第5話

「何か飲みますか?」

 十六夜は静かに、そして語るように、彼女に声をかける。

 あたりはもう暗闇に染まり、冬の寒さが包み込んでいる。

 閉館時間はとうに過ぎているが、黒名は立ち上がることなく、古書店にある一室に腰を下ろしている。

「…お茶を、お願いします」

 僅かに間を空けて、黒名は答える。

 その声には普段ほどの覇気がない。とはいえ、それもよく聞き分けなければ分からないほどの僅かな違いに過ぎない。彼女の友人は、それには気が付かなかった。

 十六夜は「分かりました」とだけ口にし、その場を後にする。

 彼が去った後の一室では、少女の、小さな呻き声が聞こえた。

 「———どうぞ」

 少しして、十六夜は真っ白な湯気をあげるお茶を手に戻ってきた。

 それを黒名の前に置くと、彼女と机を挟んで正面に座る。

 そこまで終えると、彼は徐ろに本を取り出し、それに向かう。

 黒名は彼を一瞬視界に入れ、またすぐに逸らす。

「…どうして」

 彼女の小さすぎる呟きは誰の耳に届くでもなく、空中に霧散する。

 ここ最近、彼女は頻繁に此処を訪れていた。

 いつも黒名を十六夜が迎え、誰も訪れることのない静かな店内で、二人は時間を共にする。

 それは非常に穏やかな時間で、黒名はその時間を好いていた。他の誰にも出会わない静かな一室で、彼と過ごすこの時間は、もう彼女にとってかけ甲斐のないものになっていた。

 だからだろうか。

 黒名は、此処に来ると自然と本音で語ることが多くなっていた。

「…どうして、私を帰らせないのですか?」

 普段は口にすることのない、彼女の本音の言葉。

 十六夜はそれを耳にすると、視線を彼女の方へ向けた。

 黒名は視線を合わせようとはしない。それは、拗ねた子供のするそれに似ていた。

「帰りたいのですか?」

 彼は、黒名に只そう問う。

 その問いに、黒名は首を横に振る。

「なら、それが理由です」

 それで終わったつもりだったのか、彼はまた本に視線を落とした。

 だが、黒名の中ではまだ解決していない。

「そんな…当たり前、みたいに」

 言葉に詰まりながら、彼女は話す。

 帰りたい訳ではない。それが本音だ。しかし、十六夜は嫌な顔一つすることなく彼女のことを受け入れてくれる。それが彼女にとっては初めてのことで、分からないのだ。

———むしろ、否定してくれたらいい。

そうとさえ思っていた。そうすれば、また我慢をするだけで済むのだ。

「十六夜さんは、私を此処に置いてくれる。それはどうしてなんですか」

 十六夜は、すぐには答えなかった。その間の彼の姿は、何か葛藤しているように思えた。

 やがてして、彼はゆっくりと口を開く。

「……これから見ることは、他言無用です。それを約束してくれますか?」

 彼はそう言った。黒名には、それが何のことなのか、一切分からなかった。只、ここで断れば、この関係は終わってしまうという予感があった。

 それだけは、嫌だった。

「…分かりました」

 彼女がそう言うと、彼は「ついて来て下さい」と言って、その場を後にする。

「あっ、待って下さい」

 慌てて立ち上がると、彼女は十六夜の後を追った。

 彼は、その間一言も話さなかった。重々しいその時間は、黒名には何時間にも感じられた。実際は数分にも満たない、僅かな時間。それは、これから語られることの重大さを物語っているようだった。

 そうして一つの扉の前に辿り着くと、彼は足を止め、彼女の方を振り返った。

「…分かっていると思いますが、ここで見たこと、聞いたことは全て機密事項です。信じる信じないに関わらず、第三者への口外は決してしてはなりません。良いですね?」

 彼は再三確認するように言った。それだけ、重要な話であるのだろう。十六夜は、いつにも増して真剣な眼差しをしていた。

 そんな彼の姿に、黒名は心を揺さぶられる。

一体何を見せられるのか。今までにない緊張感が、彼女を襲う。今すぐにでもこの場を離れたい。そういった感情が、彼女の中を駆け巡る。

だが、心の何処かでそれを拒む自分がいた。それは彼女の意思というより、反射に近いようにも感じた。そして、意を決して口を開く。

「…はい、大丈夫です。約束します」

 そう黒名が言うと、十六夜は扉に手をかけた。

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