猫の集まる銭湯は今日も大賑わい

祐里

1.ロッカーには桜餅と醤油煎餅


「るいこ、ここー」


「はいはい」


「るいこー、こっちもー」


「待ってくださいよぅ」


 私は今、バイト中でとても忙しい。動くたびにポニーテールが首にバシバシ当たる。浴槽の向こう側の壁に富士山が描かれ、声や音が弱いハウリングを起こしたかのように響き渡る、この銭湯の浴室で。


「にゃー! はやくー! るいこおそーい!」


「わ、わかりましたってばぁ、もうっ」


 私の名前は、及川おいかわ瑠璃子るりこ。なのにここでは、お客さんたちに「るいこ」と呼ばれる。


「猫にも気が短いのはいるのよねぇ。るいこ、がんばって」


 お客さん――猫さんたちにとって、「る」と「り」の連続はおかしい言葉で、「る」と「い」ならおかしくないらしい。私が猫さんたちの言葉がわかるのは、バイト歴が長いから。初めはにゃーにゃー聞こえていたのが、半年くらい経った頃から少しずつわかるようになってきたのだ。猫さんたちの方は、もともと人間の言葉がまあまあわかるらしい。双方向のコミュニケーションを取ることができるって素晴らしい。


「ううっ……ベアトリクスさんだけです、そんなこと言ってくれるの」


 私に優しい言葉をかけてくれるベアトリクスさんは、ご近所で一番お金持ちの家で飼われている真っ白な長毛さんだ。普段はふわふわの毛と金色のぱっちりお目々が高貴な雰囲気を醸し出している。今は毛がぺったり体に張り付いているから、高貴さは身を潜めているけれど。


「あら、ベアって呼んでっていつも言ってるのに」


「あ、いや、ベアっていうと熊みたいなので……」


 ふぅん、と、ベアトリクスさんは浴槽の湯に浸かりながら優雅に顎を前へ突き出した。


 そして人間の私はというと、しゃべりながらも懸命に手を動かす。オーナー曰く、軽い力でも動かせる蛇口は市場しじょうに出回っていないとのことで、仕方なく猫専用浴室にも通常のものを取り付けたそうだ。猫さんたちはその蛇口を操作することができない。たまに操作できる力持ちの猫さんもいるのだが、カランの湯は一定の時間が経つと自動的に止まってしまうから、何度も操作しないといけない。シャワーは出しっぱなしにできるけれど猫さんたちには湯が届く範囲が広すぎるようで、雨みたいで嫌だと、評判が悪い。どうしても人間の手助けが必要になる。


 だから私は今日も猫さん一匹一匹を泡だらけにして洗い、仕上げにざばあっと湯をかける。カランを操作するだけでなく洗ってもあげないといけないのは、放っておくと猫さんたちが泡をなめてしまうから。


「気持ちいいですか?」


「にゃぁ! るいこのお湯がやっぱりいちばん好き!」


「えー、ほんとですかぁ? 私がバイト休みの時みなとくんに浮気してたの、知ってるんですよぉ?」


 湊くんは、この銭湯のオーナーの息子さんだ。三歳年下で、今は高校二年生。三ヶ月ほど前から私が休みの日に同じ仕事をしている。男性だからオス猫さんの方に行く方がいいのではとも思うが、メス猫さんたちに人気があるらしく、ずっと女湯を担当している。


「……にゃっ……、みなとはぁ……、いいにおいだからぁ……」


「……汗臭くてすみません。はい、もう一回いきますよー」


 風呂桶に溜めた湯をゴンゾウさんの三毛柄の体にかけてやると、気持ちよさそうにまぶたを閉じる。その表情がとてもかわいらしい。ゴンゾウさんだけじゃなくて、みんなかわいらしいのだ。私がこのバイトを続けている理由の一つでもある。


「うっ、かわいいっ! 写真撮りたい!」


「にゃっ……、ぬれてるときはちょっとにゃぁ……。ほら、もっと流してよー」


 「はぁい」と返事をしてもう一度風呂桶に溜めた湯を猫さんにかける。そうして脱衣所の方をちらりと見ると、飼い主さんたちが待っているのが目に入った。


「さ、ゴンゾウさん、もういいですよ」


「ありがとー。にゃーお湯入るー」


 ゴンゾウさんの飼い主さんが脱衣所の椅子に座って雑誌を開いているのが、ガラス越しの扉の向こうに見える。長い髪をきっちりと後ろで束ね、真面目そうな眼鏡をかけ、真面目そうな服装をしている。何であの人が、メス猫さんに『ゴンゾウ』と名付けたのか不思議でならない。本猫は気にしていないみたいだけど。


 浴槽の湯に浸かるゴンゾウさんの姿を見てからもう一度脱衣所の方に目をやると、湊くんが入ってきたのが見えた。私は大きく手を振って挨拶する。湊くんは爽やかな笑顔で、手を振り返してくれた。


「るいこー、あわあわしてー」


「あっ、はい」


 今度は茶色ハチワレのモカさんからお呼びがかかり、私は脱衣所から目を離してモカさんの元へ急いだ。



 ◇◇



 迎えに来た飼い主さんに連れられて猫さんたちが帰ったあと、自分専用のロッカーの前に立つ。手の平より大きな木の札を金属でできた鍵部分に上から差し込み、かたんという小気味良い音を聞いてからさっと開けると、ふわりと良い香りが漂ってきた。入っていた紙包みを開け、しっとりと水分を含む葉に包まれたピンク色を確認する。


「わぁ、今日は桜餅だ! あんこが巻いてあるから長命寺ちょうめいじだよね」


 いつもオーナーからの差し入れを湊くんが持ってきて、マスターキーでこのロッカーに入れておいてくれる。あられや煎餅と一緒に、クッキーやマカロンをもらえたりもする。これが、私がこのバイトを続けているもう一つの理由だ。


「はぁ……、醤油煎餅と桜餅……さすがオーナー、わかってるなぁ。じゃ、最後に自分を洗いますかぁ」


 猫専用ではあるが、私が浴室を使うのは許されている。今日もバイト終わりにさっぱりしてから帰るのだ。


「うふふっ、食後のデザートにしちゃおっと。オーナー、いつもありがとうございます」


 オーナーに感謝を告げながら、私は濡れたTシャツとショートパンツを脱いで浴室へと足を踏み入れた。そうしていつもどおり入浴を済ませて一人暮らしの家に帰る。


「桜餅、ほんのり塩気が効いているのいいよねぇ。香りも良いしこしあんのなめらかさもたまらない……うーん、おいひぃい……。しかも醤油煎餅とセットだなんて、バランスいいわぁ」


 簡素な夕食のあとに食べた柔らかな桜餅と堅めの醤油煎餅は、疲れた体にとても優しく染み込んでいった。

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