第三章 まもるやつら
三ノ一 綱の憂悶
「もうゆるさんっ。朱天一味め、我らを愚弄しおって!」
今日だけではない。
感情がたかぶると、ところかまわず、床を踏み鳴らし部屋や廊下を端から端まで往復しはじめる。
そんなことがもう、十日あまりも続いていて、そうして決まって口にだすセリフが、「もうゆるさんっ。朱天一味め、我らを愚弄しおって!」である。
「まあ、そうイライラしなさんな、聞いてるこっちまでイライラしてくるよ」
「あ、ちょっと待った」季武が手を突き出す。
「待ったはなしですよ」貞光があきれたように首を振る。
「そんないけず言わんでもええやん」季武は突き出した手をひらひらさせる。
「ふたりとも、能天気なものだな」
「そう言ったところで、綱さんよ、何をどうしたら、お前さんのそのイライラはおさまるのかね」季武が、黒い石をぴしりと置いた。
「朱天組の奴らを一網打尽にしてやれば、気も晴れる」
「と言って、釈迦如来像の掛け軸が盗まれてから、もう十日以上もたっているのに動かないのは、あんた自身、証拠がないことが引っ掛かっているんじゃないのかい」
「朱天と交わりのある、金時と虎丸がこの屋敷にいる時に掛け軸が消えた。充分な証拠に思えるが」
「お前さんはそれで納得できるのかい」
「とっ捕まえて、拷問にかけてやろろうか」
「それはお前さんの矜持に反するから、やらないだろ?」
「じゃあ、どうしろと言うんだ」
「あ、貞光、そいつは汚い」綱の言葉を聞き流して季武は貞光に言った。
「汚いも何も、ここの並びの断点をずっと放っておいたのは季武さんでしょう」
「とにかくだ」と季武はこの局面の打開策を練りながらも綱にむかって、「うちの
「もう十日も待ってるんだ」
「だったら、待ってる間に何か策を練ったらどうだい。お前さんは、頭がいいくせに愚直でいけない。策と言えば攻めることばっかり考えるだろう。頭がカッチカチなんだよ。もうちょっと柔らかくしてさ。たとえばさ、敵がボロを出すのを待つんじゃなくって、出させる工夫をすればいいじゃないの」
「策、策、策……。そう簡単に思い浮かべば苦労はせん」
「あ、いい策思いついた」
「なんだ季武、言ってみろ」
「ここだ」と季武が綱を無視して黒石を打った。
「あ、そこの隅、すてるんですか。思いきりましたね」
「貞光よ、教えてやろう、大をつかむには、小を捨てねばならぬ時もある」
「いや違う、最初っから陽動として、断点を放っておいたんでしょう」
「さあてねえ」
不快な気分でその短い会話を聞いていた綱は、
「小を捨て大をつかむ……。陽動……」
ひとりごちて遠くをみつめるような目をした。
「待った」手を伸ばした貞光に、
「待ったはなしだ」季武が満足そうに言うのだった。
三日たった。
綱は常日頃の日課の京の
従卒を引き連れ白馬にまたがり、悠然と京の町を進む。
そうして堀川三条あたりに来た頃であった。
ふっと家の影から飛び出してきた女が、はらりと市女笠をとばし、すがりつくようにして綱の袴の
怒号を放ちながら寄って来る兵たちを手で制して、綱は、
「なにようじゃ、女。渡辺綱と知ってのふるまいか」
「なにとぞ、なにとぞお聞き願いたい儀があり、このような無作法におよんだしだい。なにとぞおゆるしください」
顔をあげた女は、見た所十七、八。
着ている
「見た所、はずかしからぬ身分の女であろう。それがなぜそのような無礼を働いてまで、私に助力をもとめるか」
「渡辺様は、品行方正、ことにのぞんで清廉潔白とおききしております。あなた様なら、必ず我が兄の禍難をおみすごしにならず、お助けくださると思いました」
「続けよ」
「私の兄は、
「残念であったな」綱は太刀で切り捨てるように言った。「私は京の治安を維持するのがつとめ。仕事の対象は庶民である。宮中の問題には介入できぬ」
「そこを、なにとぞ」
「できぬものはできぬ」
そう言うと、綱は馬腹を蹴って歩かせはじめた。
その耳に、女の引きつるようなすすり泣きが、いつまでも聞こえ続けたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます