日陰のぬれつり干しがちょうどよい罪と恋の話

よなが

ささやかな奇跡

 物語が最初の山場を迎え、残り時間表示が三十分となり、誰かがやってきた。

 私の視線は膝上のハードカバーに並ぶ活字から、目の前で音を立てて回り続けるドラム式洗濯機、そして出入り口の自動ドアのほうへと移っていく。

 雨降りの晩春、午後八時のコインランドリー。一人きりが二人きりに変わった。


 雫の滴る雨傘を傘立てに突き刺す彼女。恰好は薄いグレーのジップパーカーに、七分丈のテーパードデニム。推定、二十歳前後。おそらくこの近くで一人暮らしをしている大学生だ。


 空模様よりはましだが今にも泣きそうな顔をしている。手には白色半透明の大きな袋。市で指定されているゴミ袋であるのを示す黒字。中に入っているのは布団のようだ。察するに、急遽コインランドリーを使わざるを得なくなったのだろう。


 キュッ、キュッ、キュッとスニーカーの湿った底を鳴らして彼女が店内を歩き始める。それと同時に私の意識は文字の羅列へと戻る、この数年で何度も読み返した長編小説に。そのはずだった。

 チャリンチャリンっと。洗濯機の前まで来たであろう彼女が「きゃっ」と小さく声をあげて小銭を数枚、床に落とす。しかもそのうちの一枚はどういうわけか車輪の如く駆けて、とうとう私の足元まで旅をしてきた。

 私は隣の空いている椅子に本を一旦移してから、前に屈んでその銀色の桜を摘み上げると、立ち上がって彼女のもとへと近寄る。

 ひんやりとした硬貨を手渡すと、大事そうに受け取る。そんな彼女が口にした「ありがとうございます」の「あ」はひどく上擦っていた。そしてどういうわけか私の顔をまじまじと見つめてくる。


「どうかした?」

「えっ。あっ、いや、掛け布団っていいんですよね、洗って」

「ええ、そのサイズだったら入りきると思う。洗濯表示は確認した?」

「いちおうは、はい」

「それなら問題ないはず。……カバーをつけたままみたいだけれど?」


 ゴミ袋の中、ボタニカル柄が見えた。私の指摘に彼女が「カバー」と復唱し、そして数秒、ぽかんとしたかと思えば「ああっ!」とさっきとは違う質の声を上げた。


「そっか、カバーだけ洗えばいいんだ……」


 意気消沈してうなだれる彼女に私はつい苦笑いする。


 その後、彼女が袋から布団を取り出し、汚れたカバーを外して、大小二種類ある洗濯機のうち小さい側にカバーを入れて……と一部始終を、椅子に座り直した私は何となしに眺めた。


 洗濯機が回り始める。彼女と目が合う。照れ笑いを浮かべながら彼女が私の二つ隣の椅子へ座った。


「疲れたバイト終わりに、勢い任せで料理なんてするものじゃないですね。コンビニで適当に買って食べればよかったです」


 そう言ってから彼女は、私が広げ直した本に目を落とし、そして「話しかけてもよかったですか」とおそるおそるといった調子で上目遣いをよこしてきた。


「ええ、大丈夫。ちなみに何の料理?」


 本を閉じ、私は体を彼女へと向けた。本の世界にはいつだって戻れる。けれどこの出会いはきっと一度きりだ。ロマンスを期待してはいないが、どうせ時間をつぶすなら過去の思い出より新しい関係を選ぶほうがいい気がした。


「トマトスープパスタ。具材は、冷蔵庫の残り物をうまいこと利用して。一人暮らし始めてからもう一年経ちますけど、そういうのちょっと憧れていたんです。やりくり上手みたいだから」

「へぇ。どうしてそれを、布団カバーが飲むことになったの?」

「神出鬼没の目薬のせいなんですよ」


 よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの面持ちで彼女は話す。昨日の朝から行方を眩ましていた目薬の責任なのだと。


 パスタを完成させた彼女は盛り付けた皿を鼻歌混じりに、なんだったら小躍りさえしてキッチンから洋室のテーブルへと運ぼうとしたらしい。ところがそんな彼女のステップは床にひょっこりと姿を現した目薬のせいで崩される。

 彼女の足はもつれ、絡まり、あえなく転倒してしまい、その両手にあった皿は一秒に満たない空中浮遊の末に布団へと墜落した。


「勘違いしないでくださいね。私の部屋ってそんなに散らかっていませんから。むしろこまめに掃除しているので、いたって清潔で整頓されている空間なんです」

「でもね、目薬は一人で勝手に出歩かないし、一般的に神出鬼没という言葉と結びつかない。ただ、曰く付きの部屋であるなら別かもしれない」

「まさか霊的な存在の仕業ってことですか」


 半笑いで返してくる彼女に、私は「ひょっとしたらね」と笑い返した。


「それで言うと私、お姉さんのこと、一瞬だけ幽霊かと思いました」

「あら、心外」


 わざとらしく私は肩をすくめてみせた。


「ごめんなさい。ただ、夜のコインランドリーで綺麗な女の人が暗めの色の服を着て、背筋をぴんと張り、分厚い本を読み耽っていたら、なんだか妙な感じじゃありませんか」

「そんなふうに客観的に描写されると、わかるようなわからないような。とりあえず、綺麗っていうのは褒め言葉として受け取っておくね」

「ぜひ。これがたとえばですね、真昼で半裸のおばさんがスマホをいじりながら、洗濯が終わるのを待っているんだったら、また違った印象を受けたと思います」

「ふふっ。それだけ状況に差があったら誰だって違う印象を持つって」

「ところで――」


 彼女が微笑んだまま、その栗色のショートボブを軽くかきあげ、閉じられた本の裏表紙に眼差しを注いできた。


「これ? 読書家ってわけじゃないの」


 私は本をひっくり返して彼女にタイトルを示す。やっぱり、という顔をする彼女。万人向けの小説で、数年前のベストセラーなのだから読んでいてもおかしくない。


「知っているのね。本は好き?」

「それなりにです。これもちょっとした憧れなんですけど、外でハードカバーを読んで、絵になる人間になれたらなって」

「重くて硬いだけ。おすすめはしない」

「なのに、読んでいるなんて。もしかして何か思い入れがある本なんですか」


 まだ名前も尋ねていないままの彼女の瞳の奥がきらりと光った。直感が働いたのだろうか。たしかにこの本は私にとってただ重くて硬いだけの代物ではない。


「ねぇ、よかったら聞いてくれる? この本のこと。ううん、私の罪のこと」


 冗談めかして言おうとしたのに、思いのほか冷たく、低く空気を震わせて、彼女に届いた。果たして「罪?」と聞き返した彼女のには戸惑いの表情が浮かんでいる。


「安心して。大犯罪ってわけじゃない。それにあなたに赦しを乞うつもりもないから、これは懺悔でも告解でもなく……そうね、単なる過ちの告白」


 そう語る私自身がまるで小説の中の登場人物のように感じた。そしてそれは彼女の側も感じ取ったのか、小さくうなずき、咳払いを一つして芝居がかったふうに返してくる。


「ここで巡り会ったのも一つの運命ですね。どうか聞かせてください、その物語を」


 私はもったいつけるように彼女から視線を逸らし、遥か遠くでも見る振りをして洗濯機の残り時間表示を確認した。


 理想的には私の洗濯物が乾燥まで終了するその時きっかりに話し終えられればいいが、そんなにはもたないかもしれない。

 簡潔に話そうとすれば五分もかからず、エピローグに辿り着く。そんな話だ。

 それはとうの昔に頭の中で整理されていて、誰かに明かされるのを待っていた過去だ。作られた物語。


「この本はね、ある人から盗み取ったものなの。その点で裁かれる罪に相違ない。それでも敢えて弁明するなら、悪意はなかった。憎悪や敵意もないどころか、私はその人に恋をしていたの。もうこれだけで核心部分は話し終えたに等しいわ。そう、恋愛感情を拗らせて、好きな人の持ち物を盗み去った愚かな少女。それがかつての私という主人公。

 ……今から十年近く前、まだ高校生だった頃よ。相手は同じクラスにいた、眼鏡をかけた物静かな男の子。理知的な顔立ちをしていた。とくに親しかったわけではない。本当に時々、何かの拍子に一言、二言、個人的なことを話す仲。それに加えて、教室で耳にした一言一句から、私は彼がどんな性格なのか、どんな考えを持った人間なのかを膨らませては、その夢想を自ら破って、縮まることのない距離感を直視し、悶々としたものよ。

 私も含めて誰も私と彼とが恋仲になるのを望んでいなかったし、その可能性すら頭になかったと思う。それでいいと私も諦めていた。遠くから見ることさえできればってね。ねぇ、こういう気持ちって『一般的』の範疇よね?」


 黙って耳を傾けてくれていた彼女は、急に同意を促されたにもかかわらず平然と「たぶんそうです」と応じた。


「ある日の放課後。いいえ、ある日だなんて言ったけれど、しっかり日付まで覚えている。それはクリスマスがちょうど一週間後に迫った冬の放課後だった。私は生徒が全員帰った教室、誰もいないそこへと入ると、例の子の席に座ったの。どんなふうに授業を受けているのか、その視点をどうしても直に知りたくなってね。そして机の中に手を入れた。 

 あれ?って思った。何か置いていくタイプじゃないのは知っていたから。わかるよね、そこにあったものが何か。ええ、この本なの。この分厚いハードカバーがその机の中に残されていた。私は手にとって最初の数ページを読んでみた。そうすることに罪悪感なんてなかった。置いてけぼりをくらった本を少し読んでみるだけだって。もしも続きが気になったら自分で買って読めばいい。それをあの子との会話の糸口にすればいいってぐらいの感覚だった」


 そこまで一気に話すと私は目を軽く閉じて、しばらく思いを馳せた。


 二つ分の回転、水音。それから呼吸。


「けれど最終的に私はその本を持ち帰った。正当化する気はないけれど、その子との関係を深めるのを諦めきっていた私は思い出がどうしても欲しくなったの。

 卒業すれば離れ離れになると確信していたからこそ、私はその本をあたかもその子の魂の一部のようにみなして、奪い去り、そして永遠に自分のもとに残そうとした。……なんてね。こう言うと、おとぎ話の魔女みたいだけれど、現実としてはただの本泥棒。

 今日に至るまで独り身のままで未練がましく、事あるごとに引っ張り出しては何度も読み返し、こんなコインランドリーにまで持ってきているのは……奇跡が起こるのを待ち望む心を捨て切れないから」


 彼女が絶妙なタイミングで小首を傾げて「奇跡って?」と尋ねた。


「たとえば、こう。大人になったその子と道端でばったり再会する。思いのほか、二人の会話は弾み、どこか静かで落ち着ける場所に入る。穏やかに流れる時間の終着点で、私は覚悟して本を取り出す。潔く謝り、真相を打ち明ける。あなたは本がなくなったことを帰りの電車か駅の待合室か、とにかく教室以外のどこかに置き忘れたと思い込んだみたいだけれど、実は私が盗んだんだって。あの頃、私はあなたに恋をしていた。許してほしいとは言わない。ただ、この本を受け取ってほしい。ここにある物語は読まれる価値のあるものだからって。その子は笑って受け取ってくれる。かくして二人は別れ、それぞれの世界に戻っていく」

「再会した二人は結ばれないんですか」

「そう。私はシンデレラより人魚姫が好きみたい」


 まだ少女と呼べた頃からそうだったかはわからない。少なくとも今は、幸福な結末を読むと考えてしまう。それはいつまで続く幸福なのかと。

 私は本の表面をそっと撫でる。黄ばんだ薄い文庫本だったらとっくに捨てることができていただろうに、いつしかこの重さも硬さも愛しくなっていたのだ。


「この小説もね、手放しにハッピーエンドと言える最後でないの。賛否両論があるんだって。けれど私は好き。終盤にこんな一節がある。『今更になって気づいた。どんなに耳を澄ましても聞こえなかったのは遠すぎたからだ。世の中、隣にいても遠すぎるってことがたくさんあるんだ』……この馬鹿馬鹿しい感じが狂おしいほど好きなの」


 それが話の締めくくりとなった。


「ごめんね、変な話をしちゃって」

「いえ……」


 彼女がぎこちない笑みをして言葉を濁す。まだあどけなさが残るすっぴんだ。普段は大人びた顔をつくっているのだろうか。


「ねぇ、よかったら。うん、あなたさえよければ、この本を貰ってくれる?」


 そう言いながらも私の手は既に本をしっかりと持ち、彼女のほうへと渡そうとしていた。この本と決着をつけるなら今日この時しかないように感じた。そしてこの子は相手に相応しい。そう思って、改めて彼女の顔を見た時、私は動揺した。気づいたのだ。


 ――――あの子に似ている。


「お姉さんの話には、嘘が三つほどありますよね」


 そう口にした彼女は本ではなく、本を持つ私の手に軽く触れた。その柔らかな声がますます私の心をざわつかせる。


「嘘……?」

「はい。まず一つ目は、十年近く前ではなくて実は三年前の話であり、お姉さんは高校生ではなかったということ」

「もしかしてあなたは――」


 一瞬で空席が詰められ、彼女の細く白い指先が私の唇に触れ、発言を許さない。


「二つ目は、意中の相手は男の子ではなく女の子だったということ。眼鏡をかけた長い黒髪の日陰者。得意な教科は現代文だけで、演劇部の幽霊部員。そうですよね、


 私は言葉を失った。驚きの後に込み上げてきた羞恥で頰が火照るのがわかる。

 他でもなく当事者に私は語りきかせ、否、騙りを聞かせていたのだった。


 彼女の指が離れる。


「元・教え子であることに気づかないなら気づかないでいい、そう思っていたのにあんな話をされるとは予想外でした。さすがにこのまま、本を受け取って帰るわけにはいかないですよ」


 かく言う彼女の側もコインランドリーに入ってきてすぐに私だと気づかなかったそうだった。それはたとえば、私たちがいた高校というのが隣県の公立高校であることや、当時の私が図らずとも彼女と同様にその髪を肩にかかるまでの長さに保っていた事実による。


 私は昨年、今いる県にある私立校の教師に転職して引っ越しもした。そしてそれを契機に髪をばっさり短くしていたのだ。

 とはいえ変貌ぶりで言えば、彼女には劣る。私が密かに想いを寄せていた年下の女の子の面影は目の前の彼女にほどんどない……いいや、しかと残っているに違いない。


 私がただ彼女を思い出に閉じ込めてしまっていただけ、あの頃の私が惹かれながらも決して触れられなかった少女をほとんど何も知らなかっただけ。


「それでその、三つ目の嘘のことですが」


 おずおずと放たれた彼女の言葉で私は我にかえる。しかし彼女ともう目を合わせられない。開き直ると、私の気持ちそのものは罪ではないと思う。本を盗んだ以外に、私は彼女に何か害を与えた覚えは一切ない。

 秘めていた想いが思わぬ形で本人に伝わり、それを彼女が拒もうともそれは私の罪ではない。


 そのうえで逃げ出したくなった。いっそ泡になって、ぱちんと消えてしまいたい。そう心から思った。


「先生? いいですか。こっちを見ないでいいですから、ちゃんと聞いてくださいよ」


 緊張している声色だ。彼女はまだ私の隣にいる。三つ目の嘘に心当たりがなかった。


「さっきのあれです。シンデレラより人魚姫という話。あれも嘘ってことにしませんか」

「どういう意味?」

「私は王子様ではないし、この本はガラスの靴ではありませんが……えっと、密かに想いを募らせていたのは先生だけじゃないって意味です」


 彼女を見る。目を見開く。そうせずにはいられない。そこにあるのは、からかっている顔ではない。まるで恋をしている少女の表情だ。胸が締めつけられる。


「あの、ほら、私もう二十歳なんで。いろいろセーフですよ」

「そんなことを平気で言っちゃうあたり、まだまだ子供ね」

「平気なんかじゃないです。……本気ですから。だって、この再会って奇跡ですよね?」


 私自身が言い出した手前、笑い飛ばせない。待ち望んでいた奇跡。ビターエンド。でも、現実だったら? ハッピーエンドとどっちがいいかで悩む必要なんてないはずだ。


 私たちは互いに想う。

 二人分の沈黙、温度。それから吐息。


 新しい物語は最初の山場を迎え、残り時間を気にすることはなく、誰も来ないようにと切に願った。

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