魔法殺事件/二つの鼓動
回り階段を上って三階の廊下。スタスタと先行するカナージェさんは現場前の扉で立ち止まり、僕を窺う。
エメラルドの瞳が「入っていいのか?」と聞いている、あるいは僕の顔を立ててくれるつもりかは読めない。
僕は本来無用な役割であるのを一旦忘れ、遠方より列車を利用してやってきたカナージェさんを導くガイド役に徹する。
ここから先……以前に、事件が発生した瞬間から専門家は彼女一人だけとなっている。所詮僕らは対策部隊でしかなく、経験も実績もない。
「ここです。アパートや近所の住人は避難済みで、うちの鑑識が人払いの魔法を行使してくれていますから、鍵も開けっ放しにしてあります」
扉のハンドルを引いて現場の核に入る。
その瞬間、予期しない突風に吹き飛ばされる感じがした。
僕は比較的耐性が強い方だけど、封を外すと奥のフロアに残された遺体が放つ悪臭に身の毛がよだち、この世の終末、曖昧な地獄絵図が映像として脳に流れた。
専門家は魔法死した遺体に特殊な臭いなど無いと言っていたけど、あの言葉だけはどうにも信じ切れない。僕は今でも冷静なつもりだけど、泡のように沸き立つ不安に説明がつかないから。
ハンドルを握ったまま背後を振り返ると、カナージェさんは本当に何も感じていないように、違和感に苛まれる僕の瞳を見つめた。それが熟練者の余裕だからか、あるいは得意技でプレッシャーを無効にしているのかは謎。
ただ、彼女の澄んだ瞳はいつだって僕がどう動くのかを試しているように思えてならない。これまでの生涯で出会ったどの女性にも無かった審判の眼のようで、そのおかげで不安が和らいでいく。
焦る必要はない。専門家の態度を参考にするも、終焉を案じるとここに至るまでの鈍間を悔いた。
そんな、どっちつかずの僕の心に「慌てるな」と伝えるメッセージ性があるように思い込むと、怖れは完全に去っていった。
「入ります」
僕が扉を押さえているうちにカナージェさんも中へ入り、それから扉を閉め、改めて僕が先行してリビングへ。
数十時間前まで人が暮らしていたアパートの一室。灯りはどこにも点いていない。それでもリビングには陽が当たっているようで視界良好。その光を目指し、他の扉は通過していく。
狭いアパートのはずが、廊下はまるで長いトンネルのように人がいた空気というものが感じられない。悪臭に、ドラゴンの時代を呼ぶ気配にかき消されているからだろうか。
リビングへ通じる半開きの扉の前。聞き慣れた鑑識の「来たか」という一言が扉の向こうから聞こえて落ち着いた。カナージェさんも只者ではないけど、崖っぷちに長く留まってもなお堂々としていられる先生の低い声は頼もしい。
「すみません。お待たせしまし――」
『私』が嘯き、扉を開く。
その先の悪臭は更に濃厚かつ強烈だが、それ以上に、より分かりやすく人の心を揺るがす惨状が視界を侵す。
見慣れているとは言えなくとも、僕は平気。
しかし、ここは声を掛けておくべきだろうか?
彼女も人の死体は見慣れているはずだけど、忌避して当然のものに変わりはない。回り階段を上るあたりから無言になっているのだし、彼女が精神的に強い女性だというのは僕の偏見かもしれないから。
「プロフェッショナルなカナージェさんに対して失礼かもしれませんけど、惨死した遺体は平気ですか?」
「余程であれば吐き気止めの魔法を使う。遺体の状態については君の上司から聞いている。頭が無くなっているだけでしょう?」
「アハハ……。行きましょう」
……むしろ僕こそ彼女の信頼を損なうやり取りとなってしまった。
見栄や強がりではなく、まずい場合の手段まで用意しているのは流石だ。
とはいえ、若い女性にしては可愛げがないという認識にもなるのだろうか?
基本フリーランスで名声も望まず、それでいて魔法死した遺体を適切に処理できる無二の才女は憧れの的であり、捉え方次第では憎く映るのかもしれない。
でも、僕にとってはひたすらに新しい風だ。逞しい女性など沢山いるが、率直に『したたか』と思える若い女性はカナージェさんが初めてだった。
達観した姿勢と確固たる自信。外見も含めて、彼女を『魔法蒐集家・カナージェ』とする全てが、僕のつまらなさを誤魔化してくれている。
被害者は一人暮らしの二十代男性。リビングに進むと、テーブルにはビール瓶やつまみが中身露わなまま残り、椅子の背もたれに使い込まれた無骨なリュックサックが掛けられている。
目に留まるのはそれだけで、(一部を除き)全体的に整頓されている。トンネルでは感じられなかった人の生きた証が確かにある。
肝心の人の方は既に証を失くして、白いはずのシーツやグレーの毛布に鮮血を散らしている。
遺体は眠っている間に殺されたのか、ベッドで真っ直ぐ横になりながらも目を覚ますための頭部が欠けていた。
「リビゼ先生」
紅蓮の遺体を横目に、リビングの窓辺に立つ長髪の男に声を掛ける。男は僕を見て瞬きをし、それから僕に続くカナージェさんを暫し凝視した。
魔法対策特殊部隊アイスドッグス。僕を入れて五名で構成される少人数の部隊で更に特殊な境遇にあるのが彼。僕らと違いジャケットではなく白衣を重ね、鉄製の黒いマスクで口元を覆う、氷柱の先端みたく細くも確かな芯を伝える眼。
鑑識というのも、あくまで僕らの部隊で最もその適性が高く、本人も希望しているため任せているに過ぎない。僕の預かる部下はみんな優秀だけど、こういう鬱屈とした作業を好むのはリビゼ先生だけ。今回の事件の規模から僕とリビゼ先生のみで足りると、他でもなくリビゼ先生自身が進言してきて、僕がそれを採用した。
理由としては、彼もカナージェさんと同じく魔法使いで、他国で魔法殺事件の捜査・解決に貢献した記録を持つ真の対策員であるからだ。
リビゼ先生にはアイスドッグスの鑑識役だけでなく、時には医者だったり、魔法使いの学生を中心に相手する臨時講師の側面もある。先生呼びもそれらが由来。
そう考えると僕らと共に行動してくれている今はとても奇妙な状況なのかもしれない。
思えばリビゼ先生とカナージェさんは雰囲気が似ている。魔法死遺体を前にしても平静でいられる佇まい、それに基づく能力と経験値。魔法使いというのは職業ではないけど、その魔法を世の平和のために行使しながらも自らの欲求を大切にしているマルチな生き様は二人に共通して言える。
魔法殺を犯す魔法使いが悪ならば、彼らのようにそれを阻止するため尽力する善の魔法使いがいる。おかげでこの国、この世界は、実は常に危機的状況に置かれながらも、平和と信じ込むことができる。
光と闇の均衡が取れているからこそ、地上は平らで在れるのだろう。
「ルナヤ隊長、被害者の情報はここにまとめてある。事前に伝えた通り、犯人の手掛かりは皆無だがな」
「助かります」
「もっとも、手掛かりを探す手間など不要となるがね」
淡々とした喋りで表情も窺えないもう一人の専門家からフラットファイルを受け取り、目を通す。被害者のプライバシーや職業、人生歴、主な人間関係などが綺麗にまとめられている。流石はリビゼ先生。
これも不要なことかもしれないけど、二人の反応を気にして真面目なフリをした。しかし、魔法使い二人は僕にも、腐敗前の遺体にも関心を示さずお互いの顔を見合わせている。……もしかして、魔法使い特有の挨拶なのかな?
「カナージェ嬢、また会うことになるとは」
「ああ、リビゼ先生。私たちが再会を果たすということは、それだけ世の平穏が揺らいでいるということだ。望ましくない」
突き放すような言い分に鉄のマスクが鼻で笑う。
呆れながらもどこか愉快気なリビゼ先生も珍しいけど、彼と話すカナージェさんの態度は僕相手と違って少し厳しい印象を受ける。
そっちこそが彼女の素なのもしれないけど。カナージェさんこそ、年下には甘く接するよう心掛けているのかもしれない。
「相変わらずのようだな」
「お知り合いでしたか」
「ああ。昔、似た問題を対処する際にな。彼女のやり方も、魔法殺事件を解決するために欠かせない存在というのも認めてはいる」
「うん?先生が私を褒めるのか?珍しい。いや、彼の影響か?彼の部下などやっているほどだからな」
「放っておけ。私から見れば貴様も既に当てられているぞ。気付いているのだろう?その男の不足を」
難解な言い回しにより僕の頭上にクエスチョンマークが浮かぶも、カナージェさんはリビゼ先生の言葉を明確に理解しているからこそ「さてね」と濁した。
それからようやくカナージェさんは壁際のベッドに横たわる遺体に視線を向けた。
いや、厳密には頭を失くして首から血を吹き出した遺体ではなく、シーツや毛布の上、鮮血にも構わず描かれ、果ては壁まで伸びて遺体を包み描かれた丸い魔法陣に。白いインクで線を繋ぎ、ベッドとテーブルの隙間の床に描かれた同デザインの魔法陣に。
カナージェさんは腕組みしながらそれらに迫り、よく吟味してから頷いた。
それが、これから彼女が為し、僕が供をするために必要な準備というのは察知できた。
「先に描いておいたぞ。場所が悪くて神経を使った。遺体を移すのは貴様の意見を仰いでからにすべきと思ってな」
「これで良い。おかげで私のチョークを削らずに済んだ。おかげですぐにライフトラベルを始められる」
「私に出来るのはここまでだ。生憎、私に時間を巻き戻す魔法など無くてな。貴様はどうだ?」
「それは神の領域をも超越するレベルの話だ。ドラゴンさえも。私のコレクションにはない」
未だ魔法蒐集家・カナージェのみが可能とする魔法死遺体の処理法を僕は教えられていない。二人の会話に出た『ライフトラベル』なるものがその手段らしいが、見当もつかず首を傾げるのみ。
それから彼女の名前を呼び、被害者のフラットファイルを渡そうとするも断られてしまう。
「私は見ないでおく。プロフィールなんて役に立たないし、遺体の心理についてはこれから暴いていくから結構。答え合わせのため、君には今見た情報を覚えていてほしいけどね」
「ライフトラベル……」
「そう。こればっかりは口頭では伝えきれない」
ついて行けず、中間のリビゼ先生に助けを乞うも目を瞑られ、フラットファイルの返却を強要されるのみ。その際に「お前であれば問題ない」と励ましの言葉を貰った。
これから向かう何処か。そこは並大抵の常識で踏破できる世界でなく、平和を謳歌していたスノーレイ人にとってはより難問かもしれないけど、リビゼ先生がそう言うのならどうにかなると思えた。
足を引っ張る結果もあり得るだろう。それでも頼もしい専門家が同伴してくれて、リビゼ先生が背中を押してくれる。
であれば、もし僕に何かあっても事件は解決へ向かうと初めから決まっている。
「すぐに分かることだろうが、貴様の所感はどうだ?被害者は誰かに憎まれる人物ではない。職場の人間関係も良好、地方の両親やこっちで出来た友人とも不和は無いとされている。好青年そのもの、殺される理由はなかった」
「愛憎なんて計り知れるものじゃないだろう。それに、今回の事件は犯人の好奇心が全てと言える。魔法使いは何であれ魔法を用いて人を殺めてはならないと知っているはずなのだから」
「もしくは、私や貴様の知らない新たな脅威……」
「それもこれから分かる」
二人の間に事件現場らしく軽口の挟めない空気が流れる。
どちらも僕を相手にする時とは態度がまるで違う。口では犯人の無能を嘲るも、先を行く二人にはこれが未知なる災厄の始まりかもしれないという考えがある。
無知の僕と共有しても無駄だから、カナージェさんの口調はマイルドになるのか。
覚悟はできている。それはカナージェにも伝わっている。
しかし、こうも置いていかれては息苦しく、賢者二人は僕自身よりも早くその『空気』を察してみせた。
「早速始めよう。ルナヤ君、魔法陣の中に入って」
言われるまま、遺体の乗る魔法陣と繋がる空きの魔法陣に進む。中央で止まるも、カナージェさんも輪の中に入ってきたため、枠から外れないよう後退する。
同時にリビゼ先生は廊下へ出る扉に移った。
「この男を『遺世界』へ連れて行くのは余分なリスクだと未だに思っているが、少なくとも相性は良いらしい」
「異存はない。後はどれだけやれるかだな」
「僕は盾になればいいのですね?」
「負担を減らしてくれると助かる。これをやっている間は常に魔力を消費するのでね。私が戦闘に参加する回数をなるべく多く減らしてほしい」
「カナージェさんも戦うのですか?いえ、こっちは敵が何かも分かっていませんけど……」
「私のやり方はこの先で教えてあげる」
一人用の丸テーブルを間に置いたくらいの距離感。凛とした相貌に素人の問いを投げ掛けると、クールビューティーは今度は分かりやすく口角を緩めた。
またも綺麗だ、と言いかけた。しばらく二人で行動するのだから気を付けよう……。
僕より少し背が低く、二十代の女性でも細身のほう。それでいて本来、魔法殺事件が起きた際、誰よりも気丈に振る舞うべき人間は僕なのに、全く及ばないほど彼女の頼もしさは並外れている。
リビゼ先生も同じ意見らしく、隊長の僕ではなく麗人の一本結びに向けて「パトロールカーで待機している。人払いの魔法は永続ではない。私の遅れたランチタイムが済む頃には帰還してくれ」と言って部屋から出ていった。
独断とは到底思えない。僕が把握していないだけで、先生は既にこの場所での役目を果たし終えたのだろうから。
隊長とはいえ先人の経験にはあやかりたいし、何より僕は隊長に向いていない。リビゼ先生が隊員であるように、カナージェさんがアイスドッグスの隊長になれば良いのではないか?
魔法殺事件などレアケースなのだし、副業くらいの感覚で構わないはずだけど……。
「ルナヤ君」
「あ、はい」
「魔法死遺体を適切に処理する方法だが、まず遺体そのものには一切触らない。念のためこの場所に置いたままにしたのだろうけど、人払いが効くなら安置所へ運んでも良かったくらいだ」
(遺体を除いて)二人きりとなると、カナージェさんの言葉が響いて聞こえる。リビゼ先生も決して騒がしい人ではないけど、これだけ至近距離で瞳を逸らさず話されると流石に緊張する。
「私たちがこれからやるのは、遺体の心の世界……即ち遺世界へと赴き、『魔法癌』と呼ばれる悪臭と怪物誕生の原因を破壊すること。遺世界は何でもアリのダンジョンになっていて、魔法死した人間の心の色により特徴が決まる。そこを私と君で冒険するわけだが、聞いた話からして被害者はまともな人種のようだから、それほど複雑な作りではなさそうだよ」
「冒険、ですか?探検ではなく?」
「どっちでも。目的があるから探検とするか、旅立つことに意味を見出すから冒険とするか。今、君が望むのはどっち?」
「……考えながら進んでみます」
カナージェさんは僕の『不足』を見透かすように嘲笑し、大きな目蓋を細めた。
僕の詳細までは知らされていないはずだけど、とにかくこの女性には敵いそうにない。善意であるのなら、彼女の言葉は全て肯定していこう。
「始めよう。ルナヤ君、私の瞳の奥を見つめて」
「分かりました」
手袋越しでも細くて白いと分かる麗人の指差す眼を凝視する。……これ、中々の試練かもしれない。
「それから臍の位置。五秒見続けて。それから目蓋を閉じる」
美しいものを映す視力に闇を被せる。美しもの自体がそう命じるのだから惜しくはない。
「臍から位置を高めて、私の心臓を想像して。曖昧でもいい。ただ私の心臓とはこういうものだという妄想で思考を満タンにするんだ」
思いのほか雑とも取れる指示につい乾き笑いを零してしまったが、試しにやってみるしかない。
勿論カナージェさんの心臓を拝謁した過去などないけど、とにかくありきたりな心臓という一個を思い浮かべて、それがカナージェさんの物であると信じ込む。
カナージェさんが何をしているのかは分からない。それでも何だか、生まれて初めて誰かと深く繋がることが出来ているような気になれて……。
――たったこれだけの、怪しい儀式も同然なカナージェさんの指導により、僕は既にかなりの感銘を受けてしまっていた。
突然体が軽くなった。
今なら何でも出来る。僕は神さまになった。常人より鈍いながらも確かに予感していた人の時代の終焉など最早どうでもよくなるほどの域に達した。
怖れるものは何もない。
この自信が、偉大な才女の手を借りたからではなく、■によるものであれば何て素敵な話だろうか。
「もうすぐだルナヤ君。やはり君は……いや、今はよそう。さあ、力がみなぎってくるのを感じているだろう?そのままでいい。私の心臓と興奮する君の心臓の鼓動が重なる時が来る。願うんだ。私と君の命、世界には最早それ以外に何もないと信じて――」
「それは……」
「大丈夫。出来る」
惑いを強引に忘れ去り、暗闇がホワイトアウトを起こす。
軽いと感じた体が根元から消失した。
思わず目を開いてしまうも𠮟られることはなく、眼前のカナージェさんは慈愛の微笑を残して消滅する僕を見送った。
「行くよ。同情しない私と、愛を知らない君にしか作れない救世譚がある」
消滅が誤解というのはすぐに分かった。
魔法陣上、僕はカナージェさんと一つになった。
それは、共同での遺世界転移が成功したことを意味する。
温度も、湿度も、間取りも別次元な世界を僕は一人で歩いていく事がないと分かり、心の底から安心できた。
転移直前とはまるで違う、自らの起動させた
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