一ノ十五 謎の家

 朱天はその不気味さに、たちまち総毛だつ思いであった。


 この世のものとは思えない、肌の白さ。

 精気のない、指のゆらめき。

 ともすると、自分が夢の中にいるのではないかと思えるほど、それは現実味をまるでもたないない光景であった。


 朱天は、しかし、その手のいざないに吸い込まれるように、そちらに向けて歩いて行った。

 自分の意思を離れて足が勝手に動いているような感覚だった。


 もうその手に手が届くというくらいに迫った時、ふっと手が消えた。


 開いた戸の隙間から、朱天は体をすべりこませるように、家の中に入った。


 蔀の落とす格子状の、まだらに影が落ちるなかに、二十歳くらいの女が座っている。


 白い小袖に白いしびら(腰巻のようなもの)を巻き、長い髪は結わずに片方の顔が隠れるようにたらしている。

 細い柳のような眉に、切れ長の目をして、魅惑的に黒い目で朱天を見つめている。


 朱天はじっと見入った。

 魅入られていた。


 それは、幽鬼のような、不気味で危険な美しさをまとった女であった。


 女の、赤く薄い唇が動いた。

 にっと、背筋を凍らせるような冷たい笑みを口の端に浮かべた。


 朱天は何も言わなかった。


 ただ、女の側によって、座った。


 そうして、女の手を取った。


 そのまま、女を抱きしめようと、もう一方の手を、女の肩へと動かした。


 肩を抱き、唇を女の唇へと近づけた。


 刹那。


「ようこそ、おいでなされました」


 女が喋った。


 朱天は、はっとした。


 女の声で、突然夢から揺さぶり起こされたような心持ちであった。


 さっと女から身を放す。


「何をお恐れなさる。さあ、私を抱いてくだされ」


 朱天は外を見た。

 蔀の格子の向こうに見える、木立をじっと見つめた。

 そこにあるのは、確かに現実。


「恐れてなど、おらぬ」

 朱天は答えた。

「ただ」


「ただ?」


「…………」


 朱天は言葉を失った。

 今の奇妙な気分をどう表現していいのか、まるで語彙が浮かんでこないのだ。


「うふふ、うぶなお方」


 女はそういうと、手を二度、叩いた。


 奥から、女中であろう、小柄な女が出てきて、膳を朱天の前に置いた。


 朱天は目を見張った。


 その小女は、


「星……」


 であった。


 星は何もいわずに、軽く頭をさげて、去って行った。


「うちの使用人がいかがいたしました?」


「う、いや、なんでもない」


 女は、息がかかるほど朱天に身を寄せると、膳の上の盃を朱天にわたし、瓶子をとってそそいだ。


「さ、ささでもお飲みになって、お心を落ち着けなされませ」


 朱天は酒をあおった。


 すぐにそそがれる酒を、また、呑んだ


「そなた、なにものだ」


 朱天はやっと、最初に訊かねばならぬことを訊いた。


「わたくし、あやめともうします」


「ここで何をしている」


「ただ、たわむれに、男を値踏みしております」


「なんのために」


「たわむれ、と申しました。理由などはございません」


「男を吊るして鞭で叩くとか」


「まあ、それがお望みでしたの。お望みでしたら、今すぐにでも用意させますが」


「望んでなどおらぬ」


「でしたら、もう一献いっこん


 ――これはいかぬ。


 と朱天は思った。

 このままここにいては、ずるずると女の不気味な色香にまどわされ、いつか骨抜きにされてしまいそうな気がした。


 ――去らねばならぬ。


 しかし、心が女に引っ張られているような抗いがたいほどの誘惑を前に、朱天はためらった。

 朱天は、ぎゅっと目をつぶった。

 しばらくして、開いた。

 開いた瞬間、


「帰る」


 朱天が突然に腰を浮かしかけたのを、ぎゅっと袖を握って引きとめて、


「まあ、もう少し、肴なども持って来させますのに」


「帰る」


 女の手を振り払って、朱天は入ってきた戸から出て行った。


「また、おいでくださいませ」


 見送った女は、にっと微笑んだ。

 なにか、獣が獲物をみつけたような笑みであった。




「ええっ、何もしないで帰って来た!?」


 合流して話を聞くなり、茨木が小馬鹿にしたように言った。


「これからみんなで、その家に行ってみようぜ。詳しい場所をおしえてくれよ、ダンナ」


「ならん。行ってはならん」


「なぜだよ。せっかく美女とお知り合いになれるのに」


「あれは、いかん。鬼女だ」


「まさか」


「いやだめだ。行けば、お前ら、骨の髄まで吸いとられてしまうぞ」


「まさか」


 朱天は首を振った。

 そうして家へと足を向けた。


 ちぇっ、と茨木の舌打ちが聞こえた。

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