第3話 理性は頸動脈にあった
「
優しく私の名前を呼ぶ女の声が聞こえる。顔も何かひんやりした物に触られている。
今になって、こんな風に私の名前を呼ぶ人はもう傍にいないはず。でも、いるだとしたら、きっと彼女に違いない。
自分の推測を確かめるかのように、私は彼女の名前を呼ぶ。
「
返事がない。
それもそうだ。四年生の時葵に振られ、彼女から離れるため、嫌な記憶から逃げるため違う町の大学院に入った。
今、葵は私の傍にいるわけがない。
「スーーー」
返事はないけど、顔の近くに誰かが軽く息を吸う音がする。顔から感じる気持ちのいい冷たさもその音と共に消えた。
やはり私の傍に人がいる。
意識は朦朧としているが、目は開けられそう。
重い瞼を一所懸命に開けると、可愛い女の子の顔が視線の上に現れる。その顔には、驚き、焦りと悲しさが入り交じったのような表情が浮かべている。
あぁ、この顔は知っている。知り過ぎている。
「ゆうりちゃん」
頑張って身を起こし、片手をソファに突き身を支えながら、目の前の人を見つめる。
私は飲み屋にいたはずだけど、なんで今ソファの上にいて、しかも布団が掛けられているだろう。
視線をゆうりちゃんから離し、あたりを見回す。はっきりと見えないが、ぼやけた視線で確認できるもの、家具の配置、そして壁に立てかけているロードバイクは全部うちと同じ。ここは紛れもなく私の家だ。
だったら、なんでゆうりちゃんは私と一緒にうちにいるんだ?私はやはり夢の中にいるよね。
きっとそうだ。
「はる先輩、気分はどう?」
と尋ねながら、キャップを外したペットボトルを私に渡す。これは闇夜に提灯だ、丁度喉が渇いた。
水半分しか入ってないペットボトルを受け取り、口と喉を潤うようにゆっくりと飲んだら、ボトルを隣のテーブルに置いた。
このゆうりちゃんも、本物と同じくらい気が利く。ちょっと前までは複雑な表情をしていたのに、今はすごく心配そうに私を見つめている。
「うん?あぁ、気分?いいよ」
「とてもいいには見えないけど」
嘘はついていない。体の芯から皮膚表面まで全部熱いけど、夢の中だからか、精神がふわんとしていて、妙にいい気分になっている。
そういえば、さっき冷たい物が顔に当てて、とても気持ちよかった。感触的にはペットボトルではない、多分このゆうりちゃんの手だ。
もっと、感じたい。
今なら、私がやりたいことをやっても、本当のゆうりちゃんに知られることもないし、嫌われることもないだろう。
彼女はまだソファの隣に跪いて、片手はソファ、というか私に掛けている布団の上に置いている。手を伸ばして布団の上にあるゆうりちゃんの手を掴み、私の顔に引き寄せたら、そのまま顔に当てる。
やっぱりひんやりしていて、顔の熱さがすこし和らげた。そして、ひんやりと逆に、愛おしいと思う温かい気持ちが心に充ちた。
「気持ちいい」
「……はる、先輩?」
ゆうりちゃんのやや困惑しているような声を無視して、もっと彼女の手の温度を感じるため、私はすこしずつ顔に当てる場所をずらす。
右の顔は満遍なく冷やされた。
左の顔も冷やしたいけど、ゆうりちゃんのもう一本の手をパタパタと回りを触りながら探しても、手が届く範囲にはない。
仕方がない、ペットボトルで代用しよう。
体をちょっとねじって、左手を伸ばして数秒前テーブル上に置いたペットボトルを取ろうとした瞬間、探していたゆうりちゃんのもう一本の手は私の手首を掴んだ。
掴んで、私の手を布団の上に戻す。
キャップ閉めてないから、私が水をこぼすのを防ぎたいのか?夢の中のゆうりちゃんは何をしたいのかよくわからない、予測できない。
手首を掴んだ手が離れて間もない頃、左の顔に手が添えられた。最初からはもうそんなにひんやりしていなく、熱い顔にさらなる温もりが加えられた。
私が右の顔に当てていた手も同じくらい熱くなり、いつの間にか私のコントロールから外し、主導権を奪取した。
顔はゆうりちゃんの両手で包み込まれた。
ソファのクッションが軽く凹んだ振動が伝わって、もう一人が乗ったことがわかる。
「はる先輩…」
ついさっきまで見下ろしていたゆうりちゃんの顔は、私の視線の高さと同じくらいのところに現れ、近づいてきた。ぼんやりしていた顔は、今ははっきり見える。
近い。研究室でゼミ彼と言いながら甘えてくる時よりも近い。
熱い息が顔に触れ、ゆっくりと私を呼ぶ彼女は、本物のゆうりちゃんと違って、色気を感じる。
彼女の瞳もまた真っすぐと私を見つめている。その瞳の奥からは、くっきりとした一つの情念が見える。
それは現実の私が喉から手が出るほど欲しかった感情。
「…なに?」
情欲と期待が混じった視線に見つめられたせいか、元々熱い顔と体がさらに熱くなった。
夢の中でも、こんな鮮明に温度を感じることに思わず感心した。
目の前のゆうりちゃんは唇を軽く噛んで、何か決心をしたかのような表情を見せた。
何かが来る。
「はる先輩は、私を抱きたいと思ったこと…ある?」
私に尋ねるゆうりちゃんの声は震えている。
その声の震えより、私の心の揺れの方がずっと大きい。
今はそういうことを聞くタイミングじゃない、聞いてはいけないんだ。
このゆうりちゃんは自分がどれだけ危険な質問を発したのか、分かっていない。
『何聞いてんの?ないに決まってるだろう』
現実の私なら、きっとすぐ否定して、茶化すように彼女がを軽く責めるだろう。
そもそも、本物のゆうりちゃんはこんなことを私に聞くわけがない。
でも、今は違う。
夢の中くらい、自分の気持ちに素直になっても、誰にも迷惑を掛けないし、罰も当たらない。
ゆうりちゃんを抱きたいと思ったこと?
「…あるよ」
思ったことをそのまま口にする。
好きだから。
嫌な顔しながら私から離れることに心の準備をしたが、ゆうりちゃんはその真逆と言えるほど、目に嬉しさがこぼれた。
私の顔に添えた彼女の両手は下へ滑って、首筋を優しく触れながら後ろにずらし、うなじのところに手を組む。
艶のある低い声で、私を誘う。
「なら、抱いて」
あると答えた時点、私は薄っすらとこんなことを期待していた。私の本心が。
現実の私は表に出していない気持ちが、抑え込んだ欲望が、剝きだそうとしている。
夢の中なら、彼女を抱いてもいいんだよな?
ゆうりちゃんの誘いに、考えることより体が先に動いてしまった。
空いた両手を彼女の体に伸ばし、離さないように腰を掴む。彼女を自分の方に引き寄せるではなく、私はほんの少し自分の体を前に倒すことで、顔を彼女の肩と首元辺りに埋める。
急な動きに彼女の体はビクッと震えたが、反抗せず、されるがまま。
柔軟剤のフローラルの香り、ゆうりちゃんが使うスキンケアの甘い香り、微かに漂う私が好きなスズランらしき香り、息から吹き出すアルコールの匂い、混ざっても個々の自己主張が激しい。
温度だけではなく、匂いもこんなに鮮明に伝わってくる。
ドク、ドク、ドク。
薄いブラウス越しで聞こえるゆうりちゃん心臓の鼓動も、どんどん速くなる。
唇を首元の肌に重ねる。ゆうりちゃんの肌はしっとりすべすべして、当てるだけで気持ちいい。
もっと、欲しい。
首元から上へ、1ミリの肌も逃さず唇で撫でるように当てたり、軽く吸ったり。顎まで到達したらまた折り返し、ラインが美しい鎖骨へ戻す。
触れたところは、私の欲望の炎に燃やされたように熱くなっていく。
「はる…」
意識がさらに朦朧になっても、頭を引き寄せる手、唇で感じる肌の温度と小さなよがり声は、私の心をかきたている。
今だけ、彼女は私のもの。
痕を付きたい私は、肌に這いながら目的地を再びに首に移す。
『首筋に頸動脈があるから、ダメ』
脳に響く警告の声、これは私最後の理性。
首がダメだったら、別の方に行けばいい。
ブラウスの上2つのボタンは開けている、服を脱がさなくても胸元は届く。本能のままに、私は顔もその柔らかい胸元へ埋め、唇に当てた肌を強く吸い込む。
つきたてのもちでも口に含むような肌の感触はさらに欲をそそり、噛みつきたくなる。でもこの綺麗な肌に噛み傷をつけたくない、絶対噛まない。
痕つけられるほど肌を吸って、ようやくその小さい領域を唇の束縛から離した。
もう、私のだ。
彼女の胸元に顔を埋めたままで、悶々とした声で溢れ出した感情を口にする。
「大好きだ…
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