第8話
一人の少女は、目を覚ます。何か夢を見ていたような気がするが、それが何だったかは思い出せない。モヤモヤとする気持ちを抑えながら、布団から抜け出す。
「おはよう御座います」
そう言いながら、彼女はリビングの扉を開く。
そこに返事はない。それもその筈で、彼女は今一人暮らしをしている。親元を離れ、遠い高校に通っているのだ。
こういったことが、時々起こる。
高校に進学してから一度目の冬。もう高校の雰囲気にも、一人暮らしにも慣れてきている。なのだが、どういう訳か。朝目を覚まし、リビングに向かうとそう言いたくなる。
それだけなら、実家での癖とも言えるのだが、酷い時は帰宅時にも言いかける。それも「ただいま」ではなく、「おはよう御座います」と。
当然、高校の友人には不思議がられる。というより、もう心配している。「何か悩みでもあるのか」、「辛いことでもあったのか」と。
そんなことを聞かれれば、それはもちろん無い。むしろ、親元を離れた寂しさは少なからずあるにしろ、今の一人での生活を彼女は楽しんでいる。元々一人で過ごすことが好きな方で、それは家族に対しても同じだった。
反抗期という訳でもなくて、家族との関係は極めて良好だ。只純粋に、一人の時間が好きだったというだけの話だ。
そして不思議な点は、もう一つあった。それは、不意に口にする言葉が、必ず敬称のものであったことだ。「おはよう」ではなく「おはよう御座います」、「ただいま」ではなく「ただいま帰りました」。
それが実家での癖ならまだ分かるのだが、彼女が実家でそう口にしたことは一度もない。精々が、中学での敬語の授業で数回口にした程度だ。
そんな言葉が、不意に口から漏れてくる。それが当たり前であったかのように、洗練された程に滑らかな口調で現れる。
生活に実害は出ないので彼女は放置しているが、周りからは一度精神科を受診してはどうかと時々勧められる。彼女自身はそこまで深刻に捉えていないので「そんな必要ない」と笑って流しているが、不思議には思っている。
そうして今朝も、一人考えを巡らせながら、学校の支度を済ませる。彼女の通う高校のある地域の冬は、そこそこ厳しいもあり、彼女は制服の上にグレーのコートを羽織っている。
これは、夏休みに実家に帰省した際に、両親から貰った物であり、愛用している物である。あの時は夏になんて物を送ってるんだと思ったものだが、今思うと両親には感謝しかない。これが無ければ、ここでの冬は越せなかっただろう。
加えて、彼女はそういった物に疎いこともあり、おそらく機会が無ければ自分で購入することはなかっただろう。どれだけ寒かろうと、手持ちの物でどうにかしようと考えたに違いない。
それを知っての行動だったのかもしれない。そしてそれは、結果良い方向に働いたと言って良いだろう。両親の献身には頭が上がらない。
玄関の扉を開き、賃貸のマンションを出ると、外には雪が降っていた。もう既にくるぶし程まで雪は積もっており、足元から凍るような感覚がした。幸い、雪が靴に染み込んでくることはなかったが、それでも足を地につける度、雪の冷たさが伝わった。
「はぁ」
と息を吐く。目の前で結露した空気が、白くなってその姿を現す。息を吸い、吐いていることが如実に伝わり、不思議な気分になる。『生きている』という事実が明白になる。当たり前だが、当たり前ではない。
哲学じみた考えが、彼女の頭の中を巡る。しかし、それが真理なような気もする。
雪が積もっているせいか、いつもに比べて、隣を走る車はゆっくりだ。いくらスタッドレスタイヤやチェーンをつけて雪対策をしようと、普段に比べて危険なことには変わりない。
多くの車が徐行し、安全を期している。
そんな時、とある一人の姿が目に入った。
道路を挟んで反対側の道を歩いて進む、一人の男性。雪に同化するように輝く白銀の髪は、しばらく手入れしていないのか、乱雑に伸ばされている。しかし不思議と不潔な印象は抱かず、むしろ自然美というような、そんな雰囲気を与えていた。
少し薄めのコートを羽織っており、見ている彼女は寒そうに感じたが、当の本人にその様子はなく、平然としている。
他の人とはその程度の違いしかなく、それ以外に目を引く要素は見られない。しかし、彼女の視線は彼に向けられていた。まるで、何か違う生き物を見つけたように。
彼女の目には、そう感じられた。
しばらくして、その青年は彼女の視界から外れ、道路沿いにあった古書店に足を運んで行った。後ろ髪を引かれるような思いだったが、遅れる訳にも行かず、その場を立ち去った。
校門が見える頃になると、見知った顔が彼女の前に現れた。
「おはよっ、翠」
「わっ」
後ろから彼女に抱きついて来たのは、如月鏡花。如月は彼女に初めて出来た高校の友人で、春に仲良くなって以来、いつも一緒に過ごしている。
「おはよう、鏡花。あんたは相変わらず元気だねぇ、月曜日だってのに」
如月の行動にはもう慣れたのか、彼女がそれに一々リアクションを返すことはない。一方の如月は、それがスルーされたのが不服なのか、頬を膨らませる。
「ちょっとぉ。久しぶりに会った親友に対する一言目がそれぇ?」
彼女はその言葉を苦笑しながら聞き流す。
「久しぶりって…一昨日会ったばかりでしょうが」
如月は表現が少しオーバーだ。実際、二人は土曜日に遊びに出掛けている。朝から散々遊び倒し、結局如月に流されるままに丸一日エンジョイした挙句、その二日後には久しぶりと言って彼女に抱きついてくる。
お前はハムスターかと、声を大にして叫びたくなる。
「会ったばかりって…もう丸一日以上会ってないんだよ?寂しいに決まってるじゃん!」
―――前言撤回。こいつは正真正銘のハムスターだ。
彼女は内心で如月に対する評価を訂正する。しかし、如月がこうなったのにも理由がある。それは、彼女が如月を甘やかしているからだ。彼女にその自覚はないが、側から見れば一目瞭然な程度には如月を甘やかしている。
答えを写させてと言われれば写させ、弁当分けてと言われれば分ける。その程度の小さなものから、時には彼女の部屋に一泊置いてと言われれば居たいだけ居させるという風に、如月のさせたいようにさせている。
甘やかすというより、可愛がっているという方が正しいだろうか。彼女は如月のそんな姿を見て、日々の活力を補っている。事実、如月との関係が進展するまでとは、彼女の様子は目に見えて違う。
高校へ入学したてということもあっただろうが、それを抜きにしても、如月鏡花という存在が彼女へ与えた影響は多大なものだ。故に、如月は彼女に甘えたがるし、彼女もまたそれを拒まない。
それは入学して一年も経過していないにも関わらず、『甘すぎる百合カップル』としてその名を馳せるには十分だった。
当の本人たちはそれを知らないし、百合カップルという自覚もない。只、今の二人が幸せであることは、周知の事実であるだろう。
「この寂しさを埋めてくれるのは翠しかいない!今日もよろしくね、翠っ」
如月は満面の笑みで、恥ずかしむことなく口にする。彼女は気恥ずかしげな素振りを見せるが、当然拒むような真似はしない。
「はいはい。分かったわよ、鏡花」
控えめな笑顔で彼女は言う。朝の微笑ましいこの場面を、密かに楽しみにしている生徒がいることは、言うまでもない。
クラスに着くと、仲良く入っていく二人は周囲の目を集める。それは男女関係なく、どちらの目も自然と彼女らの元へいく。
「相変わらず仲良いな、あの二人」
男子の一人が口にする。特に表情を変えることもなく言うのは、嫌味を言っているからではなく、この光景が定着している故だ。クラス内ではもう満場一致で彼女らの関係は成立しており、この光景を守ることが、クラス内での暗黙のルールとなっていた。
過度に二人に接触することなく。されど、二人を省くことなく。クラスは異様な形で、固い団結力を発揮していた。それが功を奏してか、クラス事となると、彼女らの所属する一年七組は圧倒的な結果を残していた。
二人の知らぬところで、思わぬ形で、それは影響を及ぼしていた。
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