第80話 理解し合えない二人
数分もない会話ですぐ晴夏かつての彼女に『特別』を烙印されて、さすがに平然な表情を保てなく、「え?」ってなった。恋人なら言わなくとも誰だって特別だろうし、わざわざ言うくらいなら、六花ちゃんが教えてくれたことから見れば何か事情がある。
グラスを元の位置に戻し、葵さんは私の驚きに目もくれず、顔を伏して黙り込んだ。
こんな状況はどう話を続けさせのは、あんまり経験がない。
話題を変えるのも、私たちの間は晴夏の話題しかないし、どう変えても結局同じところにたどり着く。自分もここで彼女の傷を深めるだけの更なる特別エピソードで追い打ちするほど、鬼ではない。
シーンとなり、ビールの芳醇な匂いが漂うこの二人しかいない空間はビアパブから聞こえてくる賑やかな音と対照的に、怖いくらい静かだ。
「さっき家で言ったよね。もう同棲している?」
静止していた空気は葵さんの悔しそうな声で再び流れ始める。気にしていたんだな、あの時表情も声も複雑だったから。
「いいえ。晴夏の家は学校近くなので、よく泊まりに行くだけです」
「そう…ってか、あんた何歳?酒も飲めるからさすがに成人したか」
「もうすぐ22になります。今4年生です」
「は?同い年?」
本日二回目の驚き、こちらの理由はあんまり見えない。
「そうです。というか、葵さんと同じ学年なのは知っています。晴夏から色々教えて貰いましたので」
「知ってるならなんでずっと敬語?年下かと思ったじゃん。気味悪いな」
そういうことか…
本当葵さんの気にするところは私にとってどうでもいい物ばっかりで、気が狂う。年上だろうか、年下だろうか、同い年だろうか、私は彼女への接し方を変えるつもりはない。
「初対面の方にため口は失礼だと思っています。それに、私は葵さんとため口で喋れるような関係を築く予定もありませんので、これくらいの距離感は一番いいかと。あっ、葵さんはため口のままで構いません」
「あんた可愛い顔してて、言ってることは結構直接で全然可愛くないな」
「褒め言葉として受け取りますね」
「好きにして。話戻るけど…晴夏の家、泊まるところか、私入ったことすらない」
前後並んで3階に上がった途端、彼女は私の方へ振り返って、唇を嚙み、表情も最初晴夏を見た時の暗さに戻った。
確かに私は実家に招いた最初の人だけど、一年以上付き合ってたみたいだし、一人暮らしの家はさすがに入ったことあるだろうという普通の考えが頭を過る。
「実家のことですか?」
「いや、一人暮らしの家。え?ちょっと、まさか今ホテルじゃなくて実家に泊めて貰ってる?」
葵さん前半の答えに衝撃を感じ、ほろ酔いから覚ました。脳がざわついたせいで、彼女後半の責めるような質問に「あ、はい…そうです」と心ここにあらずな返事をした。
晴夏が築いてた壁は、私が思ってるより大分高かった…今思えば、年初彼女のテリトリーに足を踏みいれられたのは、幸運と言うべきだった。
「そう…」と、一番弱気になっちゃいけない私の前に羨望な眼差しを投げた後、葵さんは周りのビール製造原材料と機械を眺めながら語り始める。
「あんたが知る晴夏と私が知る晴夏は、きっと人違いのほど違うだろう。もちろんめちゃくちゃ優しいよ、それは晴夏のデフォルトだから。顔だって爽やかで可愛さもあるイケメン女子だし、友達の集まりに連れて行っても、博識で話も面白いし、同性故にできる細やかな気遣いバンバンするから、最初晴夏と会ってない時私をディスってた友達にも羨ましがられてた。正直いろんな意味で気持ちがいい。良すぎて、彼女たちに見せつけるため、しょっちゅう晴夏をその集まりに連れて行った…」
「友人に見せつけるためって、そういう考え方おかしくないですか?晴夏はあなたの道具ですか?」
始めは晴夏ならよくある話だけど、発展は聞けば聞くほど不愉快になり、つい口を挟んでしまった。葵さんは純粋に晴夏が好きだと思っていたのに、ただの思い込みか…でも、私の思考を断たせてくれたのは、隣から聞こえてくる諦め切ったような無気力の声だった。
「あんたにはわからないよね、恋人なはずなのに特別感がなく、義務的な甘い対応しかしてもらえない虚しさ…」
こう言った葵さんの暗い顔に悲しさと悔しさの色が濃くなり、私を見てる目も少しうるうるになった。
「例えばキス。キスして欲しいを言わないと、晴夏からのキスは基本ない。最初こそ恥ずかしいとか思ってたが、付き合う月日が重なっても変わらなかった。私を好きになったから、激励のために大学受験の約束を交わしたと思ったのに、いざ付き合い始めたらずっと私だけが好意を寄せてる。ふんっ」
自嘲のような乾いた声に、返す言葉もなかった。すでに六花ちゃんから聞いた話が本人から語ると、こうも違うのは、込めた気持ちが根本的に違うだからだろう。ほんの少し前彼女へ芽生えた負の印象も、芽の状態で摘まれた。
「私の気持ち全然わかってくれないし、記念日も覚えてない。サプライズ?誕生日の時一度しかなかった。家に行きたいを何回言っても、いろんな理由で誤魔化される。恋人なのに…でも、友人の羨ましい視線を浴びて、私はやっぱ晴夏の彼女だなという謎の満足感が生まれ、虚しさが埋められた。だから、私がそれに縋り付いて何が悪い?」
「すみません、やっぱり私には全く理解できない考えでした」
「そんなの分かってる。理解して貰えるとも思ってないし」
鼻から息を吹き出し、小さい台に乗り上がった葵さんが私を見下ろす視線は永遠に分かち合えない怪物を見ているようだ。
得られない者ほど心を騒がせ、愛されし者ほど余裕でいられる。
彼女は前者、私は後者、物理的立ち位置は彼女が上だが、心理的になると、私の方がずっと上だ。好かれている立場から好かれたい彼女に物言いをするのは気が引ける。何せ彼女と比べりゃ、私には晴夏の愛という絶大な後ろ盾があるから、元から対等な競争関係ではない…と思っている自分も相当上から目線、憐憫ですらあると自覚している。
だから、私は言葉ではなく、淡々たる視線だけを返した。
「…その余裕で自信満々な目、本当嫌いだわ」
「葵さんに好かれたいなんで、これっぽちも思っていませんので、大丈夫です」
「まあ、それはこっちだって同じさ。あんたは丁寧に振舞ってるけど、心の中はきっと私を見下してる。いいよな、晴夏に愛されてて…」と、苛立たしい口調を隠せない彼女は、また急に羨ましさが混じった弱音を吐いた。感情の変わり幅がジェットコースターのようで、追い付くのが大変だ。
「晴夏本当は私が好きじゃないことくらい、分かってるよ。優しいし、私の要望も基本満足してくれるから、好きなふりも嬉しいんだ。だから、私も分からないふりをした。でも、やっぱり私があげた愛と対等な物、本物の愛が欲しいんだ。あんただって同じだろう?」
それは…反論する余地もない。正論をぶつけて来た彼女に頷くことしかできない。
恋愛関係の中で求める物は人それぞれだけど、結局本質は全部対等な関係、対等な愛に辿り着く。見返りを求めない恋愛関係なんで存在しない、一方的な愛が導くのは歪んだ関係しかない。人はそれを望まないし、逆に苦しまれる―
「私を抱いたら何か変わると思った。雰囲気の作りやすい旅館に入ればさすがの晴夏も成り行きでするだろうと、温泉旅行を仕組んだ。それは見事に玉砕した。脱がされても、晴夏は私に欲情できない。ごめん、できないんだ…ED男みたいに謝った。恥捨てて強引にしようとしても、私を拒んだ。それで悟った、わからないふりをして自分が想像した泡沫のような偽物の愛を受け続けても、何の意味もない」
続々と語られた彼女視点の彼女と晴夏の過去に軽くめまいがした。
晴夏はただの叶えてあげられない願望と思ってさらりと言ったことが、もう片方の当事者から肉が削られ、血がドバドバと流れる生々しい傷口として目の前に晒された。
心底私は愛される方でよかったと思った。晴夏に拒まれる、この言葉だけでもうゾッとした。体験するなんで考えたくもない。
普通今の彼女にこんな話したいなんで思わないし、話したって余計惨めになるだけだと思う葵さんは一体どう言う意図で私にこれを語ったのか、すごく知りたくなった。
「なんでわざわざ傷口を抉るまで私に話すのですか?」
脳を通すこともないほどの速さで疑問を彼女に投げた。そうしたら、葵さんは見学コースの指示に従って階段から2階へ降り、吹き抜けから1階の席へ視線を注いだ。その視線の先は、料理を頬張りながら談笑する晴夏と薫さんだった。側面から見る彼女は口角が少し上がって、愛おしさと優しさが目から滲み出て、私と話す時の様子と全然違った。
「あんたに不安を植え付けて、その隙を突いて晴夏を奪い返したい―」と、予想外な言葉が返って来て、驚きと困惑が私の頭に浮かぶ前に彼女はすぐ言葉を続いた。「―なわけないわ。3回目の玉砕はさすがにもうごめんだ。そのこいつバカかと思っているような呆れ顔をしまっといて」
「あっ、すみません」
そんな方法は私に絶対通じないくらい、彼女も分かってるだろうから、冗談であっても聞いた瞬間はつい顔に出てしまった。
「そんなの、私晴夏が好きだからに決まってんじゃん。そして、あんたは私が晴夏から欲しがっていた物を全部手に入れた。あんたがどれくらい幸運で幸せなのか、私の惨めな過去と比べれば、尚分かりやすくなるだろう?」
「そんなことしなくても、私は分かっています。私に分からせる必要なんで、どこ―」
「あんたなんかのためじゃないからな。晴夏のためだ」
なんで私が自分の幸せであることを分からせたら、晴夏のためになるんだ?わからない。思考回路が平行線になっていて、私はやっぱり葵さんと理解し合えない。でも彼女の顔は至って真剣だ。真剣すぎて、怖いくらい。
「…どういう意味、ですか?」
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