ー Episode 1 ー 猜疑のシビュラ

 空が黒い。

 星も月もない夜空は、これほどまでに不安を煽る色を湛えていたのだ。我が国、セレタニアの国民たちはここ二年でそう思い知らされることとなった。

 瞳は無意識のうちに、空に雲の色を探す。

このとめどない不安を、少しでも和らげたいからだ。

 頭上一面に暗黒が広がる、こんな夜の始まりは、この国が犯した過ちが元だったらしい。

そう神の信徒なり為政者なりが威張っていたのを耳にしたことがある。


 _____三年前、この国は戦争に漕ぎ出した。

隣国との物資をめぐる争いである。

数多の国民が命を天に還した。

数多の建物が瓦礫と化した。


 そして、その争いの勃発から一年後、この国からは月が消えた。月が、まったくもって見えなくなってしまったのである。まるで、天に隠されたかのように。

人々は、これを『神の怒り』と捉えた。

争い、殺し合う人間たちを侮蔑した神が、憤怒の末に月を隠したのだと。


 夜の空からは月が消え、やがて星が消えた。

月明かりを失ったこの国の夜は鬱屈し、国民たちは不安に嘆き、悲しみに喘ぐこととなったのである。



 セレタニア王国は神の信仰が厚い。そして、それと同時に『シビュラ』と呼ばれる青年を崇めた。

シビュラは、この国における最高聖職者の呼称であり、神と交信する能力を持ったいわば神の使徒的存在である。

そして、今この王国のシビュラは、ビゼライという十八の青年が担っていた。


 シビュラは太陽を司るという言い伝えがある。

太陽を昇らせるも沈ませるも、シビュラの仕事。

太陽の管理者。それがシビュラである。

それと反対に、月を司るのは神だと言われていた。

つまりセレタニア王国にとって、シビュラは人間でありながら、神と同等の立場にあるものと考えられている。だから崇められ、称えられ、持て囃された。


 そして神が司るという月が消えた今、人々は神と同等であるシビュラが司る、昼間の太陽に縋るようになった。

日を沈めないでくれ。

ずっと照らしていてくれ。

そんなどうにもならない思いを、たった一人の青年にぶつけるようになったのである。

 シビュラは困惑した。

 シビュラは太陽を司る。しかし、シビュラは神ではない。縋り訴えるこの人々と変わらぬ、ただの人間である。

いくら言い伝えが摩訶不思議な神秘を轟かすものであっても、ただの人間に太陽を操る力はない。

当たり前に、勝手に、太陽は昇り、沈んでいく。


 しかし自分に縋り、不安を嘆く人々にその事実を打ち明けることなどできるはずもなく、シビュラはただ、じっと耐え忍び、微笑を湛えるしかなかった。



_____________________



 まだ暗い、閉ざされた教会の奥で、一人目覚める青年がいた。

身支度を整え、外の空気を吸い上げる。

 シビュラの朝は早い。日の出よりも前に目覚め、神に祈りを捧げる。そして日の出の時刻に鐘を鳴らす。太陽が昇る合図を出すことで、あたかも自分が昇らせたかのように見せる。ほとんど一種の洗脳である。

 ビゼライは今朝も、毎日変わらず繰り返すこの行動にうんざりとしていた。


 紀元前、とある一人の信徒の必死な奔走によって建てられたと言われるこの教会は、シャルトルの大聖堂と似て、ステンドグラスを輝かせ、城のような姿をしている。

言わずもがな、この国で一番大きく、広い教会であある。


 ビゼライはここに一人で暮らしていた。

不安や恐ろしさを閉じ込めて、この大きな十字架に今日も向かう。

どれだけ荘厳で煌めかしい教会であろうとも、一人となればその広さは胸の寂しさを揺らすのには十分だった。


 ビゼライの父親は先代のシビュラであった。

しかし持病を拗らせて急逝し、ビゼライは十三でシビュラになった。

 母親はビゼライを生んでまもなく臨終した。

 ビゼライは今、孤独であった。

 シビュラとして多くの国民に愛されるビゼライである。しかし、その愛は所詮、上辺だけであった。

神と同等だから。太陽を司るから。

それらがなくなったときも、変わらず人に愛され続ける自信などビゼライにはなかった。

愛される理由を持ち合わせていなかったのである。


 ビゼライの気質は尖っていた。民に言う愛想は「シビュラ」という立場のためである。

本来のビゼライは人を寄り付かせない雰囲気を纏う、言葉の鋭い青年であった。

これを言ってしまえば、上辺だけなのはお互い様であるのだから、仕方がないといえば仕方がない。


 そんなビゼライであるが、もう諦念して、今日も教会を訪れる民に常套句を振りかける。


「おはようございます。本日もご足労感謝いたします。貴方様に神のご加護があらんことを」


 毎日教会を訪れる民は多い。

ビゼライはそのほとんどの顔を覚えていた。


 毎日毎日、神に祈って。

 毎日毎日、自分に縋る。


『神を信仰すれば、神は私たちを守ってくださる』


 セレタニアの民ならばこの教えは常識であろう。まさに、盲信者を生み出す習いである。こんな教えは、もう国全体の教えと言っても過言ではない。国民全員が、生まれたときからこの言葉を刷り込まれる。


 しかしビゼライは違った。

ビゼライは気づいていた。

神は守ってくれないと。

神は助けてくれないと。


 もし教えが真実ならば、この長く続く隣国との争いはなぜ終わらない?なぜ犠牲者は増え続ける?なぜ苦しみ続けなければならない?

矛盾している。何もかも。


 神よ。あんたらは嘘つきだ。


 神なんてくそ食らえ。信仰なんてくそ食らえ。

薄情者。裏切り者。いい顔した偽善者。大嘘吐き。



 ビゼライは神と同等の立場である。

シビュラである。神との交信もできる。

しかし、ビゼライだけが、この国で唯一、


神を信仰していなかった。

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