第14話「キミは一人で生きてはいけないのかい?」

 図書室はがらんとしていた。それもそうだろう。生徒の大半は体育大会の練習に行っているのだから。

「おやおや、珍しいお客さんだねぇ」

 男の人の声がした。見ると、司書室で爽やかそうな青年がお茶を飲んでいた。

 栗色の髪、口元に湛えられた柔らかな笑み──司書ってこんな人だったっけ、と思いながら会釈する。

「どういうご用件かな? 貸出? 返却?」

「いえ。──待ち合わせ、です」

「そうかい。まあ、この調子じゃ誰も来なくて退屈だろうから、どうだい? オレと一杯」

「お酒じゃないですよね」

「ご覧のとおり、ただの紅茶さ」

 湯気の立つティーカップを持ち上げて示す。その動作一つとっても、優雅だ。

 一口、カップに口をつける。栗色の前髪がさらりと揺れる。その下に少し隠れた瞳は閉じられ、すぅ、と静かな呼気が零れた。

 口調は軽い気がするが、この司書は間違いなくイケメンの部類に入るだろう。

「名前、教えてください」

 少し現実離れしたような優美さに俺は思わず訊いた。

「ん、オレかい? オレは伏見ふしみ健一朗けんいちろうだ。よろしく」

「伏見さん、ですか」

「健一朗で構わないよ。ちなみに字は健康の[健]に漢数字の一、[朗らか]と書いて健一朗だ。そういうキミは何ていうんだい?」

「えと、咲原唯人です」

「唯人くんか。どういう字を書くのかな?」

 そこで、返答に詰まった。語彙がなかったわけじゃない。ただ、その語彙が、母の言葉を思い出させただけ。


「お母さんにとってはね、お父さんが運命の人だったのよ」

「うんめいのひと?」

「そう、あなたの名前にもなっているわ」


ただひとりの人……」

 唯ひとりの人。かけがえのない唯一の存在。俺の名前にはそういう由来があった。

 母さんのことなんて、久しぶりに思い出した。

 ほろ苦い思いを抱きながら、俺は健一朗さんに向き直った。

「唯ひとりの人と書きます」

「随分ロマンチックな名前だね。キミのご両親はよほど素敵な恋をしたと見える」

 その一言に、何か見透かされたような気がして、思わず一歩退いた。すると健一朗さんは朗らかに笑った。

「そう警戒しないでくれよ。オレはしがない図書室のお兄さんさ」

 イケメンが一気に残念にまで降格するほど胡散臭いことを言い、健一朗さんは俺を手招きした。俺は躊躇いつつも肩の力が抜けたような心地で、招かれるまま司書室へと入る。

「少々散らかっているが、好きなところにかけてくれ。今、お茶を淹れるよ」

「はい」

 散らかっている、という割には机の上はこざっぱりしていた。書類はファイリングされて棚の隅に立てられている。処理前らしい書類も種類ごとに分けてまとめられ、脇に避けられている。散らかっているどころか完全にティータイムモードだ。

 俺は無難に隅の席に座った。

「おやおや、そんな端でいいのかい?」

「はい。えと、すみません」

 お茶を受け取る。健一朗さんも自分の分を淹れ直し、俺の向かい側に座る。

「さっき、待ち合わせと言っていたね。誰とだい?」

 健一朗さんがそう切り出す。

「クラスメイトです」

 教室での一幕が脳裏に蘇る。──五十嵐さんはみんなの五十嵐さんよ! ──そう、五十嵐はクラスメイト。ただのクラスメイトだ。

「女の子かい?」

「はい」

「やるねぇ、もう女友達ガールフレンドができたのか」

「そんなんじゃないですよ」

 知実さんみたいなことを言うな、などと頭の隅で思った。

 でも、本当に違う。五十嵐はただのクラスメイトで、みんなから慕われていて、俺みたいな平々凡々としたやつなんて、普通は縁がない存在なんだ。

「何かあったのかい?」

 俺の表情から何か読み取ったのか、健一朗さんが訊ねてきた。俺はゆるゆると首を横に振る。

「別に、なんでもありません。大したことじゃないですよ」

「その女友達ガールフレンドと喧嘩でもしたのかい?」

「だからそんなんじゃないですって。喧嘩もしてませんし」

「そうかい? それにしては暗い顔をしているね。この時間にここにいるというのも訳がありそうだ。もしよければ、オレに話してくれないか?」

「でも、いいんですか? 俺、話し下手で、聞くに堪えない話になりますよ?」

「構わないよ。思うように話せばいい」

 健一朗さんは椅子に深く腰掛け、聞いてくれた。

 俺はぽつりぽつりと呟くように教室での出来事を話した。淡々と、事実だけを。

「──なるほど、その五十嵐って子がキミの女友達ガールフレンドなわけだ」

「だからそんなんじゃないですって」

「……いい子じゃないか、五十嵐サンは。責任感もあって、今時の子にしちゃしっかりしてる」

「そうですよね」

「それで、キミは何に悩んでいるんだい?」

 他人に訊かれても、それはよくわからなかった。

「わからないってことに悩んでいるのかもしれません」

「面白いことを言うね。まァ、思春期にはよくある悩みさ」

 健一朗さんは紅茶を一口飲み、続けた。

「キミは自分を大したやつだと思っていないだろう?」

「え? あ、はい」

「だからある意味で[逆]の存在であることを見せつけられて、その五十嵐サンと一緒にいていいのか、なんて、迷っちゃってるんじゃないの?」

 健一朗さんの言葉に頭の中で凍っていた何かが解けたような気がした。──俺はずっとそれを悩んでいたんだ。

「そうです、多分、それです」

 なんだか感動のようなものを覚えて答えると、健一朗さんは苦い笑みをこぼした。

「キミは素直な子だなぁ。さて、ここで一つ質問だ」

 健一朗さんが表情を引き締める。自然と俺も身構えた。

「キミは一人で生きてはいけないのかい?」

「え?」

「キミは一人で生きてはいけないほど、弱い人間だったかい?」

 それは、どういう意味だ?

 俺の疑問符だらけの表情に健一朗さんは苦笑いする。

「変なことを訊いてしまったね。まァ、お茶でも飲んで落ち着いてくれ」

 そう言われてティーカップに目を落とす。カップの中の赤みの強い液体に自分の顔が映るのをぼうっと見つめていた。

「心配しないでくれ。毒なんて入れてないよ。オレも同じものを飲んでいるしね」

「いただきます」

 ゆっくりとカップを口へ運ぶ。──味に変わったところはない。

「砂糖やミルクはよかったかい?」

「平気です。ダージリンですか」

「お、キミ、いける口だね。わかるのかい?」

「はい、まあ。……あれ?」

 唐突に視界がぐにゃりと歪んだ。

「やっぱり、何か、入れてた、んじゃないです、か……」

「言ったろう? 入れてないって。命の危険はないから、いいじゃないか」

「そういう問題、です……か……」

 暗闇に飲まれる直前、やたらはっきりと、しかし優しい健一朗さんの声が聞こえた。


「キミは強い。だから大丈夫だよ」


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