ー Episode 2 ー 啓蒙の役目
「娘を売ってしまいました。その贖罪に…」
「飢餓が進んで、もうどうしようもありません。どうか天のお恵みを…」
硬く指と指を絡ませ、十字架に祈る姿は哀れであった。
戦況は悪化していくばかりで、この国は貧困状態である。かくいうビゼライも、王族と並ぶ地位であるのにも関わらず質素なリネンの服に身を包んでいた。
「シビュラ様、神はやはりお怒りなのでしょうか」
来た。この手の問いは、ビゼライが最も嫌う類の一種である。ビゼライはシビュラである手前、神と交信ができると思われている。しかし、シビュラが神と交信できるなんて言い伝えの真実など、ビゼライにも分からない。
神は、この王国とは違う「神の国」なるものにおわすものと言われている。仮にシビュラの交信能力が本物だったとしても、神が自身の国からこの下界に降り立って初めて、シビュラは彼らの姿を認識し、会話ができるのである。お互いが自身の国にいる状態で、意思疎通などできるわけがない。
「ご安心ください。神の怒りは民に向けられているものではありませんよ。争いは国の問題。私たちにはどうすることもできないのは、神も存じていらっしゃいます」
こういう場合は、決まってただ言葉を濁すしかなかった。ビゼライの返答は、問いの答えにはなっていない。怒っていると言ったところでどうにもできない。しかし、怒っていないと易々と答えるのは憚られる。
ビゼライのその答えに安堵したのか、礼を述べた彼はまた神に祈り始める。跪いて、震える手を握りしめ、額に当てて。
この場所を訪れる民たちは、皆揃って行き場のない不安や焦燥感を抱えている。今日を生き抜く術。明日の心の拠り所。この国の未来。どれもこれも不安で不安で仕方がなくて、神に祈って、神を信じる心で癒されようとしている。
神がどうにかしてくれる。
大丈夫、心配はいらない。
最悪の場合は、神のせいにしてしまえばいい。
ビゼライには、そんな責任転嫁の声も聞こえてくるようだった。彼らの姿に、ビゼライは無意識のうちに恐怖した。
太陽が西へ傾き、空を緋く染める頃。教会に洒落た靴の音が二つ、響き渡った。
その音の正体に、ビゼライは息を飲む。
この国の人間ではない。直感でそう悟った。
豪華絢爛な衣服に身を包んだ青年が二人、ビゼライとの距離を縮める。
有り得ないのである。この貧相な国で。シビュラでさえリネンを着ているような国で。
これほどまでに目を引く美しい装束は。
「太陽のシビュラって、お前のこと?」
二人のうちの前を歩く、赤髪の青年はビゼライを前にして、敬意も何もない様子で話しかけた。
彼の一つにまとめられた赤髪は、毛先に向かうにつれて橙に変化し、腰まで長く垂れている。それはこの国で巻立つ砂埃を被ったようには思えないほどなめらかに靡いていた。
ビゼライを見つめる瞳には深緑を宿らせ、縦にギラつく瞳孔が揺れる。
「はい。おっしゃる通りです。何かご用でしょうか?」
ビゼライはシビュラとして彼と言葉を交わした。この国では絶対的な存在であるシビュラに対しての敬意ない言葉にほんの少し眼光を鋭くしたビゼライはあえて、なるべく、ゆっくり、笑顔で丁寧に話した。それは腹を立てた相手に、すれ違いざまにぶつかってみたり、逆に感謝を伝えてみたりだとかする、所謂反骨精神のような、反抗精神のような類もの故であった。
ただ、ビゼライは不思議で仕方がなかった。彼らはこんなにも目を引く姿をしている。しかし、教会にいる誰一人、彼らのことを見ていないのである。
「神の国に来て。今すぐに」
「…え?」
神の国。神たちの国。ビゼライは青年の言葉の意味が分からないでいた。
「二年前からこの国には月が出てない。それはお前も知ってるでしょ」
「…はい」
「この国が戦争を始めたから、ボクたちの国は憎しみの念で侵食されてる。だからボクたちが司る月は崩壊を始めた。神の国もこの国も、月も。お前がいないと救えないんだって」
ボクたちの国?憎しみの念?侵食?
夢想家もいいところである。そんな作り話に付き合えるほど、ビゼライは暇ではない。
「ええと…つまり…」
「おい、そんな説明じゃ何も伝わらないだろ。もっと噛み砕いて説明してやらねぇと」
「は?十分噛み砕いて説明してるでしょ!」
「えぇ…嘘だろ…」
今まで赤髪の青年の後ろで黙っていた、もう一人の青年が口を開いた。
毛先に向かって紫に変化する、肩まで伸びた紺青の髪を靡かせるその男は、桃色の瞳に赤髪の彼と同じ、縦の瞳孔を揺らした。
「悪いな、シビュラさん。急にこんなこと言われちゃ理解できないだろ」
簡単に説明するから聞いてほしい、と言う彼は困り顔で笑った。
ビゼライは、彼の左頬に刻まれた不思議な紋章と、右腕に走る赤黒い引っ掻き傷に気づき、じっとそれらを見つめていた。
「俺たちは神だ。ここへは神の国から来た。俺たちの国は、今セレタニアで起きてる戦によって崩壊寸前で困ってる。だから月にも異変が出てるんだ。それは太陽のシビュラ様がいないと解決できない。だからどうか、俺たちと一緒に神の国に来てほしいんだ」
「は…」
神を自称するとは、なんとも罪深い連中である。仮に神だったとしても、我が国すら救えない神に手を差し伸べるなんてことを易々とできるビゼライではなかった。
「神と、言われましても」
「なんで分かんないの?ほら、ボクたちのこと、誰も見えてないでしょ」
「俺たちの服も、おそらく今のこの国では手に入らないんじゃないか?」
「しかし…」
悔しい。彼らの言うことは全て事実であった。煌びやかな服は、今この国では考えられない上等な物である。そして、それを着ている彼らに、誰一人視線を送っていないことが明らかな答えであった。髪の色が毛先に向かって変化しているのも、瞳孔が縦であるのも、人間ではあり得ないことである。それはビゼライ自身、既に気付いていることだった。
「めんどくさいなぁ。いいから早く来てよ!」
「え、ちょ…やめ…!は、離せよ!!」
赤髪の青年はビゼライの腕を掴み、強引に引き寄せる。その手を、ビゼライは咄嗟に弾いた。悔しさと、苛立ちと、怒りが混ざって絡み合った感情が、ビゼライを支配したからである。
「なんなんだよ急に来てべらべら喋りやがって!!神だかなんだか知らないが、オレはあんたらに着いてくつもりはない!!」
「シ、シビュラさん…」
「国を救え?あんたらの?ふざけんなよ!オレらの国は!この国は!救ってくれなかった連中に、どうして!!」
ビゼライの口は止まらなかった。今まで閉じ込めてきた神への鬱憤が、全て流れ出てくるようであった。
「お前さぁ…!神に向かって何その口の聞き方!ムカつくんだけど!!お前聖職者なんでしょ!?神を崇め信仰し敬う立場なんじゃないの!!」
「あぁそうだよ!オレだって昔は崇めてたさ!でも、神は嘘つきだったじゃないか!何が信仰すれば守ってくれるだよ!オレの父さんも母さんも死んだ、国も戦争を始めてこんなにボロボロになった!今夜の食い物にも困る生活で、まともな服もなくて!!神を信じてた、たくさんの人が死んだんだ。……それで?あんたらがオレたちに何してくれたって言うんだよっ…!!」
ビゼライは教会に声を響かせた。
毎日教会に来て、熱心に祈っていた女性。神への感謝と平穏への祈りを欠かさなかった老爺。神にあげるのだと、花を摘んで捧げていた少女。三年前からもう姿を表さない彼らのことを、ビゼライは忘れていなかった。神への怒りを叫びながら、鮮明に脳裏に浮かぶ彼らに涙した。
「信仰が足りなかったんじゃないの。守ってくれるとか、勝手に決めつけて期待して、バカなんじゃない!」
「はぁ…!?なんだよそれ!オレたちがこの、呪いみたいに神と結びついてる国で、毎日どれだけ必死に生きてるか…!あんたには分かんねぇよ!最低だ!!」
「おい、二人とも落ち着けって!シビュラさんの言いたいことは最もだ。それはお前が一番分かってるだろうが。どうしてそんな言い方するんだよ」
紺青髪の青年は、赤髪の青年を静止した。この男は常識人であった。ビゼライはその事実に少し安堵する。
「…知らない。信仰が足りないからそうなるんだ!信仰しなきゃ、もっともっと信仰しなきゃいけないんだよ!神を敬って、神を崇めて!」
「あ、おい!」
「は?ちょ!」
赤髪の青年はもう一度、しかし今度は強く、ビゼライの腕を掴んだ。そしてもう一方の手を宙に翳し、空間を歪める。この男、力づくでビゼライを連れ帰る気である。
「馬鹿はお前だ!強引に連れてくなんて言語道断だろうが!」
「うるさい!お前は黙ってて!」
ビゼライは歪んだ空間に放り出され、必死に追ってくる紺青髪の青年と、表情を歪める赤髪の青年を、自分の後方に見た。
「うわっ!!!」
空間に投げ出されてまもなくして、ビゼライは石畳に落下した。
「大丈夫か、シビュラさん!」
紺青髪の青年に助けられて立ち上がると、軽く眩暈がした。
「本当に申し訳ない。ここまで強引にやるとは思ってなかったんだ」
「……なんなんだよ。あの最低な奴」
「…すまない。俺から後できつく言っとくよ」
ビゼライは彼の言葉にさほど耳を貸さず、周りを見渡していた。
「…ここが神の国なのか?」
ビゼライの目の前には、荒廃した街並みが広がっていた。地割れが酷く、瓦礫の山になっているのは商店街や民家の跡と思えた。奥に見える神殿らしき建物も柱が崩れ落ち、見るに耐えない姿となっている。死に絶えた人の姿がないだけマシであるが、その光景はセレタニアと互角の惨さであった。
「あぁ。だが、こんなに荒廃しちまってるのはこの周辺だけだ。他はもっと栄えてて活気のある国だよ」
「ふーん…」
赤髪の青年はいつの間にか姿を消していた。ビゼライももう見たくない顔である。故に特に気にも留めていなかった。
「シビュラさん。あんたの名前は?」
「…なんで」
「シビュラさんって呼んでもいいが、なんかそれだと存在が遠いだろ」
「必要ない。オレは帰る。言っただろ、あんたらに手を貸すつもりはないって」
「そのことなんだが…一度こっちに来ると簡単には帰れないんだ。少なくとも、俺やあいつの力じゃ…」
「はぁ!?そんなこと聞いてない!」
「申し訳ないと思ってる!もっと説得して、納得してもらえたらこっちに来てもらうつもりだったんだ」
「説得って…なんだよ。オレは…」
ビゼライが言いかけた時、青年はビゼライの前で跪いた。凛とした瞳は、忠誠を誓うかのようにビゼライを見据えた。
「頼む、俺たちに力を貸してほしい。教会でも言った通り、この国は頻繁に侵食が起きる。その度に危険が及ぶ状況だ。だがあんたの安全は、この俺、セランフォードが必ず守ってみせる。あんたが役目を終えるまで、俺が護衛になる。だからどうか、この国と、月の復興に力を貸してくれないか」
紺青髪の青年は、セランフォードと名乗った。
礼儀正しく、赤髪の青年の開けた穴を埋めるかのように、道理に沿ったやり方で物事を進めようとする毅然たる気質は、まさに誠実な常識人であった。
ビゼライにとっては、少し気を緩めてしまう危険な存在である。
「…それをして、オレやセレタニアの民になんの得があるんだよ」
「夜の空に明かりが戻る。そして、あんたの力があればセレタニアの戦も終わらせられると聞いてる」
「は、嘘だろ、オレにそんな力は…」
「すまない。詳しい話は神殿で聞いてほしいんだ。俺もこれ以上のことは聞いていなくてな」
ビゼライは何も言うことができなかった。ビゼライは神を信じず、神を盲信する民を恐怖している。しかしそれと同時に、毎日教会に祈りに訪れる民たちの思いが報われてほしい。そんな、一見矛盾した願いや慈悲も持ち合わせていたのである。
「俺と一緒に、神殿に向かってくれるか?」
「…話を聞くだけだからな」
「…!あぁ、ありがとう!」
「ビゼライ」
「え?」
「名前」
「…あ、あぁ!…ビゼライか。いい名前だな」
「ふん」
「ありがとう、ビゼライ。俺はセランフォードだ。改めてよろしくな」
「…セランフォード…」
「セランでいい。皆そう呼ぶ」
セランフォードに手を取られ、ビゼライは神殿へ歩みを進めた。彼に流されている気がして不安と戸惑いを覚えたが、それをぶっきらぼうに隠し、怒りという感情でしか包めないビゼライは脆かった。
「着いたぜ。ここ、でかいだろ」
たどり着いたのはとても大きく広い神殿だった。おそらく、ビゼライの住んでいた教会よりも大きい。
「なんだここ…でか…」
「この国で一番大きい神殿だ。城と繋がってるんだぜ」
神殿は宙に浮かぶ階段のようなものによって、瑠璃色に聳え立つ城と繋がっていた。
「神にも王族がいんの?」
「王族はいないが、神にも位があってな。位が高い神は城で暮らしてるんだ」
「へぇ…」
「おーい先生ー!!いますかー!!」
セランフォードは神殿に踏み入り、声を上げた。
「先生?」
「あぁ。俺を拾って、いろんなことを教えてくれた人なんだ」
「…そうなのか」
軽く言われたために流してしまったが、この男に拾われた過去があることにビゼライは少し驚いた。左頬の紋章といい、右腕の引っ掻き傷といい、出自に結びつきそうな何かは感じられる。
「おかえりなさい、セラン。太陽のシビュラ様を連れて来てくださったのですね」
「先生!」
神殿の奥から現れたのは、修道士のような、スカプラリオのような、そんな装いの青年だった。毛先に向けて白く変化している灰色の髪を束ね、左肩に流している。ベールを被り、左目には仮面をつけていた。本来目が見えるようになっている部分は黒く塞がれていて、視界を閉ざしている。
「はじめまして。太陽のシビュラ様。私はこの神殿の護り人、シファンと申します。以後お見知り置きを」
「…どうも。ビゼライ、です」
「ビゼライ様とおっしゃるのですね。此度は下界より遥々お越しいただき、ありがとうございます」
「先生、実はビゼライはアノンに無理やり連れて来られちまったんです。合意の上じゃない」
「おやおや。それは本当ですか?」
セランフォードは事の経緯をシファンに話した。アノンというのは、あの赤髪の青年のことらしい。
「誠に申し訳ありませんでした、ビゼライ様。…全く、あの子はどうして…」
「……嫌いだ。あんな奴。人の気も知らないで…」
「そう思われてしまうのも仕方がありませんね。あの子の性格は難ありなのです。こちらとしても困った物で…。…ところでセラン、アノンはどこに?一緒にお迎えに行ったでしょう」
「向こうからこっちに戻ってきた時に、どっか行っちまったみたいで…すみません、目付け役任せられてたのに」
「そうですか。ですが…あの子の目付役には貴方ほどの適任はいないでしょうから、これからもよろしく頼みます」
「もちろんです!今度はしっかり見ているようにします」
「あんた、オレの護衛もするんだろ。あんな奴の目付役までできるのかよ」
「できるさ!やってできないことはない、ってな」
「セランが護衛をしてくださるのですか。それは頼もしいですね。ビゼライ様、セランは強いですから、安心できますよ」
「へぇ。強いのか」
「えぇ。雷をドカンと落としてくださるのですよ。ねぇ?」
その言葉にビゼライは目を丸くした。
神は聖なる力、いわば魔法を使うことができると言われているが、ビゼライは信じて来なかった。だが、シファンの言う通り、セランフォードが雷を自由に落とせるのなら、魔法は事実なのかもしれない。それなら先ほど見た、城へ繋がる階段が浮いているのも説明がつく。
「魔法ってことか?それ」
「あぁ。俺は雷の魔法。で、先生は氷の魔法が使える」
「我々は侵食と戦う際に魔法を使用します。ですが私は魔法が弱くて戦えないので、この神殿に籠っているのですよ」
「侵食と戦うって…侵食が襲ってくるのか?」
「まぁそうだな。最初は黒いどろどろした液体みたいなやつが街を蝕んでいくんだ。それらは物を壊す力を持ってる。飲み込まれると建物は崩れ落ちて花は枯れて、荒廃する。もし俺たちが飲み込まれたら、そこで終わりだ」
「そして次第に、その液体の中から何体もの怪物が出てくるのです。それを我々の魔法で浄化して、街を守っているのですよ」
「…大変そうだな」
「まぁな。……んでその侵食は今、月にまで及んでるんだ。だが俺たちじゃ月まで魔法が届かなくてな。だから月は浄化できずにずっと侵食が進んでる状況だ」
「ですが、その月を浄化できるのが、太陽のシビュラであるビゼライ様なのです」
「…オレにそんな力があるとは思えないんだけど」
これは、ビゼライが一番聞きたかったことである。月なんてものを自分一人で救えるとは到底思えなかった。
「いえ。救えます。太陽のシビュラ様は、生まれた時からそのお力を身体に宿されているのですから」
「身体に?」
「ええ。しかし、その力を引き出すには覚醒が必要です。ビゼライ様。貴方様の覚醒が」
「か、覚醒?覚醒ってなんだよ、オレはどうすればいい」
「修行を積んでください」
「………は?」
「この国で、セランやアノンだけでない、たくさんの神と触れ合って、関わり合って……。色々な経験をして、色々な壁を乗り越えて…そうすれば自ずと覚醒の兆しが見えることでしょう」
「経験とか壁とか…オレ、すぐには帰れないのかよ…!」
「申し訳ありません。しばらくはこの国でお過ごしください。月の復興さえ成功すればすぐにでもご帰還の支度をしましょう」
「……最悪だ…」
ビゼライは絶望した。このままこの国で長い時を過ごすとしたら、教会はどうなる?日の出の鐘は誰が鳴らす?戦で参る民を安心させるのは誰の言葉?今までうんざりと繰り返してきたことも、いざ失われてみるとどうもやりきれない。あの国に、ビゼライの代わりはいないのだ。ただでさえ明日に希望を見出せない国民たちである。そこにいつ帰るかも分からないシビュラの帰りを、悩みや不安の一つとして背負わせてしまうことになるのは心苦しかった。
「ここはいい国です。美味しい料理も、美しい景色も、なんだってあります。楽しんでみてはくれませんか」
「少しの間だけだ。よろしく頼む、ビゼライ。あんたが好きそうなとこ、たくさん案内するよ。そうやっていろんなことをしながら覚醒を目指そう」
ビゼライは差し伸べられた手を取ることができなかった。ただじっと、セランフォードの揺るがない瞳と、シファンの乞うような瞳を見つめていた。
「…とりあえず、今夜は休んでくれ。先生、ビゼライは…」
「この神殿に部屋を用意してありますから、大丈夫ですよ。貴方はもう城にお戻りなさい」
「なら平気ですね。じゃあな、ビゼライ。また明日。先生も」
セランフォードは宙に浮く階段を飛び跳ねて城に向かって行った。彼は位の高い神だったのだろうか。
「部屋へ案内しましょう」
ビゼライはシファンに連れられ、これから自室になるという部屋へ向かった。
そこは大きな窓のついた、こじんまりとした部屋であった。窓から入る光が石造りである神殿に反射して眩しい。実に、二年ぶりの月明かりである。光に引き寄せられて窓を覗くと、外には空一面の星と、巨大な月が輝いていた。月は三日月ほどの形になっていて、すり減っているように見える。
「月だ…」
「久しぶりに見たでしょう。三年間侵食され続け、もうあそこまですり減ってしまったのです。今こうしている間にも月の侵食は進んでいますから、見えずとも欠けて行っていることでしょう」
「あれを、オレが…」
「ビゼライ様なら、きっと大丈夫です。我々もついておりますから」
ビゼライは巨大な月を見つめた。黄金に輝く、歪な三日月。美しいはずのそれが、今はとても恐ろしく見えて仕方がなかった。ドクンドクンと鼓動が早くなるのを感じる。
「明日、城に参りましょう。城にいる神は皆強い方ばかりですから、ビゼライ様の助けになるかと思います。その後は街に降りてもいいですね」
シファンは月に食い入るビゼライを横目に、当然のように明日の話をした。
「あぁそれと。私は神殿の奥にいます。何かあったら大きな声で呼んでください。決して、奥の部屋に来てはなりませんよ」
おやすみなさい、と優しい声色で、しかし鋭い眼光で、シファンは挨拶をして部屋を出て行った。ビゼライは孤独であったから、誰かに就寝の挨拶をされるのは数年ぶりであった。父親の声で聞いた、十三の時が最後である。
ビゼライはシビュラの証である緋色の上着を脱いで、ベッドに入った。冷たい夜風が頬を撫でる。壊れかけの月明かりに落ち着かない鼓動を晒して、ビゼライは目を瞑った。
「さっき、シファンのとこに太陽のシビュラが来たって」
「早々にアノンと喧嘩したとか。ふぉっふぉっふぉっ、若い証拠ぞ」
「何があろうと、我々はあの方の命令通り動くのみだ」
「明日、城に来るらしいからの。挨拶せんといかんな」
「えー…めんどくさい…」
「……」
「うむ…そなたらも困ったものよ…」
夜の城の大広間には、そう言葉を交わす三人の神の姿があった。
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