第3話 何色でもない色
「ねぇ見てこれ。めちゃくちゃ綺麗じゃない?光ってるの分かる?」
「光ってるのは、分かる。何色なの?」
「『北海道の夜空』だって。ねぇ目の中の世界連れて行っていい?」
「ふはっ、そんなに簡単に俺連れて行っていいの?行きたいけど」
藍染さんは、綺麗な色鉛筆を見つけると仕事の前に目の中の世界に連れて行ってくれるようになっていた。あそこに行くのももう3回目だ。
「…あれ、なんか増えてない?」
「気づいた?この前自分で着たくて作ったワンピースなんだけど、なんか納得しなくてね。なんかいいアイデア思いつくかもと思ってとりあえずここに持ってきたの。ねぇそれより!これを見て欲しかったの!」
彼女は色鉛筆のことになると、急に幼くなることが最近分かった。宇瑠間さんが過保護になる理由が凄く理解できる。普通にかわいいもん。ギャップってやつだね。
「うぉ…すげぇ綺麗じゃん。黒にラメみたいなの入ってんの?」
「黒と青と緑が入ってるっぽいよ、冬の澄んだ夜空は確かにこんな色してるの。センスいいね~」
芯の色を見ただけで、混ざってる色を言い当てている。流石だな…
「藍染さんさ、なんでそんなに色鉛筆が好きなの?」
それが疑問だった。色に関するものならほかにもたくさんあるはずなのに、なぜその中でも色鉛筆なのか。
「ん~もともと小さいころからお絵描きとか色塗りが好きだったって言うのもあるんだけど。…前に言ってた、事故の時に見えたお父さんの色の話覚えてる?」
「覚えてるよ」
「その色、画用紙に鉛筆で色を塗ったみたいなガタ付きのある塗りムラがあるんだけどほとんど色素の見えない、何とも言えない色をしてたの…私その日旅行に行ってたらしいんだけど、何にも覚えてなくて。最後の家族旅行だったから、その色を見つけたら全部思い出せるかもしれない。って思ってるの」
「でもその色見つけたら、意識失っちゃうんじゃないの?」
「まぁね。だから宇瑠間にはただただ色鉛筆が好き、っていう事にしてるの。あの色を探してるなんて言ったら、文房具屋さんに連れて行ってくれなくなっちゃうでしょ?失った記憶の中に楽しい思い出があったなら、思い出したいじゃん」
確かに、そんなことを言ったら確実にやめてくださいと言われるだろうな。
「あ、宇瑠間には絶対内緒だからね?」
「…分かった。そっか…だから色んな色鉛筆探してるんだね」
「まっ、そうはいってるけどほぼ趣味だね。単純に色鉛筆の温かい色味が好きだし、想像するのが楽しいから。白井君も見てわかったでしょ?ペンとか液晶では出せないこの質感」
彼女の色鉛筆に対する愛着度は、もはやオタク級だ。今も俺に説明しながら目を輝かせて早口で喋っている。宇瑠間さんには内緒にしといてね?何て言われて承諾したけど、ばれた時には俺も怒られそうだな…
「ごめんね、私がこの色を見せたいがために連れてきて」
「ううん、俺もこの場所お気に入りだから連れて来てもらえるの楽しみにしてるし」
そういうと、また再び目を輝かせて頷いた。『北海道の夜空』は、自分で買いに行ったのではなく、誰かからもらった物らしい。その時は深く追及しなかったのだが、その相手は以外にもすぐに判明した。
「今日はひたすら書類整理だから、頑張ってね」
「こちらどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
土曜日の朝、宇瑠間さんが入れてくれたコーヒーとともにたくさんの書類が渡された。この土日で仕上げれば良いとの事なので、そこまで切羽詰まった状態ではないのだが、気合を入れなければならない。藍染さんは相変わらず忙しそうで、パソコンと睨めっこしては部屋を出てを繰り返している。
「…ごめん藍染さん、これどうしたらいい?」
「えっと、さっきの写真と照らし合わせて打ち込んでくれたら大丈夫。順番に番号振っておいてくれたら嬉しい」
「了解」
基本的な事務作業からよくわからないデータの処理まで、何を聞いてもすぐに答えてくれる。何かしら専門外のい処理があってもおかしくないのに、この人の頭の中はどうなっているんだ…
「…白井君のその体の周りに出ている色はどういった感情?すっごい紫色してるんだけど、」
藍染さんに苦手なものがないのかと考えていたためか、俺のオーラの色が変わっていたらしい。紫なの…?
「…ばれた?いや、藍染さんに苦手なものとかないのかなぁって思ってさ。なにを質問しても絶対答えてくれるじゃん?粗探ししても見つからないんだよね」
「えっ…私そんなに完璧人間じゃないよ?動物全般苦手だし、泳げないし椎茸と人参嫌いだし。ほらいっぱいあるよ!」
指を折って苦手なものを数えているが、どれもこれも内容が可愛すぎる。確かに苦手なものはあって人間味は出て来たけれど、小さい子の好き嫌いを聞いているようだった。
2人で平和な会話でクスクス笑っていると、ドアがノックされ、宇瑠間さんが入って来た。前に見たことのある、険しい表情だ。
「…失礼いたします。カノン様、白銀さんがお越しなっているのですが、ご案内いたしますか…?」
「白銀さんですか?…分かりました、こちらにお通しください」
知らない名前の人だ。藍染さんがテーブルの上を片付けていると、ガタイのいい30代半ばほどの男の人が入って来た。この人が白銀と呼ばれた人だろう。
「失礼します。カノンちゃんごめんね仕事中に…。忙しかった?」
「こんにちはっ。大丈夫ですよ?何か急な御用ですか?」
「うん、出来れば急ぎでお願いしたいんだけど…こちらは?はじめてお目にかかりますが、」
急いでいたのか、藍染さんの後ろにいた俺に今気づいたようだ。
「初めましてでしたね、新しくアルバイトで入ってくれている白井君です。大学が同じで、私と一緒に働いてくれてます」
「どうも…」
「同い年なんだ!それは嬉しい報告だね。あ、私はこういうものでして…」
「…警察手帳⁉えっ?」
目の前に出された黒い2つ折りの、ドラマでよく見る警察手帳。本物なんか初めて見た…出会うはずのない場所での警察官との遭遇に、何もやましい事していなくても背筋が伸びるのが分かる。目の前の2人に聞きたいことは山ほどあったが、今はそれどころじゃなさそうだ。
「いつものお願いですね」
「そうなんだよ。頼めるかな、出来れば明日までに…」
「白銀さん、それはいくら何でも急すぎではないでしょうか、」
今まで黙っていた宇瑠間さんが割って入って来た。その表情はやはり険しく、この刑事さんと宇瑠間さんの関係が、あまり良くないものだと感じた。丁寧な言葉遣いの奥に、敵対視とは違った苦い感情が見え隠れしている。藍染さん風に言うなら、緑と黒と紫の混じった感情とでも言うのだろうか。
「それは重々承知しているんだけどね宇瑠間君」
「行きましょう。今から」
そう言った彼女は、パソコンの周りまで片付け初め、あっという間に出かける準備を終えていた。
「今日で良いの⁉いや、ありがたいんだけど…大丈夫?」
「大丈夫です!多分明日の方が忙しいと思うんで、気が変わらないうちに行きましょ?白井君も一緒に行くよ~」
「え、えっ?あ、はい…」
「宇瑠間、後は頼みます」
「……」
宇瑠間さんの返事を聞くこともなく、彼女は俺を連れて白銀さんの車に乗り込んだ。いや、俺だけが何もわかってないんだけど?
「…藍染さん、これはいったいどこへ向かっているの?」
「あ、ごめんね何も説明しなくて!今から、警察に行ってボランティアするの」
「…ボランティア?なんか、宇瑠間さん不服そうだったけど、置いてきちゃってよかったの?」
「ははっ、宇瑠間君はあまり私たちの事をよく思っていないからねぇ」
彼は苦笑いのお手本のような笑い方をしていた。
「一緒に連れてきたら空気が凍り付いちゃいそうだから、いつも会社に置いていくの…過保護が過ぎちゃうんだよね。白井君には知っておいてもらわないといけなかったし、刑事さん達ともバチバチすることもないからついてきてもらったの」
「へぇ…」
「まぁカノンちゃん。宇瑠間君の気持ちも分かってあげて?可愛い妹が良いように使われて気が気じゃないんだって」
「…いいように使っている自覚があるんですね?」
「あぁ…うんごめん」
2人ともが、そこまで重い話をしている雰囲気ではなかった。これは戯れの1つなのだろう。未だにボランティアの意味と宇瑠間さんの機嫌が悪くなる理由は分からないが、走行している間に警察署についた。降りてから気が付いたのだが、この車。この前に学校の近くで藍染さんらしき人が乗り込んでいた車だ。やっぱりあれは見間違えなんかじゃなかったんだな。
「どうぞ入ってください。白井君も入って貰って大丈夫ですよ」
「あ、どうも…」
案内された部屋には1つ窓がついている。そこから見えるのは机と椅子、そして1人の男だけだった。これはまるで…
「…取調室?」
「そっ、この隣の部屋は取調室。で、あそこにいてるのが今回カノンちゃんにお願いしたい人物ね。…どうも話に嘘が多くて、どの言葉にも信憑性がなくて参っててね。一通りこの質問をお願いしたい」
「分かりました。白井君はここで待ってて?」
そういうと何枚かの資料をもって隣の部屋へと入っていった。取調室って、そんなに簡単に入っていいものなの⁉普通…じゃないけれど大学生だよ?彼女の後から別の刑事さんが2人入っていったけど、何が始まるんだ…
「初めまして。少しだけ私にお付き合いください」
「えっ、超美人さんじゃないですか。初めて見るっすけど、こんなきれいな刑事さんもいるんすね。名前なんて言うんですか?」
「え~秘密です。私のことは置いといて、あなたのことをお聞かせください。お名前から聞いていいですか?」
藍染さんは慣れたように男の質問をかわしながら笑顔で話し始めた。
「青波レン。27歳っす」
「青波さんですね、普段何されているんですか?」
「仕事してるよ?フリーのカメラマンしてます。ウェディングフォトとかモデルさんに依頼して小さい写真集出したりして、これでも結構忙しいんですよ?」
「へぇ凄いですね。じゃあ先週の木曜金曜日もお仕事に?」
「そうですよ。スタジオで撮影してました。でもそれがどうかしましたか?」
「その日、行方不明になった女の子がいるみたいで、今捜索中なんですよ。この場所に見覚えないですか?」
「…ん~ないっすね。すみません協力できなくて」
「いえ、十分ご協力いただいてますよ?」
「え?」
ここまで一気に話した彼女は、ふっと一息ついてまるで呪文のように呟き始めた。
「…千代田区、墨田区、世田谷区、練馬区、荒川区、江戸川区、武蔵野区、調布市…そうですか」
「は?」
「ではビルでしょうか?…ん~違うとなれば一軒家?…あ、工場とか…会社。あぁ、金融関係ですか?…不動産?なるほど」
「な、なんだよ」
「あ、気にしないでください!…アイラク、ホームメイト、さくら…。事務所?ではないとするなら…モデルルーム」
青波と言う男を見つめたまま話し終えた彼女は、ゆっくりと目を閉じ、少し口角をあげた。
「ご協力ありがとうございました!では、私はこれで失礼します。…あ、嘘はつかない方が良いですよ。その時はいいかもしれませんが、後で痛い目を見るのはあなたですから」
「……」
最初から最後まで、何1つ状況を理解できなかった。藍染さんは、10分ほどで話し終えるとすぐにこちら側まで戻って来た。
「お疲れ様カノンちゃん。…どうだった?」
「はい、さくら不動産が以前実施していて、今は見学をやっていないモデルルームを探してみてください。調布市内です。お探しの人はおそらくそこにいます」
「さくら不動産か…ありがとう!報告してくるからいつものところで待ってて」
「は~い。白井君行こ?」
「はい、」
白銀さんは走って誰かに今の内容を報告しに行ったようで、俺は藍染さんに連れられてカフェテラスのようなところに連れて来てもらった。
「ここで待ってて?私お手洗いに行ってくるから」
1人取り残されたのだが、誰か説明してくれないかな…?ここに来るまでもここに来てからも、俺はボランティアをするという事しか教えられていない。制服を着た警察官が歩いている署内をきょろきょろしていると、白銀さんが戻って来た。
「お待たせしちゃったね、カノンちゃんはお手洗いかな?」
「そうです。…あの、聞きたいこと山ほどあるんですが、」
「あぁ、そうだよね説明させてもらうよ。今まではちょっと急いでたものでね…。さっきカノンちゃんが言ってたボランティアって言うのが、今の取り調べなんだ」
「…取り調べがボランティアだなんて、聞いたことありませんよ?そもそも一般人が立ち入っていいものなのか…」
「特例中の特例だからね。…カノンちゃんの事故のことは聞いたことあるのかな?」
「聞いています。相貌失認症のことも含めて」
「そうか、君はかなり信頼されているんだね。あれは、ひどい事故だったよ…玉突き事故でね。もととなる原因を作ったドライバーはその場から逃げてしばらくの間捕まらなかったんだけど、その捜査を担当していたのが僕なんだ。それで、事故の唯一の生存者だったカノンちゃんによく話を聞きに来ていたんだ。最初は〝嘘つき〟って言われて凄い嫌われてたんだけどね?彼女に身についた能力を聞きつけた上層部が僕に指示を出してきたんだ」
「…取り調べで嘘を見極めるようにと?」
「そういう事。普段彼女に見えているオーラは、あくまで彼女の感性だから、おおよそでしかないんだって。ここに来るときはより濃い色を見てもらっているんだ。カノンちゃん、取り調べの最中1度も瞬きをしていないんだ」
…瞬きをしていない?あの部屋にいた時間は、少なくとも10分はあったと思うんだが、
「気づかなかったでしょ?集中するために、瞬きが邪魔らしい。ただ、これをすると彼女の負担が大きいから、心が痛むんだ…宇瑠間君に嫌がられるのも当然なんだよ」
警察が信頼するほどの精度がある嘘発見器。これだけ見れば素晴らしい能力だが、身を削って実行する取り調べは、過保護の執事さんでなくても心配になる。やはり、ここに宇瑠間さんを連れてこないのは賢明な判断だ。ピリついた空気に俺は耐えられる自信はない。
「警察の取り調べに協力してもらう上で、私たちはカノンちゃんとある取引をすることにしたんだ…取引って言っちゃ聞こえが悪いな。約束をしたんだ」
「約束…」
「おまたせしました~」
約束の内容を聞き出す前に、藍染さんが目を擦りながら戻って来た。10分間も瞬きをせずにオーラを見続けたんだ、無理もない。
「いつもありがとう。じゃあ送っていくね。あ、白井君に色々話しちゃったけど、良かったかな…?」
「全然大丈夫ですよ?私からも伝えるつもりだったので、ありがとうございます。…あ、白井君。宇瑠間に連絡してもらえる?急いで準備してきたから携帯忘れちゃってさ」
「分かった」
白銀さんの車に乗り込むと、藍染さんはすぐに目を閉じて、会社に着くまで動かなかった。そんな彼女を気遣ってか、移動中は白銀さんも口を開かず、運転に集中していた。会社の前に着くと、宇瑠間さんが落ち着かない様子で待ち構えていて、まだ目を開けない彼女を、車が止まるなり抱えだした。
「…白銀さん送迎ありがとうございました。白井君行きましょう」
「あ、はい…ありがとうございました」
「こちらこそ。カノンちゃんによろしく伝えておいてね」
宇瑠間さんは振り返ることなく、藍染さんを抱えたまま急いで会社に入っていった。彼女は寝ている訳ではなかった様で、途中何度か下ろせとじたばたしていたが、無言の執事さんに圧倒されたのか、部屋に着くころにはおとなしくされるがままになっていた。ソファに藍染さんを下すと、彼はまたまた急いで部屋を出て行った。…終始無言なんだけど、凄い不機嫌そうだな…藍染さんは引き出しから目薬を3種類も出して、順番に点していた。ようやく目が開いてすっきりしたのか、思いっきり伸びをした。10分間の尋常じゃない集中は、精神力だけでなく目の負担も重いのだろう。
「白井君今何時?」
「えっと…今16時になった所だよ」
「もうそんな時間か…とりあえず18時まで仕事頑張ろうっか!宇瑠間に怒られそうだけど!」
「…宇瑠間さんかなり不機嫌だったけど、大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。無理をするなってよく怒られるけど、なんだかんだで私にはめちゃくちゃ甘いから。本気で怒ることはないよ。それに今回は白井君も一緒に連れて行ったから、いつもより幾分かマシだよっ」
いつもどれだけピリついた空気のまま彼女は取り調べに行っているんだ⁉と、驚いてしまう。そこまでして藍染さんが警察に協力するのは、約束があるからなのか…?
「…失礼します。こちらどうぞ。白井君すみませんでした、先ほどは少々気が立っておりましてお見苦しいところをお見せしました…もう大丈夫なので、申し訳ありません」
「いえ…宇瑠間さんの気持ちは、よくわかりました、」
ですよね。とでも言うように目で会話した。彼が用意してくれたのは、朝貰ったコーヒーとは違って優しい味の紅茶だった。そして、何やら凄いものも一緒に持ってきていた。カフェなどで見るアフタヌーンティ―とでも言うのだろうか。何でも、取り調べをした後の藍染さんは糖分を消費しているらしく、帰ってきたらとりあえず甘いものをたくさん食べさせているのだそうだ。にしても、凄い量だな…
「白井君も一緒に召し上がってください。私はまだ仕事がありますので隣の部屋にいます。…カノン様は止めた所で仕事をすると思いますので、何かありましたらすぐにお呼びください」
「分かりました。これ、ありがとうございます」
藍染さんは怒られなかったことが意外だったらしくきょとんとしていた。どうやら宇瑠間さんは、共感してくれる人が出来たことで怒ることをあきらめたのかもしれない。
「…白井君がいると、平和に事が進む。感謝です」
「ふはっ、いるだけで何にもしてないけどね?」
「そんなことないよ!これ食べながらのんびり仕事しよっか。明日頑張ればいいし、今日は簡単なものだけでいいよっ」
彼女が甘いものを食べているところはあまり見たことがない。どちらかと言うと…年齢層高めの食べ物がお好きなようで。お酒は飲まないらしいんだけど、よくおつまみの様な物を食べている。ナッツとか、サキイカとか、おせんべいとか…
「藍染さんが甘いもの食べてるの、なんか新鮮だね」
「ん~そうだね。食べるのは好きだよ?でも運動することが少ないから、食べるなら太りにくいものとか、凄いよく噛むものとかが多くなっちゃうの。服作るときも、自分の体形を参考にしているから、だらしない体にはできないからね」
「…すげぇ」
そんなことまで注意しているとは驚きだ。まさにプロ意識。取り調べに行くと、宇瑠間さんの機嫌は悪くなるけど甘いもの食べられるから嬉しいのだとか。たまに、彼女の思考が子供のようになるのが、何とも面白い。
翌日、再び朝から会社に来ていた。昨日の遅れを取り戻すために朝から2人で黙々と作業を続けている。昨日目を使いすぎた藍染さんは、珍しくメガネ姿だ。さらに社長感が増してカッコいい。ちょくちょく部屋に入ってくる女性スタッフの人たちがメガネ姿の彼女にメロメロになっていたのは、言うまでもない。これが大学の日じゃなくてよかった。ユウカとナホが心臓撃ち抜かれて授業どころじゃなくなっていただろう。
「白井君お昼休憩にしよ!また1時間半後にね~」
「はぁい」
4時間ほど作業に没頭し、あっという間に休憩の時間になった。お昼は、社員食堂を使わせてもらっている。これが結構おいしくて、コンビニで買うなら断然こっちで食べるべきだという藍染さんに押されて行ってみたが、本当に正解だった。
「あ、やべ…」
部屋を出たのはいいものの、財布をそのまま置いてきてしまった。食堂のある1階まで降りてきてしまっていたので、再び階段を上る。
「⁉」
「…びっくりした…ごめんいると思わなくて、」
声にならない悲鳴を上げた藍染さん。彼女も休憩で部屋に戻っているだろうと思って無言でドアを開けてしまったので、お互いに驚いてしまった。
「いや、大丈夫!凄いびっくりしたけど」
「ごめんね?休憩してなかったの?」
「うん、今さっき白銀さんがここに着いたって連絡が入ったから、ここで待ってたの」
白銀さんが…?昨日の今日でまた頼み事を持ってきたというのだろうか。
「失礼します。白銀です」
「どうぞ~」
話をしている間に到着したらしい。昨日と違うのは、スーツ姿ではなくラフなジーパン姿であることだ。そして、右手には何やら紙袋を持っている。
「休憩中にごめんね。昨日はありがとう!おかげで行方不明の女の子が見つかったよ」
「本当ですか?良かったぁ…お力になれたようでよかったです」
「うん凄い助かった!で、これがお約束の物ね。今回も俺的には中々いいもの集めたと思うんだけど」
紙袋を受け取った彼女は、いつか見たようなキラキラな眼差しを向けていた。…もしかして、この中身は、
「ありがとうございます!えっ⁉凄い形の色鉛筆ですね!これもこれも綺麗な色…はぁ、最近の努力が報われた気がしますっ」
やっぱり色鉛筆だった。彼女の目の輝きには度数があることが最近分かったが、色鉛筆を見た時の度数を超えたものはまだ見たことがない。
「白銀さん、藍染さんと約束をしたことってもしかして…?」
「うん、面白い色鉛筆をプレゼントするっていう事。初めてお願いした時に、『またお願いすることがあるかもしれないんだけど…』って言ったら『面白い色鉛筆プレゼントあるならする』って約束をしてくれてね。宇瑠間君はそのころから止めに入っていたけど、やっぱりカノンちゃんの押しには勝てなかったみたい。仕事柄いろんな場所に行くことが多いんでね、そのたびに文房具屋さんを探してるんだ。今日の奴は長崎県産だよ」
色鉛筆を魚の産地のように言う人は初めて見た。藍染さんの色鉛筆収集の3分の1は白銀さんの足によって探し出されたものらしい。彼は藍染さんの色鉛筆に対する情熱になれているのか、夢中で眺めている最中に失礼するねっと出て行った。俺もこの場にいたら昼ごはんが食べられなくなる可能性を見たので、財布だけ持って食堂へ向かった。
「おはよう」
「…あ、おはようございますっ」
朝大学でいつもの席に座っていると、隣に珍しい人が来た。金井ジン君。連絡先を交換した日から、ほとんど毎日他愛もない話を続けていた。
「ねぇなんで敬語?同い年なのに」
「あぁ…そういえばそうだね。無意識だった!金井君もこの講義受けてるの?」
「そうだよ。いつも朝来たら藍染さん友達のところにいるから、今日がチャンスだと思って隣に座りに来た」
「ふふっ、相変わらず素直なんだね」
この人はびっくりするほど思っていることをそのまま言葉にする。嘘なんかついたことないんじゃないかと思う程に、ずっと綺麗なオーラを放ち続けている。みんながイケメンと言うのは、私にもわかる気がする。色が綺麗だもん。
「授業始まるまで色々聞いていい?」
「えっ?全然いいけど…何を聞きたいの?」
「彼氏がいるかどうか」
「…本当に直球で来るねっ。んふっ、彼氏はいないよ?」
そういうと一瞬驚いたあと、すぐに笑顔になって、
「これはまたまたチャンスだね」
なんて言っていた。ここまでくれば、どんなに鈍感でもわかる。この人は、私に好意を抱いてくれているんだって。今まで告白してくれた人もそうだけど、一瞬だけオーラの色が真っ白になる。金井君は、オーラ自体が白いから分かりにくいけど、話しているとよくオーラの白い範囲が広くなっている。
「じゃあさ、今度一緒にご飯食べに行ってくれたりする?」
「私と2人で?」
「うん、ダメ?」
いつもならそれとない理由をつけて断っていたかもしれない。でも、金井君のまっすぐさには、安心感があった。今日も、オーラの色に変わりないし、一安心。
「いいよ。でもね、空いている日が限定されてるんだけど…」
「俺バイトのシフトは融通利くから合わせられるよ?」
「…じゃあ再来週の金曜日の夕方はどう?」
「大丈夫!本当に良いの?」
「うん!あんまり遅い時間は怒られるけど、夜ご飯だけなら大丈夫だよ」
そこまで話し終えると、先生が入って来た。彼はと言うと、嬉しすぎて授業集中できなさそう…なんて言っていた。授業中は特に話をすることもなく、チャイムが鳴ると、少し不思議なことを言って去っていった。
「…ダイはどう思う」
「どうもこうも、見たまんまじゃない?藍染さんはともかくジンの方は結構好意駄々洩れな感じだし」
教室の隅っこで藍染さんとジンが2人で話していて、その後一緒に授業を受けていた。お昼を食べに食堂へと集まった俺とユウカはこの話でもちきりだ。ナホとハルトはこの後授業をとっていないらしく、今日集まるのは藍染さんを含めた3人だけだ。ユウカは朝一で見てしまった光景に興味津々のようだ。
「気になるなら本人に聞こうよ。ほら、噂をすれば来たよ?」
いつも通りお盆にうどんを載せてやってきた藍染さん。ユウカの目線に気が付いたのか、恐る恐る俺の隣に座った。
「…ユウカちゃんどうしたの?」
「説明してもらおうかしら。金井ジン君とはどういうご関係で?私聞いてないよ!2人が付き合ってたなんて!いや、全然めちゃめちゃ応援するんだけどさ⁉」
「ちょ、ちょっと待ってユウカちゃん…勘違いしてると思うんだけど、付き合ってないし、この前ちょっと助けてもらった縁で話すようになったの」
「はいはいユウカ、ちょっと落ち着け?藍染さん困ってるから」
ユウカの激しいオーラがまぶしいのか、目を細めて視線を外している彼女を助ける。俺も連絡先を交換したところから先の話を聞いていないので、気にならないと言ったら嘘になる。
「ジンの方から連絡先聞かれたんでしょ?」
「うん、良い人だったからオッケーしたの。それから、ちょこちょこ…と言うかほぼ毎日連絡来るかなぁ」
「…カノンちゃんめちゃくちゃ惚れられてるじゃん!え、告白されたの?」
「告白はされてないけど、凄いド直球な人だから、分かりやすいというか…」
オーラの見える彼女には、ジンから溢れる好意の色が見えているのだろう。あいつは嘘つけないタイプの人間だから、藍染さんも信用しているみたいだ。
「じゃあじゃあ!カノンちゃんはどう思ってるの?気になってるとか」
「…ん~、良くわかんないなぁ。でも、凄い良い人なのは分かるよ?だから、今度ご飯食べに行こうって言われていいよって言った」
驚きの展開に、俺とユウカは同時に声を上げた。ユウカの方はと言うと、藍染さんが男の子と2人でご飯に行くなんて…とうれし涙を流しかねない勢いだ。俺は彼女と何回もご飯を食べに行っているしそれを皆周知のはずなんだけど、何故か男の子の頭数に入れられていないのは少々気に食わないな?
「どうなったかの結果報告楽しみにしてるね!」
「…そんなに期待はしないでね?でもね、なんか不思議なこと言われたの」
「不思議なこと?」
「昔どこかで1回あったことあるよね?って。私の記憶ではあったことないんだけど…」
俺とジンの通っていた高校は隣の県だし、それほど離れていないとはいっても出会う事なんて本当に稀だと思うが…
「どっかのモデルさんとでも間違えてるんじゃない?カノンちゃんの美人オーラを」
「まぁ、それはあり得る。あいつ頭いいのに変なところ抜けてる天然だからない話じゃないよ」
「私からそんなオーラが出てるかはわからないけど確かに彼、ポアポアした雰囲気だもんね。納得かも」
藍染さんにポアポア認定されているってことは、ジンのオーラから天然がにじみ出ているという事なのだろう。そして今のところ、彼女には付き合うという選択肢はないようだ。会社の経営と言う生活で大忙しの彼女は、中々時間を割くことは難しいだろう…何より、宇瑠間さんと言う大きな壁が最難関だろうな。
「お疲れ様。今日はいつもにも増して早かったな?」
「ん~!なるべく早く終わらせたいからね。他にしたいこともあるし。リョウ君もたまにはお休みした方が良いよ。私も子供じゃないから自分のことくらいは1人でできるよ?」
「俺はカノンよりは休ませてもらってるから。それよりさ、この日のこの時間はどうして空けてるの?」
カノンが作業をしている隣で、今月のスケジュールを整理していたのだが、金曜日の夜が不自然に開けられていたのが気になった。
「…なんか予定あったっけ?」
「いや、特に打ち合わせとかもないから別に良いんだけどさ、なんか不自然な開け方だから気になって」
「あぁ…特に、深い意味はないよ?自分の時間を確保しただけで」
「…そうか」
何かを隠している。長年の感がそういっているが、深くは追及しなかった。会社の人たちから『カノン様もいいお年頃だし、あんまり干渉しすぎない方が良いんじゃないですか?知られたくないこともあるでしょうし』とカノンの世話をしすぎている俺を見て言われたのだった。自分ではそんなつもりなど微塵もなかったが、心配をしすぎるあまり踏み込みすぎているのかもしれない。
「どっか出かけてくるなら、送り迎えしようか?」
「えっ?いいよ1人で帰れるし!」
「…そう?でもお屋敷の周りは暗いから、最寄りの駅までは迎えに行かせて」
「大丈夫なのに…。ありがとっ」
本音は心配だから目的地まで送迎ぐらいさせて。と言いたいところだが、しばらくは様子を見ながら接することにしよう。
「白井君、これ今月のシフトねっ。無理な日ある?」
「ううん大丈夫…この日はもしかして、文房具屋さんめぐりの日?」
「そう!そのころには仕事もある程度落ち着いてると思うし、ちょっと気になる情報を聞いたから早く行きたくて」
藍染さんの趣味である色鉛筆収集。シフトにはいつも詳細まで書いて渡してくれているのだが、書類整理・撮影準備・撮影などと書かれている欄にちゃっかり『遠出』と言う文字が書かれている。文房具屋巡りもこの日で3回目になる。毎度独り言が止まらなくなる彼女を見るのが面白いのだが、本人は後になって恥ずかしがっている。
そしてこの前は、店内で目の中の世界に連れて行ってもらったのだ。藍染さんのの手に持っていた色鉛筆すべての色が目に入り、感動していた。
「これが川に流され続けた石の色で、こっちが火照った赤ちゃんのほっぺたの色!これ、見ているだけで癒されない?」
「赤ちゃんのほっぺたってこんな色してるの?」
「うん!熟れた桃の色みたいでもあるけど、このじゅわっとした色の混じり方がまさに赤ちゃんなの。川にある石はあんまり見たことないから分からないんだけど、かなり深みのある色だね。じゃあこれは?何て名前だと思う?」
「…白鳥の湖、とか?」
「…なんか、ここに来るたびに白井君のセンスが磨かれて行ってる気がする。なるほどね、うん。凄いぴったりな名前だね!淡い青色と緑掛かった青と沢山の白。危うく空にちなんだ名前を付けそうだけど、湖の方がしっくりくるね!」
俺と藍染さんは、目の中の世界に来るたびにこうやって色鉛筆の名前当てゲームを始める。初めのころはつかみどころが分からず困っていたが、この頃コツをつかんできた。と言うか、彼女が見せてくれる物に、普通の色はないのだ。
「ジンとご飯行くのはいつなの?時間なくない?」
「今週の金曜日…と言うか明後日だね」
「もうじゃん!月曜日、ユウカに話聞かせてあげてね?まぁ俺も聞きたいんだけど」
「…気が向いたらね?…じゃなくて!こんなことしてる場合じゃないんだった。今日中にやらないといけない事いっぱいあるよっ。はいこれ白井君の分」
「…マジ?」
「マジも大マジ。はいっ頑張るよ!今月末には撮影もあるから、忙しくなる前にできること終わらせていこう」
藍染さんに渡されたのは、いつもの紙の山ではなく本とファイルの山だった。新しい作業を教えてもらいながらの仕事になったからか、いつもより時間がかかったし、いつもより疲労を感じた。ただ少し気になったのは、ファイルに入っていたデザイン画達だ。色付けまで終えられているようなのだが、いつもと色の濃淡の様子が違う。何枚かページをめくると詳細が書かれていて、『32度で溶かしたチョコレートの色』『ブリーチから10日後の髪の色』など、藍染さんが好きそうな色の名前が書かれてあった。普段デザイン画の時使われているのは『○○レッド』とか『○○ブラウン』などと聞き覚えのあるものなのだが、色の濃淡の様子が違ったのは、微妙にいつもと使っている色鉛筆が違うからだった。
『この前の自販機のところにいるね~』
『了解!』
金曜日の放課後、藍染さんからメッセージが送られてきた。毎日の努力のおかげか大分距離が縮まった…気がする。実際会って話したのはまだ3回だけ。久しぶりに対面してよそよそしくされたら悲しいな。そんな考えをしながら自販機へと向かうと、既に着いていた彼女。立ってキョロキョロしているだけでも周りの人が振り向いてしまうようなオーラを放っている。
「お待たせ藍染さん」
「…あ、ううん!私も今来たところだよっ」
声を掛けると一瞬びっくりしてこちらを見た。そのしぐさが小動物のようで愛らしかった。
「お腹すいてる?」
「うん!なんだかんだもう5時半だからね~。授業で頭使ったしお腹へっちゃった」
パスタが好きだという前情報をもらっていたので、近くにある美味しいお店を探しておいた。同い年なのに、店内のオレンジ照明に当たる彼女は凄く大人びて見えた。決断の早い彼女はすぐさまメニューを決め、俺が待てもらうことになってしまった。
「藍染さんってさ、見た目もそうだけど大人っぽいよね。いい意味で」
「んふっ、昔からよく言われる。年上の人しかいない環境で育ってきたからかもしれないなぁ。金井君は大人っぽい雰囲気だけど、まっすぐ過ぎて面白いよねっ」
「褒められてる?」
「めっちゃ褒めてる」
静かにはしゃぐ彼女は、大学で見る姿とまた一味違って面白い。話をするのも聞くのも上手くていつの間にか色んな事を話していた気がする。服が好きなこと、映画やアニメなどはほとんど見ない事、絵を描くことが趣味なこと。意外な一面を知れた気がして嬉しくなった。
「ねぇこのお店どうやって見つけたの?すっごい美味しいんだけど?」
「気に入って貰えてよかった。インスタで見つけてさ、めっちゃ評判良くて気になってたんだよね」
「そっか、いまは皆インスタとかで情報集してるんだね…あ、そうそう!聞きたいことがあったの思い出したっ」
「聞きたいこと?なになに?」
「金井君って、白井ダイキ君と知り合いなんだよね?」
彼女の口からダイの名前が出て来たことに驚いた。頻繁に連絡を取っていたわけじゃないけど、高校が同じでそれなりに仲が良かった。まさか、紹介してほしいとか言われる…⁉
「…同じ高校だったからね。藍染さん、なんでダイのこと知ってるの?」
「今私、大学で4人の友達と一緒にいることが多いんだけど、その中に白井君がいるの」
「そうなの⁉」
大学でダイを見かけることはあるが、まさか仲良しグループの中に藍染さんが居たとはまたまた驚きだ。それと同時に俺より先に彼女と仲良くなっていたことが普通に悔しい。
「ダイと仲良かったんだね」
「うん!バイト先が偶然一緒で、そこからほかの友達とも仲良くなったの。私基本的に1人でいることの方が多かったから、今みんなといるのが凄く楽しいの」
…羨ましすぎるぞダイ。こんな美少女と大学でも一緒でバイトでも一緒。1日中目の保養をしているようなものだ、なんだその幸せすぎる生活は!
「付き合ったりしないの?」
「白井君と?んふっ、考えたこともなかったなぁ。白井君とは、なんていうのかな…厨二病みたいな言い方すると、戦友みたいな感じなの。高め合う仲間みたいな?多分、白井君に聞いても同じこと言うと思うよっ」
「…それはそれで凄い羨ましい関係だなぁ。じゃあ、俺にもまだ可能性はあるってことで大丈夫?」
「…私、金井君に会うたびに告白されてる気分なんだけど」
「うん告白してるつもり」
あまりにも正直に白状する俺に、思わず吹き出してしまった藍染さん。
「ありがとうね。ここまでまっすぐに告白されたの初めてだよ。でもね、私まだいまいち恋だとか付き合うとか、あんまりよくわかってないの。それに、今は自分の人生生きることで精一杯だから…ごめんなさい。でも、金井君のことは好きだよ?」
特に期待をしていたわけではないし、可能性が薄いことも分かっていたが、振られて悲しくない奴はいない。それでも、俺のことを好きだと言ってくれた最後の言葉で救われた。
「だよねぇ~…」
「…もし、金井君が良いよって言ってくれるなら、これからも仲良くしてくれる?私、いつもいる4人以外の友達ってほとんどいないから、お友達になってくれたらなぁって…」
「良いの⁉」
自分でも驚くほどの素早さで、その言葉を待っていたといわんばかりの反応をしてしまった。実際待ってたし。
「これからも、こうやってご飯一緒に行ってくれる?また、連絡しててもいい?」
「うん、よろしくお願いしますっ」
自分のほほが緩むのが分かった。振られたにもかかわらず、来る前よりも気分が上がっているという何とも奇妙な状態だ。帰り際、家まで送っていこうか?と言うと、「お兄ちゃんが駅まで来てくれるの」という事だったので、彼女の最寄りの駅まで一緒に行くことに。
「今日はありがとうねっ。とっても楽しかったです!」
「こちらこそありがとう!…あの、1つお願いがあるんだけど」
「どうしたの?」
「下の名前で呼んでもいい?」
今日の目的は、本来これだった。徐々に距離を詰めるつもりが先走ってしまって、こういう結果に…。
「いいよ?じゃあ私もジン君って呼んでいい?」
彼女から感じる謎の懐かしさの正体はいったい何なんだろうか。否定されたけど、俺には絶対にどこかで会った覚えがある。どこかと聞かれれば分からないのだが、そんな気がしてならないのだ。
「カノン様、おかえりなさいませ」
「ただいま…もう普通にしゃべろ?」
「…うん。早かったな?もうちょっと遅くなるかと思ってたのに」
今から帰るという連絡を受けたのは、20時を回るか回らないかの時間だった。どこへ行くかは聞いていなかったが、誰かとご飯を食べに行っていたようだ。女の子…ではなさそうだな。小さいころからカノンを見て来た俺の感がそう言っている。
「心配性のお兄ちゃんが待ってるから早く帰らないわけにはいかないでしょ。それに、もうそろそろ仕上げないといけない事いっぱいあるもん。明日も頑張らないと~」
「…そうだな。白井君も来るし、出来ることやらないとな。体調は大丈夫か?また変なオーラ見たりしてない?」
「…うん大丈夫だよ」
大丈夫と言う前の少しの間が気になったが、そっとしておこう。
「とりあえず、お風呂入りたい。何か今日メイクいつもと違う気がするんだけど、気のせい?」
誰かと会うのかも。と思った今朝の俺は、いつもよりキラキラを多めにしたメイクをカノンに施した。男除けにきつめの印象にしてやろうかとも思ったが、流石に意地悪が過ぎると思い、可愛らしくキラキラにした。気づかれないだろうと思いこそっとやったつもりだったのだが、感覚でばれていたようだ。
「気のせいだろ。いつも通り可愛いよ」
「藍染さん、訳の分からないもの多すぎてめちゃくちゃ困ってんだけど教えてもらえる?」
「あ、ごめんごめん!えっと、これはね…」
仕事を始めて早々、チンプンカンプンな内容のファイルを眺めて呆然としていた。びっくりするくらい、訳が分からない。来週に控えた撮影に向けての資料が終わったかと思えば、次は店舗で販売する新作らしい服の情報やデザイン画が大量に出て来た。藍染さんが書いたっぽいものの他に、見たことない描き方のデザイン画もたくさん出て来た。
「…行けそう?ここの資料までは同じようにやってもらえたら行けるんだけど」
「多分、おそらく、大丈夫。ありがとう」
覚えているかは不安だが、やってみない事には始まらない。3日後が撮影で書類などの整理が出来ない分、それまでにやれるだけのことはやっておかないといけない。小1時間ほど集中した頃、藍染さんの携帯が鳴った。
「げっ…もしもし藍染です。…今日は嫌です。明日3限で終わりなんで、その後でもいいですか?はい、じゃあいつものところで…失礼します」
電話を終えた彼女は、珍しく苦い顔をしている。話の内容からすると…
「…もしかして、白銀さんからだったの?」
「よく分かったね?また早めにお願いしたいんだけどって言われてさ…今日は流石にしんどいし、明日だったら次の日学校無いからまだいいかなって。正直今は忙しいからあんまり行きたくはないんだけどなぁ…」
「…断らないの?」
「うん。私にお願いしてくるってことは、困ってる人が居るって事でしょ?私が数分目を使うだけで誰かが助けられるなら、断る理由ないもん。私が事故で死にかけた時も、病院の人たちが必死で治療してくれたから今こうやって生きられてるしね」
彼女は単に、白銀さんとの約束のためだけに目を使って色を見分けている訳ではなかった。どれだけ忙しくても、彼女は断らないのだ。
「俺明日ついていこうか?特に用事も入れてないし、授業終わるタイミングも同じでしょ?」
「えっ本当?…いやっダメだよ!」
「なんで⁉」
明日はもともと休みの日だった。宇瑠間さんの機嫌を安定させるためにも、俺は居た方が良い気がするんだけど…?と思ったのだが。
「白井君結構ハイペースで働いてもらっちゃってるから、このままいけば上限ギリギリなの。去年六月から来てもらってるのにちょっと危なかったから、今年は月ごとで慎重にいかないとなぁって思ってたの。だから、休みの日はちゃんと休んでもらわないとっ」
「えっ、そうだったっけ?俺そんなに働いてたんだ」
まぁ確かに、思っている以上にお金がたまったなぁとは思っていたけど、そんなにぎりぎりまで働いていたんだ。
「じゃあ、普通に休みの日にたまたま藍染さんに会って、仕事見学に行くってことにしたらいいんじゃない?俺時給いらないし、藍染さん会社まで見送ったらそのまま帰るし」
「えぇ⁉」
無賃で働くことなんか、前のバイトではまったくもってしたくなかった。でも今は、藍染さんと仕事をすることが生活の一部みたいな物だから、何とも思わない。むしろ家にいてもすることないから働かせてほしい。
「でも、立場上そんなことは…」
「俺が勝手にしたことにしたら大丈夫でしょ?」
「…良いの?来てくれるのは、凄く、ありがたいです」
「じゃあ決定で」
ほっとしたのか、表情が和らいだ藍染さん。苦い顔していたのは、宇瑠間さんの機嫌を取るのが大変だからだったのかもしれない。
仕事が終わった後携帯を見ると、ジンからメッセージが入っていた。実は藍染さんとジンがご飯を食べに行った次の日、朝起きるといつぶりかのジンから連絡が来ていたのだった。
〝久しぶり!カノンちゃんとダイが知り合いだって聞いてびっくりしたんだけど。っていう連絡をしに来た〟
あいつらしい文章が送られてきた。高校時代のメッセージをさかのぼってみると、中身のある内容はほとんどなく、1番多かったのが時間割やテスト範囲の確認だった。高校3年の時はクラスが違うかったので、大学同じだなぁ。程度の連絡しかしていなかった。なんなら、久しぶりのメッセージが1番濃い内容かもしれない。今日は、何のメッセージだ?
〝カノンちゃんって忙しい人?〟
…懲りないイケメンだな。藍染さんの話によればジンは振られているはずだが、決してあきらめてはいない様子。どんな内容の連絡を2人がしているのかは知らないが、おそらく藍染さんを遊びに誘っても中々予定が合わず行けないと言ったところだろうか。そりゃあめちゃくちゃ忙しい人ですとも。社長ですからね。
〝忙しいと思うよ。ほぼ毎日バイトしてるからなぁ〟
あまり余計なことを言うのはよくないと思い、とりあえず必要最低限の返事をした。俺の知っている限り、彼女の予定が空くかもしれないのは1カ月以上先だな。
翌日の3限終わり、藍染さんがいつも座っている席の方へ行くと、隣にはジンの姿があった。今日もこいつはイケメンだ。
「ジンじゃん」
「おぉ!生で会うのめっちゃ久しぶりじゃない?」
「入学式ぶりだと思う。藍染さんと授業受けてたの?」
「そうだよ?ねぇカノンちゃん」
「うんっ」
彼女にベタ惚れの様子のジンは、顔が緩みまくっていて、まるで赤ちゃんを愛でてるような顔だった。ここまで破顔したジンを見るのはかなりレアだ。
「で、ダイはどうしたの?」
「俺は藍染さんを迎えに来た」
「は⁉なんで⁉」
肩を掴みかかられる勢いで立ち上がったジンに少し狼狽えてしまった。勢い良すぎだろ…
「今から一緒にバイト行くから、呼びに来ただけだよ。安心しろ、狙ってるわけじゃないし、もし狙ってたとしても恋愛でお前に敵う相手はそうそう居ないから。はなから戦おうともしないって」
「…なんかよく分からないけど分かった。カノンちゃん、じゃあまた連絡するね!」
「うんっ、じゃあね」
学校の美男美女に挟まれていたせいか、妙に視線を感じながら学校を出た。いつも宇瑠間さんが迎えに来てくれる方とは反対方向に出て、既にそこに着いていた白銀さんの車に乗り込んだ。
「お疲れ様カノンちゃん。白井君も、お疲れさんです」
「お願いします」
早速動いた車の中で、大まかな説明を受けた。今回藍染さんが取り調べをするのは50代の男性で、奥さんと高校生の娘さんと暮らしているらしい。ある殺人事件の犯人は自分だと、事件発覚から2日後に警察に自首。本人の自供と現場の状況から犯人と断定されたらしいが、動機が全くと言っていいほど見つからなくてお手上げ状態なんだとか。いつもならある程度時間を掛けられる捜査も、いろいろ事情があるらしく切羽詰まっているのだそうだ。
「何か聞きたいことはある?」
「ん~多分大丈夫だと思います」
事件の犯人かもしれない意人と対面するなんて、色んな緊張を伴うはずなのに、藍染さんは紙をペラペラめくりながらあくびを嚙み殺していた。俺にとってはまだ慣れないこのボランティアも、彼女にとっては何年も経験してきたことなのだから、そういう反応にもなるのか。
「じゃあ、カノンちゃんよろしくね」
「はいっ。白井君これ預けてていい?」
「おっけい」
藍染さんの大学用のカバンを受け取り、取調室に入るのを見送った。俺は前の時と同様白銀さんと隣の部屋から取り調べの様子を見守ることに。
「初めまして。少しだけ私にお付き合いいただけますか?」
「…初めまして。ずいぶんお若い刑事さんですね」
「お名前とご職業など、軽く自己紹介をお願いしてもよろしいですか?」
「あ、はい…灰島正吾55歳。製薬会社で営業をしております…」
「灰島さんですね、よろしくお願いします。今回の事件についていくつか質問させて頂きたいのですが」
「…質問も何も、ほかの刑事さんに全てお話ししましたよ?ほかに聞かれるようなこと、何もないはずです!」
灰島と言う男性は、これ以上の会話を拒むように声を荒げた。そんな様子にひるむことなく、いたって冷静に藍染さんは話を進めた。
「申し訳ありません。これで最後になるはずなので、質問にお答えいただいてもよろしいですか?」
「…分かりました。何度聞かれても変わりませんがね」
「では始めましょう。あなたは3日前の夜、自宅から歩いて20分ほどのところにある雑居ビルの間で、酔っぱらった男性と揉みあいになり、殺害してしまった。そう話していますね?」
「はい。私もお酒を飲んでいたので、ちょっとしたことですれ違った見ず知らずの男と言い合いになってしまいました。我に返った時には拳が血で染まっていて、怖くなって逃げました。周りに人もいなかったので、ばれないだろうと…ただ、酒が抜けた後に怖くなって、自首しました」
そう話す男性の両手は、確かに痛々しい程の腫れや傷が見えた。これを嘘とするのは難しいものがある。
「灰島さんは、なぜその雑居ビルにいたんですか?職場もご自宅も近くありませんよね?」
「…近くに夜空が綺麗に見える公園があるんですよ。仕事で嫌なことがあった時、そこでコンビニで買った酒を飲むのが私の救いでして。あの日は妻が実家へ帰っているという事もあって少し飲みすぎたんです。酔いを醒ますために歩いていた時に、あんなことを…」
「そうですか…。被害者の男性は25歳で、親子ほどに歳が離れていたみたいですね。どちらかと言うと高校生の娘さんの方が年齢が近いです」
瞬きをせずに話し続ける藍染さんの目が少し見開かれた。…なにか、分かったのだろうか?
「…そうですけど…」
「あなたは娘さんをとてもかわいがっているようですね。素敵なお父さんなんだろうなって、こうして話しているうちに分かりました」
「何が言いたいんですか、」
「被害者とあなたに接点がなくても、娘さんなら、もしかしたら面識があるのではないかと思いまして…どうですか?」
「あ、ある訳ないでしょ⁉あの日私がたまたま出会った男ですよ!どうして娘があったことあるんですか!」
再び男性が声を荒げたとき、彼女はまぶしそうに目を細めた。瞬きをするのではなく、何かを遠く見つめるように瞳が細められた。
「事件があった日、娘さんはどちらに居られましたか?」
「家ですよ、夜中に未成年が1人で出歩くなど、補導されますよ」
「1人ではなかったのでは?で、一緒にいたのは被害者の男性」
「なにを、言っているのですか…」
「あなたが一番わかってらっしゃいますよね?あの日、あなたは夜遅くに外へ出た娘さんの後をつけて行った。あの雑居ビルへ着いたとき、事件を一部始終を見てしまったのではないですか?」
「…っ、私は、」
「事情は分かりませんが、あなたは殺人を犯してしまった娘さんをかばうため、色んな偽装工作をし、罪を被ることにした。そういう所でしょうか」
「違う、私が…」
「灰島さんは優しい方のようですね。そして、嘘をつくことに慣れていない。嘘をつくたびに感情が大きく波打っているように私には見えます。でもその優しさは、決して褒められたものではありませんよ」
藍染さんの目から、涙がこぼれているのを初めて見た。泣いているというより、知らずの間に勝手に感情がこぼれてしまったようだ。それは灰島と言う男性も同じで、目からとめどなく涙があふれてきている。
「…私がお聞きしたいのは以上です。あなたがいくら自分がやったと言っても、一度娘さんへかけられた疑いはすぐに調べ上げられるでしょう。お付き合いいただき、ありがとうございました」
取調室からこちらの部屋に移った彼女は、ひどく疲れているように見えた。涙は乾いていたが、充血した目が痛々しい。
「…娘と被害者の関係を洗えって、ことだね?」
「そういう事ですね。少なくとも、灰島さんは犯人ではなく、娘さんが犯行を犯した。という事は事実ですね」
「分かった…ありがとう。すぐ送っていくから、いつものところで待っていて」
「はぁい」
報告をしに行った白銀さんの後ろから、2人でゆっくり受付まで歩く。
「…藍染さん、大丈夫?」
「え?」
「なんか、すっごい疲れてそうだよ」
「ん~そうだね。今日の色はちょっと刺激が強かった。感情の波が荒くて、チカチカしてて…例えたら、カメラのフラッシュをずっとたかれている感じかな」
あんなにまぶしいものを10分間見続けていたら失神してしまいそうになる。疲れないわけがないな…。
「ごめんねお待たせ…!カノンちゃん大丈夫かい…?」
「大丈夫ですよ?でも今日は宇瑠間の機嫌を取るのは難しいかもですね~。行きましょう」
「…それは、俺の神経がすり減っちゃうな。白井君、頼んだよ」
「まぁ…頑張ります」
今回の取り調べでは、藍染さんの体力消耗がかなり激しかったみたいだ。あの時流していた涙は、目に受ける刺激によるものだけの理由には思えなかった。白銀さんの車に乗り込んだ彼女は、会社に着くまで目を閉じたあと動かなくなった。
「カノンちゃん着いたよ?…あれ、宇瑠間さん今日いないね?」
「…あ、連絡するのすっかり忘れてました。うわぁ怒られそう…白銀さんありがとうございました、ではまた今度っ」
「うん、ありがとう。白井君もありがとうね」
「いえ、失礼します」
目が霞んで見えにくいのか、少しふらふらと目を擦りながら歩いている藍染さん。前に宇瑠間さんが車を降りるなり抱えて部屋まで戻っていたのは、そのせいだったのか。それなら…
「はい」
「え…?」
「前見えにくいでしょ?宇瑠間みたいにお姫様抱っこはできないけど、おんぶくらいは保証してできるから。乗って?」
「いやでも、重たいよ?鞄もあるし…悪いよ」
「それくらいはどうってことないって。ほら早く」
「…じゃあ、失礼します」
背中に感じる重みは、やはり思っているよりも軽かった。彼女の大学での服装はショートパンツな為、足を抱えるのに少しばかり罪悪感を覚えた。会社に入ると受付の人が興味の目を向けてきたが、軽く会釈だけをして仕事部屋の隣にある宇瑠間さんの部屋の扉をノックした。
「…失礼します」
「あれ、白井君ですか…?えっ、カノン様⁉」
「帰ることを連絡し忘れてました。すみません…」
藍染さんをソファに下し、彼女の鞄を宇瑠間さんに渡すと、彼は肺の中の空気をすべて吐き出すような長い溜息をついた。
「まず、白井君ありがとうございます。お休みの日なのに会社まで着いて来て頂いて凄く助かりました」
「いえ、全然大丈夫です。じゃあ、俺はこの辺で…」
「あ、待って白井君。今日のバイト代、お金じゃ渡せないから、宇瑠間さんから紙袋貰って帰って?」
…バイト代という事だったのですね。と宇瑠間が呟きながら渡してくれた紙袋の中には、何やら美味しそうな焼き菓子が何個か入っていた。…俺、2時間も働いてないのに良いのか?
「取り調べ終わりに私が食べてる糖分たち。引き留めるのは申し訳ないから持って帰って?うちの料理人さん、焼き菓子大得意だからすっごい美味しいよ。今日はありがとうね」
「えっありがとう!俺何にもしてないのに…」
「そんなことないよ?また明日もお願いねっ」
まだ目を擦ったり目薬を差したりと本調子ではなさそうな藍染さんに見送られ、今日の俺のボランティアは終了した。…宇瑠間さんと藍染さん、大丈夫かなぁ。
「カノン、大丈夫か?」
「…怒んないの?」
正直、2人が帰ってくるまでは自分でもわかるくらい不機嫌だったし、イライラ全開だった。が、帰って来たカノンの様子を見て怒るよりも先に心配が勝ってしまったのだ。目の充血はいつもよりひどいし、泣いた後のように目が腫れぼったい。とにかく、いつもと様子が違っていた。
「今日はそれどころじゃないだろ。目見してみ?…あぁ大分充血してるな。ちょっと待ってろ、保冷剤持ってくるから」
「…また1つ、記憶戻ったの」
「…また見たのか?」
冷凍庫をあさっている俺に話しかけたカノンは、目を閉じながら何かを考えこんでいた。またあの刺激の強いオーラを見たと言うのだろうか…
「今日の取り調べの相手がね、高校生の娘さんを持つお父さんで、結局は娘をかばっていたんだけど…自分がやった、娘は関係ないって主張するたびに、同じような色が出続けてたの…」
「体調は?大丈夫か?」
「うーん、分かんない。ちょっと危ういかも…明日早く起こして。今日はもう戻る」
「了解」
目に柔らかい保冷剤をまいてあげて、カノンを持ち上げる。この状態で会社の中を歩くと毎回すれ違うスタッフたちが後で『カノン様大丈夫でしょうか…?』と俺のところまで聞きに来る。部屋を出て、あまり人の出入りの少ない裏口を通って隣の建物までカノンを運ぶ。
「ご飯はどうする?」
「今日は甘いものだけでいい。ここで食べる」
「分かった。じゃあ持ってくるわ」
その後の返答が無くなって心配になり何度か肩を揺すったが、無反応だった。また意識失ったか…ここ最近急に記憶を思い出しすぎてカノンの体への負担が重いように思う。
俺がお菓子を持っていってもまだ目を覚まさないだろう。冷めるものでも溶けるものでもないから、起きた時に食べてくれれば良い。調理場に行って、この屋敷の料理人に声を掛ける。
「青柳さん、カノン様のお願いできますか?」
「かしこまりました。カノン様、大丈夫そうでしたか?」
「少し疲れが見えますね…」
「そうですか。10分程お時間いただけますか?目の疲労回復を助ける物を今冷やしているところなので、もうすぐできるんですが…」
「大丈夫です、おそらく眠っていると思いますので。ありがとうございます」
数分後、青柳さんが持ってきたお菓子たちの中に、ブルーベリーのゼリーが見えた。部屋の冷蔵庫に入れておいてやるか。
「ありがとうございました。明日の朝、カノン様は少し早めに起きられるかもしれませんので、よろしくお願いいたします」
「分かりました。宇瑠間くんも心配が尽きないねぇ」
「…本当ですよ。まぁ、しょうがないですね。お疲れ様です」
部屋に戻ると、やはりカノンはソファの上で眠っていた。ゼリーを冷蔵庫にしまった後、カノンをベッドまで移動させて、目の上に載せた保冷剤を変えてやる。明後日は大切な撮影の日だし、ある程度まで回復してくれるといいのだが…
「おはようございます」
「あ、おはよう!昨日はありがとうね」
土曜日の朝いつも通り会社に行くと、いつも通りの藍染さんがいた。いつもと違う事と言ったらパソコンの隣には昨日俺が貰った焼き菓子たちがきれいに並べられていたことだ。
「良いよ良いよ。バイト代ももらったし?めちゃくちゃ美味かったんだけど、その丸い奴の名前何?」
あまりにも美味しいのに名前が分からなくて検索のしようがなかった。
「これでしょ?私もこれすっごい好きなの!ガレットって言うんだけどさ、見た目はツヤっとした茶色してるんだけど、暖色のオーラがでてて、本当に何個でも食べれるんだよね。はいこれ、今日は明日の準備を先にやっちゃうからね」
「了解」
明日の撮影は野外で行われるのだそう。持っていくものも多くなりそうだし、まとめておかないと大変なことになる。そして、今日は…
「とりあえず、1回行ってみる?」
「とりあえず1回行ってみたいです」
藍染さんのその言葉を待っていた。俺がすかさずそういうと、彼女は左手でグイっと引っ張った。
「…うわぁ、」
撮影の前に1度、目の中の世界に連れて行って欲しいと、前々から藍染さんにお願いしていた事なのだ。今回はウェディングドレスではなく、いろんな場面で使う事の出来るドレスだ。デザイン画は今まで何度も見てきているが、色を見せてもらうのは初めてだ。8着あるドレスのコンセプトが、『どこにもない色』らしい。藍染さんが趣味で集めた色鉛筆の中から配色を決めたという事で、とても楽しみにしていたのだ。目の中の世界に移動した瞬間、目に入ってくる情報にこの上ない幸せを感じた。
「めちゃくちゃ綺麗…」
「ありがとう。色鉛筆も併せてこっちの世界に持ってきてるよ!」
手渡された大量の色鉛筆。見覚えのあるものから初めて見るものまで沢山ある。
「でた、『32度で溶かしたチョコレートの色』だ。これ気になってたんだよね。このスカートめちゃくちゃ綺麗な色…えっと、『金魚鉢の苔の色』…なんか、これに関しては聞かない方がよかったかも。でもやっぱり、前のウェディングドレスとは配色が全然違うね」
「でしょ?いやぁ白井君が違いを分かってくれて嬉しんだけど!宇瑠間は、これとこれの色のどこが違うの?って言うからさ…この色鉛筆たちはね、私が集めている中でも特にお気に入りの物ばかり使ってるの。で、このドレスが私の1番のお気に入り」
そういって見せてくれたのは、スラっとしたスカートの上からかぎ編みされたレースがかぶされたドレスだった。ふんわりした赤と黄みがかった白が合わさって、イチゴミルクのようなイメージを持たせるドレス。何でも、このレースは全部手編みされているらしく、1つ1つのドレスで模様が違うのが特徴らしい。
「もし誰かの結婚式にこのドレスを着ていくことになった時、花嫁さんより控えめで抑えめなんだけど、何か他の人と違うなぁ。って思わせるものを作りたかったの。招いてもらう側も、可愛いドレス着て幸せな気分になりたいじゃん?あとは卒業式とか、パーティーとか。色んな人に着てもらいたいんだよね」
ドレス達をヒラヒラとめくってそう話す藍染さんの目は、いつも通りキラキラ輝いていたが、色を認識できるようになった俺の目には、彼女の疲労の色が気になってしまう。
「…藍染さん、体調は大丈夫なの?前ほどではないけど、顔色良くないように見えるけど…」
「ん?大丈夫だよっ。まぁ確かに昨日は凄く疲れたけど…でも、そんなことも言ってられないからね。今日も頑張ろう!」
「そうだね」
その後も10分程、目の中の世界でゆっくり過ごさせてもらった。フワフワな芝生の上に寝転がり、色鉛筆や遠くに見える観覧車を眺めるのが俺の至福の時間となっている。最近は藍染さんも俺の横に寝転がり、空をぼーっと眺めている。ジンが見たら凄い顔で怒りだしそうだな…
「ねぇ白井君、ジン君の事なんだけどさ」
「え?あ、うんどうしたの?」
知らない間に金井君からジン君呼びになっていることにまず驚いた。
「いや、何者なのかなぁって」
「ふはっ、何者ってどういうこと!普通の大学生だよ。ただ色んな意味でイケメン過ぎるだけであって」
あれだけの容姿の持ち主なら、SNSや読者モデルをやっていてもおかしくはないんだが、あいつは今まで完全に部活一筋でやってきていたから、完全なる一般人というやつだ。
「なんで?」
「…ん〜説明しにくいんだけど、なんか彼のオーラが気になるんだよね。ジン君と話していると、ほんの一瞬だど懐かしい色が見えると言うか…『どこかで会ったことあるよね?』ってワードと相まってちょっと気になって」
本当に2人に接点があればどちらかが覚えていそうなものだし、気のせいだとは思うんだが…
「まぁ、彼が悪いこと何も考えていない事は確かだから良いんだけど!ごめんね長々と。そろそろ戻って仕事しよっか!」
「大丈夫だよ、ここだったら時間気にせずに話せるんだし、なんか気になることあったらいつでも言って?連れて来てくれてありがとう」
現実世界へと戻った俺たちは、ドタバタと明日の準備を進め、終わったかと思えば次の書類整理を開始して…と相変わらず忙しかった。そして珍しく、夕方になるまで宇瑠間さんに遭遇しなかった。
「失礼します。お2人ともお疲れ様です。お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
宇瑠間さんは紅茶を入れるのが異常に上手い。いつも持ってきてくれる紅茶は、魔法がかかったようにほっとする味なのだ。今日もそんな味の紅茶に酔いしれていると、見覚えのある紙袋を藍染さんに渡していた。
「1時間ほど前に白銀さんがいらっしゃいました。お預かりだけいたしましたので、お渡ししておきます」
「わぁ!ありがとうございます!…ねぇ白井君見て凄いよ!と言うかまた目の中の世界に連れて行きたいんだけど、」
「カノン様。しばらくは必要最低限にしておいてください。明日も忙しいのですから」
「…はい。すみません」
宇瑠間さんに静かに諭されておとなしくなってしまった藍染さん。目の中の世界に行くのは特に体力を消耗するようなことではないらしいが、彼女のテンションが上がりすぎてしまうのが問題のようだ。
「白井君、その資料片付いたら今日は終わりにしようか。明日も朝から長丁場だし、早く帰ってゆっくり休もっ」
「了解」
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