第10話
目眩がした。目の錯覚が引き起こした、タチの悪い勘違いだと、そう思った。そう思いたかった。しかし、何度目を瞑り、何度目を開いても、そこに映る『如月鏡花』の文字は、変わらずそこに存在している。
幾度もこれは夢だと、そう思い意識を覚醒させようとした。しかし、黒名が覚醒することはない。それもその筈で、彼女はずっと覚醒している。だがそれを、彼女自身が否定したがっている。現実ではないと、無意識下でそう思い込もうとする。それまではまだ僅かにあった身体の感覚も、足から伝わる雪の冷たさに狂わされていき、余計に現実感が薄れる。
意識を手放そうとする。しかし、そうは出来ない。彼女の視界にはまだ、如月の名札が映っていた。それが彼女の意識を此処に留める。幾千幾万と現実逃避とその逆を繰り返し、思考は鈍化の一途を辿る。そうした脳は、ある一つの決断を下そうとしていた。その頃にはもう、理性は働いていなかった。普段の、皆が知る『黒名翠』はそこにはいなかった。
彼女は震える手を伸ばし、如月の遺体に触れる。血に染まった如月の身体は雪と見紛うほどに冷たく、そして軽い気がした。そこになくてはならない、大事な何かが抜け落ちたような、そんな感覚。そうして、彼女は気づいた。
———嗚呼、彼女はもう居ないのか。此処にあるのは、無機質な肉体だけなのだ。
そう思った時、彼女の手にあった震えが収まった。足から失われていた感覚は戻り、彼女の身体を立ち上がらせる。そしてその彼女は、如月だった肉体を抱え、無機質な目でそれを見つめている。何も言わずに振り返ると、彼女はそれを抱えたまま、冷え切った街の帰路に着いた。
その日から、彼女は学校に行かなくなった。また一人暮らしであることをいい事に、誰にも訳を告げることなく姿を消した。如月に続いて彼女もが突然行方を眩ませたことで、学校内では騒ぎになりつつあった。だが、彼女がそれを知る由もない。そもそも、今の彼女にとってそんなことは二の次のことだろう。
―――如月を殺した犯人に、復讐をする。
それさえ出来てしまえば、他に願うことはない。破滅的で、同時に酷く魅力的なその思考は、よく彼女の心に染み込んだ。復讐をする。それが、彼女を突き動かす唯一の原動力だった。
とはいえ、一女子高生が復讐を行うには些か限度というものがある。どうあがいても、彼女は女子高生の域を出ない。つまりは、共に罪を犯してくれる、共犯者の存在が必要となる。世の中には、『復讐代行』というものが存在する。依頼主から金銭や何かしらの報酬を対価に、依頼主の復讐を代行する、そういった者だ。
もちろん、これは公に認められるようなものではない。理由がなんであろうと、他者に危害を加える。ものによっては嫌がらせや悪戯として処理されることもあるだろうが、その殆どは法に引っかかる。更には前払いを利用した詐欺さえある。正気の者なら、決してこんなものを頼りにはしないだろう。
だが彼女の場合は違う。破滅的な思考に陥っていることに加えて、後先考えていられない状況。そして被害者心理。正確には彼女は被害の影響を受けただけに過ぎないが、その影響は彼女にとって甚大だ。
多少、いやかなりのリスクを負って尚、彼女は『復讐代行』もといその類のものを利用するだろう。それだけ、彼女は精神的に追い詰められている。
そう決めてからというもの、彼女はそれらのサイトや登録人物を見て回っていた。そういったサイトに登録するのは大抵が探偵やそういった仕事柄の者が副業として行なっている。復讐の内容にもよるだろうが、少なくとも復讐先を突き止めるまでは行くことが出来るだろう。最低限、そこまで出来れば十分だ。
彼女はまず、条件を絞って検索を始めた。彼女の住む地域に近くて且つ、ある程度の信頼を置ける個人情報を提供している者。そして何より、彼女が犯罪を犯そうとしていることを黙認する、共犯となってくれる者。報酬は彼女が親に頼らずに支払える物全て。場合によっては貞操を散らせることも厭わない。正真正銘、人生を賭けた復讐だ。故に依頼相手は慎重に選ばねばならない。
事実、彼女がこのサービスを知ったのは復讐を決めた後だ。知識など無いに等しい。
慎重に行動するに越したことはないだろう。とはいえ、時間があまりないというのも事実。時間をかけすぎるのは、自分の首を絞めることと同義だ。出来るだけ、早くに行いたい。この感情がなりを潜める、如月の死が発覚するその前に。
電気もついていない薄暗い部屋の中で、彼女はすぐ隣に視線を落とす。そこには、彼女が普段使ってる布団が敷かれている。しかし、それを使うのは彼女ではない。彼女の布団が、まるで包み込むようにしてそこで眠っているのは
「……鏡花」
穏やかな顔をして眠る、如月鏡花の姿。如月の身体には傷こそ残っているものの、先程までその身を染めていた赤は見当たらない。彼女が如月についた血を丹寧に拭き取り、布団に眠らせたのだ。その血が如月から出たものだと思うと、彼女はずっとどす黒い感情に呑まれそうになった。しかし、それにはまだ早い。
―――この感情は、その時まで残して置かなくては。
そんな予感めいた感情が彼女を取り巻き、思考をクリアなものにさせる。動機は彷彿と、実行は淡々と。復讐を確実なものにさせる為に、彼女は敢えて私情を抑える。しかしその裏には、強い私怨や憤りが確かに渦巻いている。
「…ごめんね」
誰に言うでもなく、彼女は呟く。彼女としても思いがけず発した言葉で、それは真意を告げることも無く空中に霧散する。一体何だったんだろうと、頭を逡巡させる。しかし結局分からず、頭はまた『復讐代行』のことに切り替わる。
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