第13話
決断の日まで、あと1日。私はとある連絡先にメッセージを送り、深呼吸をしながらスマホの画面を消した。
「今日はどうするんじゃ?」うつ伏せで寝転んでいる禅太が両足をパタパタとさせている。数百年も生きている割に仕草はいつも幼い。
「たらふく飯を食べる」私はそう言って支度を始めた。禅太は「偉大じゃな、食というものは」と若干呆れた表情をしていた。
私は早朝の風を感じながら、禅太と一緒に街の小さなカフェへと向かった。初めて訪れるカフェに若干の緊張感を感じながらも、私は期待とともに足を踏み入れると、まだほとんど客がいない静かな空間が広がっていた。窓側の席に座りメニューを開くと、温かいコーヒーとサクサクのトースト、ふわふわのスクランブルエッグが目に飛び込んできた。
「ねぇ、これどう?美味しそうじゃない?」と、私が禅太に尋ねる。彼はテーブルに頬を寄せながら、少し眠たそうに「何でもよい。どうせ人間の食べ物はよくわからん」とぶつぶつ言っていた。本当は美食家のくせに。
「じゃあ、もう私が頼んじゃうよ」と言い、モーニングセットを2つ注文した。店員が愛想よく「モーニングセットを2つですね」と確認し、軽やかな足取りでカウンターへ戻る。
やがて、香ばしいパンの香りと、湯気の立つコーヒーカップが運ばれてきた。禅太は、目の前に置かれた食べ物をじっと見つめている。「これほどのものを毎朝食べられるとは、文明の進歩も凄まじいものじゃな」と感心しながら、フォークを手に取った。
「長く生きてるからってジジくさいこと言わないでよ」と私は返し、コーヒーを一口飲んだ。
外の景色に目をやると、朝の光が柔らかく街を照らし、忙しそうに行き交う人々がなんとも平和に見える。この静けさの中で、大きな決断をしようとしている自分が、少しだけ現実から切り離されたような感覚を覚える。
禅太がフォークでスクランブルエッグをつつきながら、ぽつりと言った。「それで、どうするつもりなんじゃ?この先は」
「わからない」私は素直に答えた。「明日が決断のはずなのに、まだ何も決められない」
禅太は私をじっと見つめた。「焦るな。決断というものは時間とともに、自然に訪れるものじゃ。先の決断を案ずる必要はない」
私は少しほっとした。ホットコーヒーを一口飲みながら、ほっとした。
・・・・面白くないかな。
夕飯に一番の感動を取っておくため、昼ご飯は食べなかった。
私の、長年の夢。今宵、叶えてみせよう。
「随分と気持ちが昂っているようじゃが、何故?」と禅太が歩きながら首を傾げる。
「いいから着いてきて」と私は返し、ただただ歩き続けた。
歩くごとに、日中の賑やかな喧騒から少しずつ離れていき、目の前には心と静かな雰囲気が広がっていく。お目当ての場所は、控えめな看板を掲げた一軒家のような外観で、通り過ぎてしまいそうになるほど落ち着いている。
「ここだ・・」私は立ち止まり、店を見上げた。木製の引き戸と、格子窓から漏れる柔らかな灯りが、まるで別世界への入口を思わせる。「本当に、回らない寿司を食べる日が来るなんて・・」
「回らない寿司?」と禅太が不思議そうな顔をする。彼は回転寿司すら食べたことがないらしいが、それでもこの場所に漂う特別感は察しているようだ。
「うん、ここでは職人さんが目の前で握ってくれるんだって」と私は説明しながら、胸が高鳴るのを感じていた。庶民的な寿司屋とは一線を画す空間に、どこか緊張感すら覚える。
深呼吸して扉を開けると、店内に流れる和の音楽と、木の香りが鼻をくすぐった。小さな店内にはカウンターが十席ほどしかなく、その全てが目の前の職人と向かい合う形だ。壁には無駄な装飾が一切なく、落ち着いた木目と、ところどころに配された掛け軸が空間を引き締めている。
「いらっしゃいませ」と、低く落ち着いた声で迎えられる。店主の姿は年配で、白い割烹着に身を包んだ姿がいかにも職人らしい。「どうぞ、おかけください」
あらかじめ姿を見えるようにしていた禅太と私は深々とお辞儀をし、カウンター席に腰を下ろした。目の前には木の一枚板でできた立派なカウンターが広がり、その上にはきらびやかな寿司ネタが美しく並んでいる。目の前で光る新鮮な魚たちを見ただけで、唾液が溢れそうだった。
「すごい・・」私は呟き、心の中で感動を噛み締めていた。初めての回らない寿司。どんな味がするのだろうと期待に胸を膨らませる。禅太は私の隣で静かに座っているが、その目は職人の動きを興味深そうに見つめていた。
「まずは、お任せでよろしいですか?」と店主が尋ねる。私は無言で頷いた。完全にお任せで、寿司の真髄に触れてみたいと言う思いが強かった。
職人が静かに動き始めた。彼の動作は無駄がなく、まるで舞台の上で踊るダンサーのようだった。手元で細やかに魚を捌く音、包丁が木の板を滑る音が、店内に響き渡る。まずはヒラメの白身から。大きく深呼吸をして、彼が丁寧に握った一貫が私の前に置かれる。
「どうぞ、お召し上がりください」
「いただきます」と私は、初めての一貫を恐る恐る手に取った。その瞬間、手の中でふわりと溶けるような握りの感触が伝わってくる。ネタの艷やかさとシャリの一体感に、言葉では言い尽くせ無い期待が高まった。
口に運んだ瞬間、まずシャリの温度と酢の香りが広がり、それに続いて淡白でありながらも奥深い旨味を持つヒラメの味わいが舌を包みこんだ。「ん・・・・すごい」思わず声が漏れた。シャリの粒が一つ一つほどけていく中で、ヒラメの新鮮さが際立ち、その微妙な甘みが後を引く。
禅太も同じように口に運んだが、彼はやはり食べ物の味に関しては微妙な表情をしている。
「人間の食の奥深さというのは、やはり理解し難い・・しかし、これは格別な技術じゃな」と感心していた。
次に登場したのはトロ。見るからに脂の乗ったピンク色の魚は、光沢があり、まるで宝石のように輝いている。私はそれをそっと手に取り、再び口へ運ぶと、一瞬で口の中で溶けた。
トロの脂が舌の上で広がるたびに、豊潤な旨味が身体全体を包み込む。脂の乗りすぎた重たさはまったくなく、程よく甘さが残る。こんな感覚、回転寿司では一度も味わったことがなかった。
「顔がとろけそうじゃが」禅太が私を見ながら言うが、私は微笑まずにはいられなかった。「だって、こんなに美味しいんだもん」
続いて出てきたのは、鮮やかな色のウニ。プチプチとした見た目は、まさに海の恵みそのものだ。私はそれを慎重に握り、口に含んだ。ウニ特有のクリーミーさと、磯の香りが一気に広がり、まるで海の中にいるような感覚が広がった。
「なんて贅沢な・・」私は心の中で何度も感謝した。海の幸がこれほどまでに豊かで、口の中で踊る感覚を与えてくれるとは想像もしていなかった。
一貫ごとに、味覚の冒険が続いた。鯛、穴子、イクラ、いずれも一つ一つがまるで別世界のような味わいで、すべてが違う物語を語りかけてくる。カウンター越しに、職人が微笑みながら私たちの反応を見守っているのが感じられる。
最後に、職人が手渡してくれたのは卵焼きだった。まるでデザートのような甘さとふわふわの食感。締めくくりに相応しい、まさに「完璧」な一口だった。
私は心からの満足感に包まれ、軽く息をついた。「来てよかった・・」
「人間の食文化というものは、奥が深いものじゃな」と禅太も感慨深げに呟く。
「もう一生、忘れられないかも」
会計で伝えられた金額に私は驚愕したものの、一切後悔はしていなかった。
むしろ、この経験をこの値段で買えるのならば大歓迎である。
「幸せだった」私はお店を出て一発目にそう呟いた。
結局、美味しい食べ物を食べられるってことが一番の幸せなのだと私は実感した。
幸せになるために、仕事で出世する必要もないし、異性からモテモテになる必要だってない。結婚する必要もないし、語り継がれるような功績を残す必要だってない。
もっと早く、気づいていればなぁ。と思うと同時に、まだ遅くないんじゃないかという思いも浮かんだ。
「明日、全てを話すよ」と私が言うと、禅太は「うむ」とだけ返した。
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