悠梨

第8話 ピッツァ作りのロボット

 








 化粧、よし。髪、よし。服、よし。

 あとはお土産、よし。




 大きく長い深呼吸して、目の前のインターホンを鳴らす。

 初めて来た時は私がオートロックを開錠して、マンションの中に入ったけど、今回は客らしく家主いえぬしの許しが出るまで外で待たないといけない。応答を待つこの短い時間に、緊張と期待がどんどん高まっていく。




 2回目なのに、入る流れが違うだけでこんなにも心情が変わる。

「ピンポーン」の音から数秒、インターホンから「はい、ゆうりちゃんー入って」の声が聞こえて来た。オートロックのドアが開け、私はお土産を持ってはる先輩が住むマンションに入った。




 エレベーターはあるが、はる先輩の家は3階の角部屋なので、階段から上がることにした。3階登ることで息は上がらないけど、自分の緊張を誤魔化すための理由付けには丁度いい。




 3階に到着し、階段の出口から右へ曲がり、真っすぐと端っこまで歩いたら、はる先輩の家に着いた。

 ここにもチャイムを鳴らす必要がある。

 手を伸ばしてドア隣のチャイムボタンを押したら、また「ピンポーン」の音が鳴った。インターホンの音と違って、もっと軽快的な響きだ。




「はーい」




 ドアの奥からはる先輩の声がした。その接近してきた声が耳に入り、心臓の鼓動はさらに速くなった。

 バタンっとドアが開ける音と共に、はる先輩の姿が現れる。上下共にライトグレーのトレーナーとルームパンツ、いつも通りの紺色縁のメガネ、家での格好は研究室に居る時と比べて、もっとラフ以外、雰囲気はさほど変わりがなかった。





「ゆうりちゃん、上がっ…て」





 言葉はちょっと詰まっていた。

 はる先輩は感情が顔に出やすいタイプの人じゃないと思っている。でも、今彼女の驚きで固まった表情とじっと私を見つめる瞳が、やはり私が『特別』だと教えてくれた。

 見惚れすぎだよ、はる先輩。

 作戦成功だ。





「上がってと言っているのに、中に入れる道はないけど?」

「…あっ、ごめん。入って」





 はる先輩は手でドアを押さえながら私を玄関に入らせる。

 2回目入ったこの玄関はちょっとだけ変わった。塗りイカ戦士のグッズはそのまま靴箱の上にあるが、出しっぱなしのスニーカーはもうない。その代わりにフローリングの上はすでに来客用スリッパが置かれていた。部屋に上がる前に、はる先輩に渡さないといけない物がある。手に持った紙袋をはる先輩胸くらいの高さに上げる。





「はい、お土産」

「え?」

「今日ははる先輩の奢りだけど、一応家にお邪魔するから」

「わざわざありがとう。有難く頂戴いたします」

「おかきなので、はる先輩も食べられると思う」

「じゃあ、あとで一緒に食べましょう」





 はる先輩は嬉しそうに紙袋を受け取って、リビングへ入った。

 私と違って、はる先輩はあんまり甘い物を食べない。それのせいで、お土産買う時結構悩んでいた。あっきーへなら、問答無用でケーキ一択だから、めっちゃ楽。




 ソファ隣のテーブルに紙袋を置き、はる先輩はテレビをつけ、「適当に見てね」と言いながらキッチンに移動する。冷蔵庫から麦茶ポットらしきものを取り出し、透明なグラスに飲み物を注ぎ、リビングへ戻ってテーブルに置く。

 コートを脱いで、ソファの背もたれに掛けたら、私はグラスが置かれた方位に座る。数日前このソファで起きたことは予兆なく私の頭を過って、顔がすこし熱くなった。グラスを手に取って、麦茶を一口飲んだら顔に当てる。





 はる先輩は本当に何も覚えていなかった。

 私の手をアイシング道具の代わりに使ったこと、私を抱きたいと答えてキスしまくったこと、私の体に痕を残したこと、愛情と優しさが滲んだ声で私に「大好きだ、悠梨」を吐き出したこと。全部覚えていなかった。


 普段私のゼミ彼ごっこに付き合ってくれて、感情を隠すのも得意だったので、あの日まではる先輩本当は私をどう思っているかはっきり分からなかった。好きかもくらいで、自信6割ってところだった。

 忘れられたことで振り出しに戻るわけではない、覚えていなくてもいいと思っていたけれど、実際本当に忘れられたことを知った時は、ちょっと悲しかった。





 そんなに私が好きなら、隠さず言えばいいのに。何がはる先輩をこんなにしたのか、知りたくなった。

 こう思っている自分がずるいのも、分かっている。





 私は勝ち目のない戦いなら挑まない小心者。はる先輩が好き、大好きだけど、同じ女だし、彼女の気持ちを知らない状態で自ら動くことはしない。

 主導権を握りたいと、傷つくのが怖いから。


 でも、ある日佳乃先輩が私に実験のことを教えている時、偶然に目の隅ではる先輩がうっとりと私を見つめていることを捉えた。その日、私はゼミ彼ごっこを始めた。佳乃先輩を盾に、本心を混じりながらはる先輩のことを試していた。


 ゼミカレにしたのも、みんなが『彼氏いる?』『いるよねー』みたいなことをうるさく言うからパッと思いつき、勢いで付けてしまっただけ。彼氏が欲しくて彼氏代りにするとか、これっぽちも思ってない。

 私が欲しいのははる先輩だけ。

 けど、この遊びの名前も私とはる先輩の関係を邪魔している。




 初めてはる先輩に会った日、私はこの人の目に潜んでいる寂しさを埋めてあげたいと思ったのに、なんでこんな彼女を傷つけるかもしれないことをしていたのか…つくづく自分が悪い女と感じる。





 ウキウキなはずな気持ちに陰りを帯び、その憂いを晴らすため、キッチンに振り向く。はる先輩はフライパンに注意を払いながら、包丁で何かを切っている。エプロン姿も普段じゃ絶対見られないので、思わず目を細め、じっと眺める。テレビの音は聞こえるが、内容は全く入ってこない。

 はる先輩が着飾らなくても、私はいつだって彼女に見惚れてしまう。真剣な表情、照れくさい笑顔、時に寂しげな目、どれも私の目を引き、心を掻き立てる。




「ゆうりちゃん、これからピッツァ焼きたいけど、お腹空いてる?」

「うん、いいよ。あっ、ちょっと待って!私もやってみたいー」




 自分でピッツァ作ったことがないから、どう作っているか興味がある。ソファから立ち、小走りにはる先輩の傍へ移動する。

 調理台にトマトソース、オリーブオイルとバジルはあるけど、生地らしき物がない。困惑した表情ではる先輩を見る。




「ふふ~」

 得意げに鼻で笑って、はる先輩は冷蔵庫を開け、タッパーを取り出す。蓋を開けると、中には発酵した白い生地が入っている。




「昨日作って、長時間発酵させた。結構いい感じだ~」

「へぇ、本格的」

「高温窯ないから、本格にならないよ。うちのオーブン、250度が限界なんで」

 と話しながら、はる先輩は調理台に小麦粉をふって、タッパーから生地を取り出して、調理台に置く。麵棒で伸ばすと思ったら、両手の指先で生地を回転させながら押し広げるように、整形していく。面白い。





「やってみたい」

「どうぞ」




 はる先輩はすこし立ち位置をずらし、私を半分くらい整形した生地の前に立たせる。両手を私の手に重ね、指と手のひらが作るべき形を彼女の手動きによって出来上がる。「指先はこういう感じで伸ばす」と話、やり方を説明する。

 はる先輩の動きをマネして生地を伸ばしてみたけど、うまく均一に伸ばせなかった。




 隣で見ているはる先輩はそっと後ろに立ち、抱き着くように私を包み込む。回り込んできた手は私の手をコントロールしながら、「このリズムで押したら、45度ずつ手前に回転させればいいよ」と再び整形手法を教える。

 彼女が私に触れる時の感触、話す時の声と、爽やかな香りに吸い込まれ、頭にはる先輩がいっぱいになった。ただロボットのようにはる先輩に教えられた方法で、何も考えずにピッツァの生地を成形した。





「これでOK。あとはトマトソースを塗って、モッツァレラチーズとバジルを乗せれば、焼くだけだ」

「…うん」





 テキパキと焼く前最後の作業をしていて、はる先輩は私がどれだけドキドキしたのを、全然気付いてない。

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