一ノ九 熊八の苦悩
何日かたった、ある日の夕方のできごとであった。
「おや」
と茨木が足をとめた。
つられて朱天も虎丸も立ちどまる。
「あそこにいるのは、例のでかいのじゃあねえか」
例のでかいの――熊八が、三条大橋の中ほどの欄干にもたれかかって、今にも、乗り越えて鴨川に飛び込みそうな……。
「あ、いけねえ!」
茨木が走り出した。
朱天も虎丸も走り出した。
熊八はもう欄干の一番上に足をひっかけている。
「待ちやがれ!」
茨木が飛びついた。
しかし凄まじい
欄干から引き離したものの、熊八は体を右に左にゆするものだから、背に飛びついた茨木はぶらんぶらんと振り子のように揺れている。
追いついた朱天と虎丸も熊八を押さえにかかる。
んが、振り子がひとつからみっつに増えただけだ。
「ななな、なに悩んでるのか知らないが、ここから飛びおりるなんて料簡が間違っているぞぉ」
ぶらんぶらん、揺られながら、それでもがんばって朱天が説得にかかった。
「見逃してくれ、見逃してくれ、おらあ、もう生きていたってしかたがねえんだよう」
「お、おちつけ」
ぶらんぶらん。
「欄干から、川をよく見てみろ。な、今日の鴨川はそんなに水嵩は多くないだろう。ここから飛びおりたって溺れて死ねないぞ」
ぶらんぶらん。
「いや、この高さなら、頭を川底にぶっつけて死ねるだ」
「うまく、頭から落ちれば楽に死ねるだろうよ、けどな死ねなかったらどうする。痛えだけだぞ。足の骨や腕の骨を折って、苦しむだけだ、やめておけ」
「そりゃそうだな」
ぴたっ。
熊八が動きをとめると、回転力のかかった三人の体が、三方へと弧を描いて虚空に舞った。
さすがの運動神経で、茨木と虎丸は、空中で宙返りをうってから、橋板にすたっと着地した。
が、朱天だけは、大の字になって、
「ふんがっ」
奇妙な悲鳴とともに、腹から橋板に激突。
「だ、大丈夫だか、にいさん」
熊八が巨体を揺すりながら近づき、助け起こした。
「すまねえ、痛かっただろう」
「んいや、たいしたことはねえよ」
朱天、せいいっぱい強がった。
「そんなことより、でかいの、飛びおりなんてしようと思いつめたいきさつを訊かせてもらおうじゃないの」
近づいて来た茨木が言った。
ところを移して、四条大橋の川辺、いつもの飯屋である。
狭い店に、男四人が、しかも中のひとりはひときわ大きいものだから、身を寄せ合うようにして、酒をちびちびやっている。
「で、熊八、なんで身投げなんて考えた」
と朱天が話をうながした。
すでに全員自己紹介はすんでいる。
「ああ、朱天さん」熊八が申し訳なさそうに答えた。
「さんは、いらねえよ」
「朱天の兄貴」
「いや、兄貴もいらねえんだけど、まあいいや」
「
「卯吉?市場でお前をこづいていた野郎だろう」
「こづく?ありゃあ、突っ込みって言うんだ」
「どっちだっていいや。で、誰に捕まった」
「
「あちゃあ」朱天が天を仰いだ。「獅子蔵親分っていやあ、あの辺一帯のならず者の元締めじゃあねえか、何をやった」
「ショバ代を払わねえから、ヤキ入れるって」
「あちゃあ」こんどは茨木が天を仰いだ。「そりゃ、生きて帰れたら奇跡だな」
「しかし、話が見えてこねえな、それがなんで飛び込みにつながる」朱天が訊いた。
「卯吉の兄貴が死んだら、おらも生きてはいけねえだ。だから死のうと思った」
「いや、卯吉の兄貴が死んでも、お前さんひとりで生きていけるだろう」
「おら、卯吉の兄貴がいねえと何もできねえ。叩かれたり蹴られたり、ひどいことを言われても、ぜんぶおらが悪いんだ。おらのろまで兄貴の機嫌を悪くするばっかりだ。でも、兄貴がいねえとなんにもできねえんだ」
「つってもよ」茨木が身を乗り出すように、「返してくださいって言って、返してもらえるもんでもねえしな」
「「「「う~ん」」」」
一同、声を合わせてうなり声をあげた。
さて、どうしたものか。
「せっかく知り合えたんだ。この熊八のために、ひと肌脱ごうじゃないか」
朱天、何かをひらめいた様子である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます