遺世界 Ⅱ
スタート地点から二つ目のフロア、この場所の脅威は去った。それでもまだ雷鳴が僕の頭で轟いて止まない。
カナージェさんは僕の反応により、些事をこなすように「ああ」と言ってそれを紹介する。
噂には聞いている。彼女が魔法蒐集家たり得る所以。右手に持つ分厚い書物こそ、カナージェさんを選ばれし者とする証拠品であり、遺世界を攻略するために欠かせないキーアイテム。
「これが私の扱う奇跡だよ。正式名称など無いから奇跡の書でも魔法蒐集本でもいい。この本にはこれまで何人もの魔法使いから奪った魔法が詰められていて、一頁めくるごとに様々な魔法を行使することができる。魔法癌の除去もこれを使う」
頁が開かない程度で三度宙を跳ねる緑色のハードカバー。この世に一冊しか存在しない奇跡の魔具。
魔法は僕が踏み込めない領域の話だ。疑念などまず発想としてない。
それでも疑問はある。カナージェさんは初めて僕にそれを明かし、遺法獣を簡単に焼殺してみせたけど、この遺世界に転移する際には『奇跡の書』を取り出さず、リビゼ先生が『チョーク』で描いたという魔法陣を(おそらく)魔力で起動させただけ。
奇跡でも足りない、異次元のライフトラベルを成功させるのにそれを使用していなかった。
「遺法獣の能力は魔法殺を為した犯人で決まると言っていましたね。つまり、あらゆる魔法を蒐集しているその本を活用すればどんな遺法獣にも対応できる」
「そう。もっとも、万能であっても全能ではないから過信し過ぎないようにしているけどね。現在の私は百八十種類の魔法を扱うことが可能だよ。この本が私の手元にあるうちはね」
「頼もしい。ですが、そうなるとここへ来るために実行した、ライフトラベルでしたっけ?あれはつまり……」
「うん。あれは私固有の魔法だ。魔法を行使するのにも色々な方法があってね。さっきの雷のように魔法陣を出現させて放つものもあれば、何もなしで行使できるものもある。そして、特製のチョークで描いた魔法陣を利用するケースもね。ライフトラベルは数ある魔法の中でも奇跡度が高いから、ああいう事前準備がされていると楽になる」
「奇跡度、ですか?」
「魔法の格だよ」
カナージェさんは僕にも理解できる程度で話を切り上げると、傍に浮かぶ灰色の小さな太陽に奇跡の書を預けた。未確認生物の十本ある腕のうち一本が蛇みたく伸びて受け取ると、余る手で大きな下目蓋を広げ、そこに本を詰め込んだ。
予想外過ぎて唖然とする僕に、カナージェさんは忘れ物に気付く程度の起伏で「ああ、紹介しておこう」と補足する。
浮遊する生き物は眠たそうにゆっくりと目蓋を閉じ、そこからパチリと巨大な眼を見開き僕を刺した。
「私の使い魔だ。名前はトースト君。荷物持ちに特化した特性で、神の時代の生き残りらしい」
「つまり……神さま?」
「分類するならね。見ての通り腕が十本あるでしょう?両手両脚分を除いた六本の腕……厳密には手に、私の荷物を預けている。奇跡の書の他にも旅のカバンや魔具を預けてあるんだ」
「両手も?」
「念のため空けてある。私が単独でライフトラベルを行う際にはこの子に君の代わりをやってもらっていた」
自らを説明されるトースト君の視線はカナージェさんに移り替わっている。カナージェさんとは長い付き合いのようで、僕もその一見不気味なシルエットにすぐ愛着を覚えた。
よく見ると、使える腕六本のうち四本の手が固く握られていて、二つの手が開けている。荷物を四つ預けてある、という意味かもしれない。
トースト君は徹底して静かだ。最後に僕を一瞥してから目蓋を閉じて消失した。カナージェさん曰く「コストが高いから表に出す時間は限定している」とのこと。
ここでの用は済んだと言わんばかりに長い一本結びを揺らすカナージェさんは、始まりと同様、フロア奥にある石造りの門扉を見据えた。
「被害者は精神的にも大人で、こだわりは強い方だった?」と、唐突に推理を始め、被害者の職業がスイーツ店の店員だったことを伝えると無言で置いていかれた。
このフロアでやることはもうない。静寂が続くことから僕にも分かる。
とはいえ、僕にはまだいくつもの疑問が残っている。
今回の魔法癌の除去にも、犯人の捜索にも直接は関係しない事柄かもしれない。あるいは地雷を踏む恐れも。
それでも彼女は僕の中で、クールながらも親切という印象が深く刻まれていて、遺世界素人ながらも辛うじて囮役にはなると証明できた今のうちに一歩踏み込んでみたいと思うようになった。
まだ高揚しているのかもしれない。洗い立ての心は陽の光に頼る屋内の遺跡ではなく、あの草原と大空にある。
こんな感覚はかつてないもので、つまりは制御の仕方がよく分かっていない。
「魔法癌は遺跡の中にあるんですか?外も含めて遺世界であるのなら、広い視野で考えるのが並の発想ですけど」
「確証はないが、一先ずそうと断定する。君が勝手に開いたこのフロアに遺法獣が潜んでいたことによる推測だけどね。遺法獣がいるということは、魔法癌が近くにあるということ。もしくはそれに繋がるヒントが隠されている、なんて傾向がある」
「前提として戦闘は避けられないんですね」
「勿論。けど、殺傷武器を忘れてきたからといって自分を卑下することはないよ。君の得物は少なくとも足止めには有効だ。敵が麻痺しているうちにさっさと次へ進んでしまえばいい」
体現するようにカナージェさんは歩き出し、先程と同じく門扉の前まで進んだ。
僕は言外の意図を汲み、急ぎ門を開きに行く。
そこで我慢できず、目の前の問題ではなく、カナージェさんへの関心に歯止めが効かなくなり、彼女が高効率で仕事に励む性格であると知りながらも、旅行くミドルブーツに待ったを掛けてしまった。
「今のうちに聞いておきたいことがあります」
「魔法癌について?」
「それはお任せしますよ。あの、カナージェさんはいつから魔法死遺体の処理に関わるようになったんですか?」
この問いはきっと、このタイミングではない。
それを承知で質問し、それを承知としてカナージェさんは相手してくれた。
「私の経緯が知りたいの?別に、私は幼い頃に遺体の心に飛び込む魔法と、魔法を集積できる本を与えられただけだ。詳しくは……今はいいだろう。私はドラゴンの時代を復活させないための抑止力として選ばれただけの普通の女に過ぎない」
「選ばれたって誰に?」
「神さまか、あるいはより大いなる存在。調べて分かるようなことではないと諦めて、偶然降ってきた才能ということにしてある」
ドラゴンの時代の復活はそのまま、今の僕たち、人の時代の終わりを意味する。
犠牲を顧みない強引な手段であれば、誕生したワイバーンの赤子を始末することも可能ではあるが、甚大な被害が出るのであれば元も子もない。
何より、魔法殺事件が一度に一件だけとは限らない。
もしもノースランズ州各所でいっぺんに魔法殺が為され、カナージェさんの処理が遅れるか、最悪カナージェさんに何かがあれば、それだけで終末へのカウントダウンは早まる。
魔法殺は、為した魔法使いにも死のリスクが及ぶ。その前提がありながらも実際に今日、前例のないスノーレイ国でそれは果たされてしまった。
平和とはあくまで平和のうちにしか信じることのできない、ツギハギで、辛うじて避けられてきた地雷原か。
この世で唯一魔法死した遺体を適切に処理できるカナージェさんが常日頃から感じるプレッシャーやストレスは、僕には計り知れないものだ。
「奇跡の書は元々歴史の教本だったんだよ。子供の頃、図書館で読んでいた本がそのまま奇跡の書にすり替わったんだ。その最初の頁を開くと、魔法を奪える魔法が既に付属されていた」
「それは……確かに、偉い誰かがカナージェさんに世界を救えと命じているようですね」
「かもね。仕方ないと割り切っているけど、私は好きで抑止力をやっているわけじゃないんだ。天命と言うんだろう、これは」
斜め後ろから覗いた彼女の相貌はどこか儚げに見えるも、エメラルドの瞳は尚も『先』を見据えている。
おこがましいのは今更だけど、きっと同情などするのは非礼極まりないことで、いくら今の僕でもそれは行き過ぎだと自重した。
それでも、その『先』へ行く前に、次のフロアへ進む門扉を開く前に知っておきたいことがまだある。
彼女の気持ちではなく、信念について。
「好きでやっているわけではない。できるけど、断ってもいい。カナージェさんだけが独りで苦労していますよね」
「そのために君がいる。非殺傷とはいえ使えるなら邪魔とは思わない。何より報酬も良いからね」
「すみません。貴女は本来民間人です。魔法殺事件にあたるのは僕らだけでいいはずでしょうに」
僕は言いたいことを添削せずに言い放ち、横開きの門扉に力を注ぐ。
すると、微妙に震える僕の右腕に、細く白い手袋が添えられて、まるで魔法でも掛けられたかのように力が抜けた。
「多分、その選ばれし者というのが私でなかったとしても、私は可能な限りでドラゴンの時代を阻止するために働いていたと思う」
「カナージェさん?」
今のクエスチョンは間違いだったと即座に気付く。これまでとは違い、彼女の鋭い眼差しには確かに落胆の念が混ざっていたから。……そうと分かるだけでも多少は救いようがあるかもしれないけど。
密着して重なる、互いの体の一部分。意識したのは僕だけ。
どこにでも転がっている話。しかし、僕としては今まで場の空気を読んで上手く逃れてこられたから経験が少ない。
一任された仕事でミスを犯してしまった時のような焦燥、上司役の彼女に間違いがバレた時の張り詰めた空気による息苦しさ。
「自分の生きている世界の問題だからだよ。今回の魔法殺事件も、世の中の理不尽や不条理、人類を不幸へ突き落とすネガティブの全ては、私たちが始めたことでなくとも、私たちが許し、続けさせていることに違いない。世界の安寧を揺るがす脅威、特に身の回りの厄介事というのはいつだって他人事にはならない。生きて明日を望むのならば、自らの全霊を以て問題解決に尽力するのが当たり前だ。使命や責任なんて関係ない。自分が動けば先に進む。できる力を持ち合わせているのなら、必ずやり遂げなければならない。
だから、私が自らこの役を降りることは決してない。何故なら私は――」
――この世界を愛しているから。
力仕事とは無縁に思える容姿の才女が、進んで門扉をスライドさせる。
ただ、地力はあまりないようで、ワンピースの腰を下げてもズズ……と石塊は鈍い。
すぐに手伝った。それが僕の役割だからだ。
迎えた三つ目のフロアも大体同じ構造だった。違いといえば壁の亀裂がストライプ柄のように細かく、陽光と影が交互となって目が疲れるくらい。
あとは、広間とはいえ巨大でふくよかな虹色のトカゲが三匹も控えているくらいの微差。
「私が死んだら、魔法死遺体を正しく処理できる人間がいなくなる。その時点でこの世のバッドエンドだ。もっとも……いや、今はやめておく」
「いやらしい引き方だなぁ。教えてくださいよ」
「力の継承に関する話だ。今の君には関係ない。旅の供に徹したまえ。私が正義の味方に徹しているようにね」
仁王立ちで腕を組むカナージェさんへ、やり返すように鼻で笑ってみせた。
両懐のホルスターから得物を同時に抜き、三匹をまとめて睨み、ジリジリと前に出る。カナージェさんが標的にならないよう、自らの攻守も考慮して慎重な戦術を考える。
ただ魔法死遺体の処理と遺世界のノウハウを弁えているだけではない。単純に、この世界で生きていく者としての責任感が僕とは比較にならない。
エリートの扱いを受けて、周りの人々の優しさに寄生してきただけの、実力だけで信念のない僕が、今まで出会った誰よりも崇高な彼女と正面から向き合うのが恥ずかしくなってしまい、逃げるように面を隠した。
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