遅い夢と速い現実
朝、目が覚めると、薄暗い部屋にかすかな光が差し込んでいた。
紗妃は毛布にくるまったまま、天井をぼんやりと見つめる。
昨夜の疲れがまだ体に残っているが、すぐに起きなければならない。
昼間は動かないと、夜の仕事までに金が尽きる。
隣では沙夜がまだ寝息を立てていた。
姉は夜の仕事が終わった後もなかなか寝付けず、朝方までスマホをいじっていたのを覚えている。
「……姉さん」
小さく呼びかけると、沙夜はもぞもぞと動き、うっすら目を開けた。
「ん……何?」
「そろそろ起きないと、お昼になっちゃうよ」
「……もう昼でよくない?」
沙夜は寝ぼけたままそう呟く。
動きたくなさそうな顔をしている。
「でも、食べ物も買わなきゃだし……」
「……ああ、そうね」
沙夜は大きく伸びをして、ゆっくりと起き上がった。
寝起きの顔でも整っていて、メイクなしでも美人だ。
彼女はスマホを手に取り、電源ボタンを押す。
ロック画面に表示された時間は、午前11時42分。
「ふぁ……とりあえず、コンビニ行こっか」
「うん」
2人は最低限の身支度をして、財布を持ち、アパートを出た。
昼の街は、夜とは違う顔を見せていた。
学校帰りの高校生、ベビーカーを押す母親、スーツ姿のサラリーマン。
誰も彼も、どこか自分たちとは別の世界の人間に見える。
「……あたしたちも、普通に働けてたら、こんな感じだったのかな」
沙夜がふと呟く。
「普通って、何?」
紗妃が聞き返すと、沙夜は少し考えてから、苦笑いをした。
「さあね。でも、朝起きて、昼働いて、夜寝る……って生活、できないよね」
「うん」
紗妃は頷いた。
「普通の生活」というものが何なのか、自分たちにはもう分からない。
否、始めからわからない……というか、知ることができなかったのだ。
コンビニに入ると、2人は手早く必要なものを選んだ。
おにぎり、パン、カップ麺、水、安いお菓子。
冷蔵庫に何もないときは、これでしのぐしかない。
レジに並ぶと、前の客がポイントカードを出していた。
店員は機械的に「ポイントカードお持ちですか?」と尋ねる。
「……ねえ、ポイントカードとか、あたしたちも作ったほうがいいのかな」
沙夜が呟く。
「でも、名前とか書かなきゃいけないんじゃない?」
「あー……めんどくさいね」
沙夜は苦笑して、財布から紙幣を出した。
自分の名前を書くのも苦手な沙夜にとって、会員登録の書類なんて地獄のようなものだ。
住所や電話番号を書くのも面倒だし、何かあったときに追われるのも嫌だった。
だから、彼女たちは何かに登録することを避ける。
だが、それで困ることはない。
2人は社会を捨て、捨てられた存在。
故に「身分を証明するもの」なんて、持っていなくても困らない。
買い物を終え、アパートに戻る途中。
「ねえ、今日どうする?」
紗妃が尋ねると、沙夜は少し考えた。
歩きながら、コンビニの袋をぶら下げた手を揺らす。
「……今日ねえ」
ぼんやりとつぶやきながら、適当に歩道のタイルを蹴った。
「稼ぎ時は夜だし、昼間は……別に何もしなくてもいいんだけどさ」
「でも、お金なくなるよ」
紗妃は少し不安そうに言う。
「わかってるって。だから、何か動くなら昼のうちに動こうかなって」
沙夜はコンビニの袋を持ち直しながら、ふと足を止めた。
「……久々にダンスでもしよっかな」
「ダンス?」
「うん。ずっとやってなかったし。体、鈍ってるしさ」
そう言って、沙夜は少しだけ体を揺らす。
リズムを取るように、無意識に足を踏み出す。
「ダンスして……どうするの?」
「どうするって、別に何かに使うわけじゃないけど」
沙夜は苦笑しながら、近くの公園に目を向ける。
「まあ、ちょっと動いてスッキリしたいなって思っただけ」
「……ふうん」
紗妃は少し考えた後、「じゃあ」と言って足を向ける。
「公園、行く?」
「行こっか」
2人は近所の小さな公園に向かった。
昼間の公園は、母親に連れられた子供や、暇を持て余した老人たちがぽつぽつといる。
「んー……人いるね」
沙夜は少し考えたが、すぐにどうでもよくなった。
「ま、いっか。ちょっとやるだけだし」
彼女はその場で軽くストレッチを始める。
首を回し、肩をほぐし、足を伸ばす。
「……」
一度、目を閉じた。
音楽はない。でも、彼女の中にはずっとリズムがある。
そして、足を踏み出した瞬間——沙夜の動きが変わった。
さっきまでダラけていたのが嘘のように、流れるようなステップを踏む。
体をひねり、腕を滑らせ、リズムに合わせるようにターンする。
無駄な動きがなく、しなやかで、美しい。
風が、彼女の髪を跳ねる。
遊んでいた子供が、彼女をじっと見つめる。
彼女を見て、紗妃の胸の奥がざわめく。
やがては、公園のざわめきが遠のく。
紗妃は、じっと姉を見つめていた。
——沙夜はこういう時だけ、別人みたいになる。
「……ふぅ」
一通り踊った後、沙夜は息をつき、軽く汗を拭った。
「やっぱ楽しいな」
沙夜は笑った。
本当に、楽しそうな顔だった。
紗妃には、公園の母親が一瞬だけ沙夜を嫌そうに見ていたのが見えていた。
そして、子供の笑い声が胸に刺さった。
だが、沙夜はそんなことには気づいてもいない。
「……姉さん」
「ん?」
「やっぱり……ダンサーになりたかった?」
「んー……」
沙夜は考えるように空を見上げる。
「なれたら、なりたかったかな」
「なれないの?」
「……もう、無理でしょ」
そう言って、沙夜は苦笑する。
「だって、何もかも遅いもん。まともなレッスン受けたことないし、経験もないし、コネもないし。そもそも、あたしたちには……」
「お金がない」
紗妃が続けると、沙夜は肩をすくめた。
「そう。金がない。それに、あたしには…まともに食っていけるような力はない」
ダンスは好きだ。でも、好きなだけでは食っていけない。
何より、それで食っていけるほどの才能が自分にあるとも思えない。
「まあ、今さら考えても仕方ないし」
沙夜はそう言って、公園のベンチに腰掛けた。
「……じゃ、そろそろ行こっか」
「うん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます