一ノ十六 いざない
なにか甘い香りがする。
夢うつつの中で、朱天は感じた。
昔、かいだことがあるような匂いのようでもあるし、生まれて初めてかいだような気もする。
ひょっとすると、ここは天国なのかもしれない。
――いや、そんなはずがない。
朱天は強引に目を開いた。
その目にうつるのは、見たことのない天井だ。
いや、どこかで一度見たことがあるような。
――そうだ、ここは。
朱天は半身を起こした。
かけてあった女物の白い小袖が、はらりと落ちた。
蔀戸から差し込む、まだらの日の光。
そうここは、あの女の家だ。
――そんなはずはない。
俺は昨夜、仲間たちと酒を呑んで眠ったはずだ。
一味の家の自室で。
顔を動かせば、あの
「ずいぶん、寝苦しそうでしたので、あおいでさしあげておりました」
甘い香りは、その扇子から漂ってきている。
「どういうことだ」
かすれた声で朱天が訊いた。
「以前すげなくされたおかえしに、さらってまいりました」
「ずいぶん平然と……、なんの罪悪感も感じられぬ言いかたよな」
「おほほ」
と笑って、あやめは盆にのせられた湯呑みを持って、朱天の口もとへと近づけた。
「
あやめが飲まそうとするのをこばんで、朱天は湯呑みを受け取ると、喉をならして水をのんだ。
ひどく喉が渇いていた。
「で、どうして俺をさらってきた」
「おほほ。では、真実をすべて申し上げましょう。この間の件で、あなたは、小細工を弄するよりも、真正面から正直に話しをするのが一番であると思いいたりました」
「ならば、わざわざさらって来る必要はあるまいに」
「すげなくされた、おかえし、と申し上げました」
あやめは、妖しく微笑んで話し始めた。
「では、すべてお話いたします。われらは、世を正すために働く盗賊団にございます」
「と、盗賊団?」
「本当は、これは、という男をみつくろい、私の色香で惑わし、一党に引き入れるのが目的でございましたが、どうもあなたは惑わされない」
「盗賊の一味になれ、ということか。ことわる」
きっぱりと言い放つと、朱天は立ちあがった。
が、その足には、縄が縛りつけてあった。
「話はまだ終わってはおりませぬ。最後まで聞いていただくまで、お帰りいただくつもりはございません。どうぞお座りください」
あやめの、調子強い言い方に気おされたわけでもないが、朱天は素直にまた座り直した。
「盗賊、と申しましても、持たざる者から盗むことなどいたしません。持ちし者からいただくまでです」
「持ちし者」
「かしこきかたがたから」
「公家か……」
そういえば、どこかで耳にしたことがある。
公家の屋敷ばかりを狙う盗人一党がいるという噂であった。
「がらではないな」朱天は首を振った。「俺は――、俺達一味は、いっかいの
「朱天組、と世間ではもうしております」
「朱天組?いつのまにそんな名がつけられていたのか」
「つまりあなた様は、それほど都人の耳目を集めておわす」
「それとこれとは別だ」
「別ではございません。人には、天性の美徳がございます。あなた様は、人をひきつける魅力をお持ちです」
「褒めてもらってなんだか面はゆいが、その才能がなぜ盗賊に必要だ」
「あなた様を、我らの頭首としてお向かえいたしとうございます」
「ば、馬鹿を言え」
「
「いや、戯れ言だ。戯れ言でなくてなんだ。これ以上、話しても無駄だ。俺はいくら理非曲直をもって説得されようと、利でつられようと、けっして首を縦に振ることはないぞ」
「そのようでございますな」
あやめは、懐から短刀を取り出すと、朱天の足に結び付けた縄を切った。
「では、ひとまずお帰りください。しかし、我らはあきらめませぬぞえ」
「しつこい女は嫌いだ」
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