第7話
「……えぇと。つまり、私は十六夜さんに血を吸われたことがある。そういうことですか?」
黒名が尋ねると、彼は首肯した。なるほど、確かに驚くような話だと彼女は思った。只、彼女にその記憶はなく、それが本当の話かは分からなかった。
それに、仮にそんな経験があったのなら、出会った時点で思い出すだろうと思った。非現実的な出来事に加えて、十六夜の特徴的な容姿。むしろ、忘れる方が難しいと、そう思った。
「…それは、本当に私なんですか?…十六夜さんには悪いんですが、私にはそんな覚えがないんです。その、勘違い、ではないですか?」
故に、彼女がそう考えるのは不自然ではなかった。聞いてはいたが、それにしても話が飛躍しすぎている。そう彼女は言う。それは、普通の思考だった。
だが彼もまた、黒名のその考えを否定した。
「残念ながら、勘違いではないのです」
「では…それを証明できるものは、あるんですか?」
そう彼女が言うと、十六夜は口を噤んだ。一瞬、証拠がないことを期待した。だが返ってきた答えは、そうではなかった。
「証明する手段は…あります」
「ある」と答えた彼の表情は、あまり気乗りしないというような、そんな顔をしていた。危ないことなのかと彼女が聞くと、彼は否定した。
「危険は伴いません。仮に証明したとして、貴方にも、私にも何か危害が及ぶことは万に一つもありません」
ですが…と、彼は言葉を続けた。
「時には、危害を被るよりも良くないことはあるのです。…それが、今証拠を提示するということなのです」
その言葉に、彼女は取っ掛かりを覚えた。
「『今』ということは、この先でもその機会があるということですか?」
彼女の疑問に、十六夜は肯定した。だが、それも何処か濁すような言い方だった。あるにはあるが、それもあまりお勧め出来ない、ということだった。
「私からは、もうこれ以上のことは言えません。あとは、貴方の判断に任せる他ありません」
そう最後に言って、彼は口を閉じた。だが黒名としては、まだ判断を下せるような状態ではなかった。
まず大前提として、黒名は無条件に十六夜の言うことを信用している訳ではない。もちろん、彼が『少なくとも人間ではない』など、否定出来ない要素があることは彼女も分かっている。そこから付随して、『吸血鬼である』ことも、おそらくは本当のことではないだろう。
しかし、あまりにも不確定要素が多すぎる。
まず、十六夜が言う『良くないこと』について。危険は伴いと、彼は言った。ひとまずそれを真実だと捉えるとしても、それ以上だというのは何なのか。
更に、そこまでの可能性を踏んでそれを実行したとして。それは本当に知る価値があることなのか。どの道、彼女はこの先の出来事でそれを知る機会があるという。しかし、そこも不確定要素だ。
そして最も大きな懸念事項が、彼が一貫して『嘘をついている』という可能性。初めから黒名のことを知っていたと彼は言った。ならば、二人が出会う前から何かを仕掛けていた可能性すらあり得る。『吸血鬼である』ということも、『少なくとも人間ではない』ということでさえ覆うる。
そこまで言ったら何も信じられないとは言うものの、では逆に何を信じれば良いのだという話でもある。もちろん彼女も、全てを否定したい訳ではない。
今まで過ごしたことや、その中で培った関係を思えば、彼を否定することは難しいことだ。出来るなら信じてあげたい。何より、十六夜は何一つ強制することなく彼女のことをここまで連れてきた。今も、出来うる限りの情報を提示し、その最終的な判断を黒名に委ねている。
ならば、とも彼女は考える。しかし、その言葉は喉元まで出かかっても、声になることはない。只そこで、彼女はとあることを思い出した。
今思うと、黒名は十六夜と出会ってから、直感的な思考に陥ることが多かった。そしてそれらは、不思議と悪い方向に転がることはなかった。そして、彼は黒名と過去に出会ったことがあると言う。
―――もし仮に、本当に今は忘れているだけで、心のどこかでは彼のことを憶えていて。その心が、今までの私を動かしてきたのなら。
そんな、無根拠な考えが彼女の頭の片隅に宿った。それは、今までのどれよりも強い意志を持った、彼女の直感だった。そして、彼女ももう、それを拒む気は無かった。
「……お願いします」
透き通るような、少女の声が部屋に響いた。その声には、一切の迷いがなかった。
「…本気ですね?」
男が、再三確認するように尋ねる。何度もしたこのやりとりだが、今は言葉の重みが違う。だが、少女はそれに怖気付くことなく言った。
「―――はい。本気です」
男は小さく「分かりました」と呟くと、少女の元にゆっくりと近づいた。
男は出来るだけ不快感を与えぬよう、優しく少女の髪を掬い、その真っ白な首元を露わにさせる。その首元に、男は惹かれるようにして近づき、牙を突き立てた。
男の行動に、少女は拒むことなく目を伏せ、ゆっくりと意識を手放した―――。
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