四ノ八 逃亡者
茨木は逃げた。
虎丸と話し合い、京の方面は警戒が厳重であろうということで、いったん近江の大津へと出、琵琶湖の西を北上し日本海へと出て、小浜、舞鶴、宮津と逃げに逃げた。
ここから南へと山中へ分け入れば、朱天達の作った村のある大江山へとたどり着ける。
虎丸とはいつの間にかはぐれてしまい、気がつけばひとりでの逃避行となった。
が、いかんせん茨木は目立つ。
赤い髪は頬かむりで隠せても、失った左腕はかくせぬ。
ゆえに、移動は夜が基本となり、逃亡は想定していた以上に遅れた。
ここ宮津に達するまで、十四日。
食うや食わずの日日で、どうしようもなくなれば、時に畑の作物を盗み食い、時に野良犬を刺して焼いて食った。
そんな食生活だから、この五日ばかりは腹は壊れて始終下痢をして、体力が急速に衰えていった。
東の山の端がわずかに青味がかっている。
夜が明けはじめているのだった。
急ごう、急いで山道に入ろう。
海岸沿いを離れて、南へ向かい、山あいの田畑のなかを歩く。
朱天のもとまで、もうあと少しだというのに、めまいがするし、脚はふらつくし、もはや意識も限界をむかえようとしていた。
「ちっ」
茨木は舌打ちした。
こんなに苦しんで死ぬくらいなら、いっそ、宇治橋で斬り死にすればよかった。
東西の山がだんだんと狭まり、もうちょっとで山の中だ。
――急がなくては、急がなくては。
気持ちが急いて、脚を早めたつもりでも、じっさいは右にふらつき、左にふらつき、まったく速まってなどいないのだった。
暗いうちに大江山への山道へと入っておきたかったが、ちょっと無理そうだ。
あ、と思った。
景色がぐるぐると回転し、気が付けば視界に青黒い空が広がっている。
自分が倒れたということすら、数瞬気がつかなかった。
ただ、思っていたよりも空が明るいな、と思った。
そうして、
――村人が見つけてくれりゃ、土に埋めるくらいはしてくれるだろうが、先に熊に見つかったら、食われちまうんだろうな。
それもいいだろう。
世間になじめず、はぐれて生きてきた俺には、お似合いの死に様だろう。
ああ、何かが近づいてくる。
ずいぶん大きな足音だぞ。
熊だろうか、人間だろうか――。
恐る恐る目を開ける。
さっきまで暗い空で満ちていた視界を覆う、まっ黒い影。
――ああ、熊だ。もうちょっとまってくれ、俺が死ぬまで食うのを待ってくれ。生きたまま食われるのはごめんだ。
手足を動かし熊を追い払おうと懸命にもがいた。
――俺なんか食ったってうまくないぞ。
が、もがいたつもりなだけで、実際は、手も足も、棒のようにかたまって動きはしなかった。
「おい」
――おかしいな、熊が喋っている。
「おい、生きてるか。聞こえるか、茨木」
熊ではなかった、人間だ。
そうとわかると、茨木は最後の力をふりしぼって、かっと目を見開いた。
焦点が合うまで数秒。
「く、熊八、か……」
「そうだ、おらだ、茨木」
目尻を、涙がつたい落ちていくのを感じた。
この奇跡を誰に感謝すればいいんだろう。
神か、仏か、朱天か、熊八か。
「よかっただよ。虎丸が何日かまえに村に着いて、茨木はこっちから逃げてくるだろうからって。おいら、ずっと見張っていただよ」
「そうか、虎丸か、そうか、そうか」
奇跡などではない、皆の思いやりで生かされたのだった。
そうわかると、さらに涙がこぼれ落ちた。
そして、熊八は抱き起こして上半身を起こさせ、竹筒の水をちょっとだけ、茨木の口にふくませた。
「あんまり一気に飲むんじゃないぞ。なめるように、ゆっくりと飲むんだ」
言われなくても、喉が動かない。
茨木は喉をしめらせただけの水が、とんでもなくうまいと感じた。
熊八が茨木を背負った。
熊八の背中の温かさを感じたその瞬間、安堵で緊張がほどけ、茨木は意識を失った。
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