一ノ五 酒を呑もう

 その飯屋は、名すらない。

 四条大橋の南の、雑多な店が乱雑にたちならぶ一画に、粗末な曲がった木の棒を組んで、筵を張っただけの、風が吹けば飛んでいきそうな小屋で。


 筵をめくって地面に敷かれた筵に座り、


「おやっさん、飯とあと適当にたのむわ、飯のあとで酒な」


 朱天が言うと、もじゃもじゃ頭の大きな目に口髯をたくわえた、無愛想なオヤジが仕切りの筵の向こうから顔を出し、


「おう」


 と低く短く答えた。


「先に酒を飲もうぜ、酒」茨木はもう涎をたらしかけている。


「いや、すきっ腹に酒は毒だ」


「飲ん兵衛のくせに、変なとここだわるんだな、朱天のダンナ」


「酒をうまく飲むには、それなりのコツっつうもんがいるんだよ」


「へえ、そんなもんかね。しかし、昨日ここ初めて来たけどよ、あのオッサン、あれでなんでうまい飯がつくれるかね」


 茨木が座りながら言った。


「たしかにな」


 朱天が首をひねった。

 朱天も、あの無口で無愛想でいかついオヤジのいったいどこにこれほど繊細な味覚は隠れているのか不思議でならない。


 筵の向こうから雑穀を炊く香ばしい匂いがただよってくる。


 すぐに、親父が雑穀と汁を持ってきた。


 朱天はひとくち汁をすすった。

 何で味付けをしているのかまるでわからないが、サッパリしているのにコクのある汁だった。

 ちなみに、以前朱天が味付けのコツを聞いた時、


 ――ダシ。


 と親父は短く答えた。

 ダシ、というものが朱天にはまるでわからない。

 この時代の日本人はほとんど誰も知らないだろう。

 なにか秘密の製法で作っているものらしい。


 ふたり、腹が減っていたものだから、飯と汁をもりもり食った。


「いや、汁もうめえな、ダンナ。で、中に入っているこの白くて歯ごたえのいい、噛むとうま味がじんわりとしみだしてくる、これ、なんだろうな」


「うん、考えないほうがよさそうだぞ」


 食い終わったところで、酒がきた。

 酒は、白いどぶろくだったが、強くすぐ酔える。

 茨木も酒が強いほうであるが、二杯ほどで気持ちよくなってきた。


 が、朱天は酔わない。


 三杯、四杯、五杯と杯を重ね、茨木はその白い肌がもう顔が真っ赤なのに、朱天は平然と呑み続けている。


「ダンナ、あんた、あかい天で朱天じゃあなくって、酒呑みって書いて酒呑しゅてんにしたほうがいいんじゃねえか」


「ははは、それもいいな」


 そして朱天は店の親父に、


「いいねえ、今日は銭はたんまりあるんだ、どんどんもってきてくれ」


 今日の路上パフォーマンスでずいぶん稼げたものだから、朱天もノリノリだ。


「けどよ」茨木が話はじめた。「俺達このままやってたら、けっこういい稼ぎになりそうだな」


「ああ」と朱天が答える。「俺達の琵琶と踊りがあったら、天下取れそうだな」


「銭かせいで、ダンナはどうする?」


「そうだな、まず、家を買うか、建てよう」


「えらく固いな」


「そこを足場にしてだな、仲間をふやす。仲間が増えれば、表現も増える。それだけ客を楽しませられる。銭も、がっぽがっぽよ」


「へえ、あんたにゃあ、先を考える知恵があるな。俺はダメだ。銭を稼いでも、こうしてたらふく飯をくって酒を呑むことくらいしか、思いつかねえ」


「ま、それも人としての正しい発想よ」


「仲間か。いっぱい増えたらいいな。俺はよ、この赤い髪だろ、どうしても仲間ってもんが、いままでできなかったんだ」


「俺がいるじゃねえか」


「あんたが初めてだよ、朱天」


「しんみりしやがる」


 朱天、二十三歳。

 茨木、二十歳。


 ふたりの青年の、波乱に満ちた人生が、いま始まろうとしていた。

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