が起きて来て、何とかちゃんも混じってこれまた深夜の宴となってしまった。

 戯けた怠けの吾輩でさえ、コヤツ等の所業にはついてゆけない時がある。

 クロは何も考えず、ただゝひたすら酔っているだけで、なんとも脳天気だ。

 この家にあってはその方が過ごしやすそうで、吾輩もつまらぬ事でグチゝ考えず適当にコヤツ等と付きおうて行く覚悟である。

 とりあえず、美味い飯さえ食わせてもらえればいい。

 しかし、今日の飯は美味い。


 殆ど徹夜明けの朝。吾輩は少々呑み過ぎである。

 見張りついでにと入り込んだテントのコタツでしっかり寝入ってしまった。

 ボヤボヤしていると朝も早いというのに何やら賑やかで、痛い頭にとどめを指すような大声がテントの中に響く。

 二人の刑事が、ヤブとヤバいだのデンジャラスだのと聞き馴れない言葉を使った会話をしている。

 何かの符丁であろうか。

 会話がバラスだの腕を借りるだのと、シュールな前衛小説になっている。

 それにしても昨夜だか今朝だかはよく飲み食いしたにも関わらず、またもやヤブと刑事が宴の支度をしている。

 よくも飽きず毎日怠惰な生活をエンジョイできるものだ。

 かく言う吾輩も同類と言えば同類だが、ここの処ヤブの体重の増え方は常軌を逸している。

 一方ならぬ宴を続けているせいで、吾輩も自重せねばヤブやクロにようになってしまう。

 猫としての美しいプロポーションは絶対的価値である。そう容易く失う訳にはいかん。

 これからは用心しながら暴飲暴食をすべきであろう。


 一通りの言い伝えが終わって、それでも何かと話があるのか刑事等と共に、特別に盛り上がりもしないが急降下するでもないダラゝした寂しい宴が今日も開かれている。

 人間のクロが治療を受けた日あたりから、こやつ等のトゲゝしい態度が一変し、妙にヤブになついている。

 チョクゝ診療所に顔を出しては、海岸までせっせとあおいの作った不味い弁当を運んだりしている。

 吾輩は松林の住人が作る廃棄弁当煮込みが好きである。

 ときたま居合わせた時は、一緒に海まで行く仲になってしまった。

 こやつ等を吾輩もクロもあまり好かんのだが、黒い道を渡るのには都合がいいから仕方ない。


 暫くすると、診療所にやたらと厳つい顔の男が刺青をちらつかせて怒鳴り込んできた。

 テントまで聞こえた声は凄まじく恐ろしげである。

 キリちゃんの亭主とか言う者で、体格も頗るよろしい。

 亭主と言えば女主人の所にもいた。

 ならばキリちゃんの下男に当たる者なのに、やけに威張り散らして機嫌が悪い。

 キリちゃんはと言うと、素早いフットワークでテントの中に隠れ入り「シー! 居ない、居ないからね」

 これはまた尋常らしからぬ事態。


 吾輩はふとどきな亭主に意見せんがため診療所に向かった。

 すると、既に北山がキリちゃんの亭主とにらめっこをしている。 

 ガタイの違いは明らかで、北山が超能力者でない限りあの様に屈強な男を倒すなど出来ぬと思えた。

 吾輩とクロは、どうせ軽くぶちのめされるとニヤケていたが、北山は大男をすんなりと追い返してしまった。

 刑事という族は常日頃ゴロツキのように診療所や海岸辺りで善良なる市民に嫌がらせをしている者だが、誠に今日ばかりは偉い。

 してみるに刑事という種は、女主人の家にいた時よく来た借金取のような者とばかり思っていたが、まんざらそうとも言い切れん。

 身成素行からしてこやつ等は、ヤクザと呼ばれる組織の一員であると吾輩は悟った。

 ヤクザについてクロから詳しく聞いてみると、車屋にも時々極道とか言うヤクザが来る。

 刑事と同じような事をしているとの事であった。

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