第15話 Hunted by Nightmare

 悪夢から目が覚めさせるのは、いつも決まって自分の悲鳴だ。


 隣の部屋で眠っていた解恵かなえが起きるほどの叫び声だったにも関わらず、最初は自分の声だと気づけない。


 目を覚まし、しばらく呆然として、解恵が自室の扉をノックした時になって、ようやく自分がうなされていたのだとわかった。


 一緒に寝ようと言ってくる妹を追い返した後は、勉強に没頭して夜を明かす。


 モノクロームの巨大な卵に亀裂が入り、殻を破って何かが生まれる。何が生まれたかまでは思い出せない。


 けれど、それでいいのだろう。ドクドクと荒ぶる心臓、パジャマをびっしょりと濡らす脂汗、寝起きの解恵に伝わるほど強く激しく震える手。そして何より、記憶の中の残響となった自分の悲鳴が、悪夢の恐ろしさを充分伝えてきたのだから。


 得体の知れない悪夢は何度も押し寄せてきたが、いつしか悲鳴は上げなくなった。2時や3時に静かに起きて、勉強をする。その繰り返し。


 もう恐怖は感じない。ずっと付き纏ってくるのは鬱陶しいが、今やそれだけだ。そう考えつつ、夜明けを迎える。うなされないだけマシだろう、と。


 ―――なのに、どうして。


 ―――どうしてその夢が、今ここにあるの。


 死神の頭上に現れた、悪夢のそれと瓜二つの巨大な卵を見上げながら、鍵玻璃きはりは足をガクガクと震わせた。


 肺に空気が入ってこない。体中に重い鎖が絡みつき、真下に引かれているような錯覚すらある。


 鍵玻璃は喉を鳴らして呼気か唾かも定かではない何かを飲み込み、震えながら問いかけた。


「なに……? なんなの、そのカード……」


 再現できるほど目の当たりにした悪夢の光景と、今の光景が重なる。


 見間違えるはずはない。それどころか、見れば見るほど確信が深まる。


 “幻界げんかい揺卵ようらんXEGGゼッグHVNヘヴン”。あれは鍵玻璃の悪夢、そのものだ。


「一体、あんたは……あんたのそれは! 一体なんなんだ! なんであんたがそんなものを! 答えろッ!」


 金切声を上げる鍵玻璃に、死神は一切取り合わない。手札のカードに点々と指先を触れ、プレイを続ける。


「“パーセノジェネシス・パスファインダー”を召喚。レギオンスキルにより、同名カード2枚をデッキに加え、誓願カード1枚を手札に。誓願成就、“輪廻試行索りんねしこうさく”。手札のカードを任意の枚数デッキに戻し、同じ数だけドロー」

「答えろって言ってるのよ!」

「“ソートシャッフラー・ドローン”を召喚。誓願成就、“計画通りの未来”。相手のデッキの上から3枚のカードをめくる。めくったカードと同名のカードが相手の場にある場合、それを破壊する」


 なにひとつとして鍵玻璃にかけられる言葉はないまま、死神は無造作に大鎌を振るい、X字の大きな斬撃を飛ばしてきた。ルクバーとカノープスがそれを受け、風を受けた砂の城のように消し飛ばされる。


 余波の突風が鍵玻璃に襲いかかってくる。


 膝が虚脱し、危うく転びかかるのを力いっぱい踏ん張って堪えた。


「う……っ、ぐ……!」

「“星集めの商人・ベーミン”を召喚」

「……!!!」


 相手の場に出る、自分のレギオン。死神の場にたくさんの宝物が詰まった戸棚が現れ、膨れ上がったバックパックを背負った少女が得意げに胸を張る。


 予想できたことだ。しかし、ショックが否応なしに鍵玻璃きはりの心を揺さぶってくる。自分のカードが奪われ、牙を剥かれる体験は、如何ともしがたい。悪夢に現実を蝕まれる恐怖を前にしては、なおさら。


 死神の指示は鉄の塊のように冷たく無慈悲だった。


「“星集めの商人・ベーミン”で“クラフトアプレンティス・ポラリス”を攻撃」

「誓願成就、“なぞり紡ぐ星絵ゾディアック”! 自分のレギオン1体のパワーを+1000! さらにポラリスと同じ奮戦レベルのカード1枚を手札に!」


 強化されたポラリスは、ベーミンが投げつけてきた大きなバックパックをハンマーのフルスイングで打ち返す。


 ピッチャー返しを食らったベーミンに自分のバックパックが激突し、花火のように色とりどりの光を放ちながら爆散した。


 振り撒かれる光を以てしても、死神のフードの奥が暴かれることは無い。返り討ちによってディケイカウンターがさらに増えても、動じない。己のレギオンに相打ち狙いの指示を出す。


「“ソートシャッフラー・ドローン”で“クラフトアプレンティス・ポラリス”を攻撃」

「誓願成就、“星超極閃せいちょうきょくせん”! 自分のレギオン1体のパワーを+500する! 選んだレギオンが既に強化されているなら、さらにカードを1枚引く!」


 半ば跳躍するように駆け出したポラリスは、ジグザグに地を蹴って駆け、襲い来るビームを回避しながら“ソートシャッフラー・ドローン”へ肉薄していく。


 大きな木槌が振り下ろされ、四角いフレームもろとも黒い球体を粉砕。死神のディケイカウンターが8まで増加した。


 死神の場にいるレギオンは、パワー1000の“パーセノジェネシス・パスファインダー”1体。死神はそれ以上の攻撃をしなかった。パワーが2000まで上がったポラリスに自爆特攻をするより、次の攻撃を凌ぐ壁にしたのだろう。盤面がら空きからの総攻撃を防ぐために。


「ターンエンド。“満杯の宝棚”のレリックスキル、誓願カード“あたたかな贈り物”を手札に加える」

「……私のターン、ドロー」


 新たに手札に加わったカードを確認し、鍵玻璃きはりは思わず舌打ちをする。


 現在の手札は6枚。内訳は“救世女傑メリー・シャイン”、“星に願いを”、“導かれし未来・デネブ”、“憧憬の望遠鏡”、“スカイハイ・タッチ”、“煌めく服飾”。


 6枚中3枚が奮戦レベル2以上のカードだ。鍵玻璃のディケイカウンターは4。奮戦レベルはまだ上げられない。


 今出せるレギオンはデネブのみ。ポラリスと合わせて総攻撃をしたところで死神の奮戦レベルを上げるだけ。


 ―――あいつのレギオンが1体だけで、しかも手札が無い今が好機なのに!

 ―――もう2体、レギオンを出せれば確実にトドメを刺せるのに……っ!


 焦燥が胸を焼く。“計画通りの未来”で暴かれたデッキトップは、“なぞり紡ぐ星絵ゾディアック”のサーチに伴いシャッフルされて変化した。心の乱れが悪手を招いたかもしれない。


 否、本能的な恐怖が、ディケイカウンターの増加を拒絶したのだ。敗北し、凄惨な末路を辿ったであろうあの青年の悲鳴が、耳の中でまだ反響している。


 右手を耳に当てながら、鍵玻璃はなんとか自分を落ち着かせようと試みた。


 ―――落ち着け、落ち着け。何も絶対に攻撃しなくちゃいけないわけじゃない。

 ―――下手に攻撃して相手の奮戦レベルを上げるのはまずい。

 ―――けど、あいつのディケイカウンターは8。

 ―――次のターン、適当なレギオンを引いて自爆特攻をすれば、奮戦レベル2。

 ―――もし、そうなれば……。


 両目が、モノクロームの巨大卵を凝視する。


 沈黙したまま宙に浮遊し続けるそれは、何の気配も発さない。だが、鍵玻璃にはわかる。あれが孵った時、自分は途切れた悪夢のその先を見ることになる。


 その果てが、あの青年の末路なのだろうか? 闇に隠れた怪物に貪り食われ、残滓も残さず消え果てるのが。夢の中の自分も、同じ体験をしたのだろうか。それを今度は、現実で?


 卵を従えた死神は、超然とした態度で立ち続けている。肩に担いだ大鎌に、顔を真っ青にした鍵玻璃の顔が映り込んだ。


「い、いや……」


 鍵玻璃は頭を抱えて俯いた。心拍が一層激しく、大きくなっていく。勢いよく血流を打ち込まれる脳もまた、同じように鼓動を始めた。


 恐怖の心音が全身を支配する。視界が揺らいで、気分が悪くなる。内臓を全部口から吐き出してしまいたい。


 ピリリッ、と電子的な警告音が鳴った。遅延行為の対策として設けられた、1ターンのタイムリミットが尽きようとしている。視界に表示されたカウントダウンが、鍵玻璃をさらに責め立てた。


「待って、待……っ!」


 システムに懇願したって意味はない。思考力を奪われる中、鍵玻璃はカードに手をかざした。


 “導かれし未来・デネブ”の召喚。“憧憬の望遠鏡”の配置。“憧憬の望遠鏡”のレリックスキルで、デネブのパワーをポラリスと同じにする。


 最低限の行動で、時間は尽きた。これが最善手だったのかどうか、考える余裕もない。鍵玻璃が宣言する前に、ターンは移り変わった。


「ドロー」


 死神の手札が4枚増える。あの4枚に1枚でも出せるレギオンがあれば、奴は自爆特攻をして奮戦レベル2に上がる。


 そうなれば、どうなる? その時点であの卵は孵るのか?


 ―――お願い、お願い、お願い……!


 鍵玻璃は呼吸も忘れて祈りながら、死神を凝視した。視界の底には自分の手札が……メリー・シャインのカードが映り込んでいる。


 シルバーホワイトの髪を輝かせた、煌びやかなアイドルのイラスト。どんな暗闇も跳ね除けるような眩い笑顔は、幼い鍵玻璃の道しるべであり、同時に深い影を落とす原因でもある。


 デュエルでも、日常でも、鍵玻璃に力を与えてくれていたそれは、ある日喪失と虚無感の象徴になった。正直、見るのも辛い。重い枷のように思うことさえある。


 けれど今、悪夢を前にしたこの時になって、鍵玻璃はこのカードに縋った。


 助けてほしい、救ってほしい。あの人みたいに寄り添って、励ましてほしい。


 誰も覚えていなくたって、自分だけは覚えてる。だから……。


 鍵玻璃はメリー・シャインのカードに手を伸ばす。触れれば、力をもらえるかもしれない。そんな稚拙な願掛けでもしなければ、悪夢に押しつぶされてしまいそうだった。


 しかし、顕現した悪夢は非情であった。


「“メモリーイーター・ノイマン”を召喚。レギオンスキル発動」


 死神の手がすーっと持ち上げられ、指先が鍵玻璃きはりの方を指し示す。


 フードの下、秘匿された闇の中に浮かぶ目が、奇妙な幾何学模様の描かれた空色の瞳から放たれる視線が、鍵玻璃の心臓を鷲掴みにした。


「相手の手札をランダムに1枚選び、捨てさせる」


 現れた灰色の機械カラスが、矢のように飛翔する。


 その鋭いくちばしがメリー・シャインのカードを貫き、泡のように爆ぜさせた。


 触れかけていた鍵玻璃の手が弾かれる。ぽかんと目を丸くした鍵玻璃を嘲笑うかのように、ノイマンはガァ、と短く鳴いた。


「あ……っ」


 鍵玻璃は我知らず、消え去ったメリー・シャインのカードを手札に探す。


 たった一枚。この世にたった一枚だけ残された遺産。デュエルをやめてしまった後も、捨てるに捨てられなかったカードが、消し飛ばされた。


 触れられなかった指先が、宙を泳いだ。いくら探してもメリー・シャインのカードは手札にない。デッキにも、ない。


 軋みつつも、なんとか形を保っていた心から、決定的なものが欠け落ちる。かつて味わった喪失感、孤独感が、今はっきりと蘇る。心の欠けた部分からにじみ出たそれらに、蝕まれていく。


「あ……ぁ……」


 頭の隅に押し込めていた記憶が暴れ出す。何人もの人から聞いた“誰?”の言葉が立て続けに押し寄せてくる。


 拠り所を失った鍵玻璃は、蓋をして目を逸らしていた心の穴が、こじ開けられたように感じた。


「あ、あ、あぁぁぁ……っ」


 頭の中で現在と過去が渦を巻いて絡み合う。


 憧れていた人の消失。これで死神の奮戦レベルは2に上がる。この世にひとり異物として取り残されたような孤独。切り札の消失。混乱し、すれ違う自分と周囲。卵が孵化する? 夜ごと見続ける悪夢。きょとんと首を傾げる解恵かなえの表情。間近で見上げた、あの人の笑顔。好きだった曲も、繰り返したMVも、無い。


 頭の中がぐちゃぐちゃになり、感情のタガが徐々に緩んで、剥がれ落ちていく。死神はそんな鍵玻璃きはりに何かリアクションを取るでもなく、自分のレギオン2体を自爆特攻させた。


 ディケイカウンターが10。


「“幻界げんかい揺卵ようらんXEGGゼッグHVNヘヴン”のレリックスキル。手札を任意の枚数捨て、その枚数分相手のデッキの上からカードをめくる。めくったカードのうち、奮戦レベル1のカードを自分のデッキの下に置き、捨てたカードの枚数分ドロー」


 死神の手札4枚が全て消え去った。お互いに提示される4枚のカード。その全てが死神のデッキへ吸い込まれていく。


 奪われる。自分の世界にあったものが。悪夢が己をついばんでいく。


「や……やだ、やだよ……」

「奮戦、レベル2」


 ガチガチと歯の根を震わせながら首を振る鍵玻璃きはりの前で、デュエルフィールドが変化する。死神の足元から白が広がり、アスファルトの色を剥がし始めたのだ。


 地面が漂白されていく。いや、大地が刈り取られていくと言うべきか。白はあっという間に鍵玻璃のつま先に達し、擦り硝子のようなドームの内壁を駆け上がる。


 たちまち、世界は白一色の無味乾燥なものへと変化した。


 死神が初めて呼気を漏らした。恍惚としたような、歓喜に震えているかのような。


 物欲しそうな眼差しが鍵玻璃にまとわりつく。


「誓願成就、“暖界胎動だんかいたいどう”。自分と相手のレリックを1枚ずつ破壊する。“幻界げんかい揺卵ようらんXEGGゼッグHVNヘヴン”を破壊したなら―――」

「やめて……! 嫌っっっ!」


 パキッ。それまで沈黙を貫いていた卵にひびが入った。


 稲妻状の亀裂は内側から押し広げられ、蜘蛛の巣状に。砕けた殻の破片がボロボロと落下し、穴が空いた。ひび割れからは灰色の光。穴の中には、深い闇。


 卵の中で、何かが血のように赤い目を開く。卵の殻の白い部分が赤く染まり、亀裂が急速に広がり始めた。灰色の光はいつしか周囲を塗りつぶし、周囲の景色を貪り喰らって侵蝕していく。


 鍵玻璃は彫像のように凍り付いたまま、その様を眺める。一方で死神は静かに、しかしそれまでの平淡なものとは明らかに違う声音で呟いた。


「“幻界雛げんかいすうRedレッドXamサム”1体を、誕生させる」


 慣れ親しんだはずの悪夢が、途切れていた記憶の続きが、開かれる。


 モノクロームの卵が破裂し、何層にも折り重なった光と闇が放射状に放たれた。


 響き渡る何かの産声。白と黒に染まった視界の奥に、ざらついたノイズを被る赤い眼光が見える。赤黒く不明瞭なシルエットがモノクロームを取り込み、不気味な色彩を纏って、空間に根を張っていく。


「“RedレッドXamサム”のレギオンスキル!」


 先ほどまでとは少し違う、どこか高揚した雰囲気の死神の声に従って、赤黒い色彩が鍵玻璃に襲い掛かってきた。


 立ちふさがるポラリスとデネブが赤い影に呑まれて見えなくなる。何が起こっているのかもわからない。戦意喪失した鍵玻璃は、対抗する気力も出せずに立ち尽くす。


 何をすればいいのだろう。何ができるのだろう。思考は泡のように消えて、恐怖の暗闇に消えていく。抵抗しなくちゃ、と手をのろのろと持ち上げてみるが、どのカードを選べばいいのかさえ考えられなくなっていた。


 ―――ああ、そうか。そうだったんだ。


 言葉も出せずに目をつぶる。真っ暗になった世界の中で、心を引き裂くような甲高い咆哮がつんざいた。


 ―――私の夢は、憧れは……。


 胸に何か鋭いものが突き刺され、中を無遠慮に探られる。肉をかき分け、骨を抜き、鍵玻璃の大切な部分を引きずり出そうとしてくる。


 グロテスクで、気持ち悪い。おぞましい胸の痛みに覚えがあった。思い出せなかった悪夢の続きでも、こうされていたのだ。


 ―――こいつが、食っていったんだ―――


 体の一番奥深くを強い力でつかまれる。その不快な感覚を最後に、鍵玻璃の意識はぷっつりと途切れた。

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